キクチ・ヒサシ

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黒澤明

黒澤明「用心棒」(1961)対立、葛藤、矛盾の上に立つ英雄意識。トリックスターを超えて。

黒澤明「用心棒」は1961年に公開され、翌年には続編にあたる「椿三十郎」(1962)が公開されている。一般に、黒澤明の「用心棒」と呼ぶときには、この二作の三十郎ものを指すことが多い。この二作に共通するのは、二つに分かれた敵と味方の間を両方行き来する英雄像として、三船敏郎演じる用心棒が現れることである。黒澤明映画全三十作品を振り返るのならば、初監督作品「姿三四郎」(1943)と「続姿三四郎」(1945)が、この三十郎ものに近い構造を持っていることを、黒澤映画ファンは気付くに違いない。姿三四郎においては、対立するということについて主人公は疑問を持っている。姿三四郎は強い柔道家である、英雄である。同時に、対立して戦うということに問いを持っている。彼は、東洋の叡智の象徴である和尚との対話を通して成長し、無心で戦うことを知り、あるいは、戦うことは統一のための過程であると知る。矛盾と葛藤、わたしとあなたの間、味方と敵、東と西、意識と無意識、二つに分かれた間で、戦いと対立が起こることについて、姿三四郎は、問いを持っている。それは、第二次世界大戦の最中に公開された映画としては、当然の主題とも言える。なぜ人間は、二つに分かれて争うのか、対立するのか、戦うのか、そのような問いは、黒澤明晩年の「」(1985)にまで引き継がれていく、黒澤の主題のひとつである。姿三四郎は、戦いに悩む男だった。「用心棒」の三十郎は、敵と味方の間、対立をすり抜ける智慧を持っており、それは「七人の侍」のトリックスター、三船敏郎演じる菊千代が、英雄像に近づいていく物語だった。やがて、それは、三船敏郎と黒澤明の最後の映画「赤ひげ」(1965)で救世主像として結実し、黒澤明が言うように「やりきった」二人は、ここで袂を分かち、それは、黒澤映画の中期時代の終わりであり、人類史に遺る輝かしい宝石となるのだった。

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「用心棒」と黒澤明映画の関連。二つに分かれた争いの上に立つ英雄の意識

「用心棒」の三十郎は、争う二つの勢力の間で、物見やぐらに立って、見物する。彼は強い英雄であるから、両方の組織共に、彼を雇おうとする。三十郎は、対立を眺めて笑ってさえいる。対立する二つの組の間にあって、そのどちらにも真の意味では肩入れしていない。争いの中にあって、自由な意識を持っており、それを見物し、計略によって操りもする。英雄といっても、まだそれはトリックスターに近い。いたずらものなのだ。「姿三四郎」は、対立や戦うことに対して疑問を持っていたが、自らの外側に視点を取ることは出来ない。一方「用心棒」の三十郎は、もはや対立や戦いというものに、心が入っていない。その外側に立っている。その為、彼は他の者と比べると自由に見える。彼が唯一、心が入った行動を取ったのは、争いに巻き込まれた貧しき者を助ける場面である。ここに「赤ひげ」における魂の医者の姿が仄見えるのだった。わたしたちは、少し社会に出てみると、驚くほどの対立があることに気が付く。社内で、職場内で、会社同士、親戚同士、個人同士、様々な、敵と味方に分かれた抗争が、表立って、あるいは裏で行われているのを目にする。人々は、自らの立場を創ろうとする、そうすると逆の立場を創造することになる。それによって対立が生じて、結局は、その対立する二組は、似た者同士なのだ。アメリカ側とロシア側という東西冷戦構造然り、職場内の派閥然り、「用心棒」で争う二つの組織然り、わたしたちの日常のあらゆる対立然り。このような対立する意識というレベルを、「用心棒」の三十郎は超えている。三十郎が個人としての強さを持つ為、彼は、そのような対立する人間意識を遥かに超えた所に座しているのである。左と右に、東と西に人々が分かれる中、三十郎だけが、上にいるのだ。高い所にいるのである。それは、そのまま彼の意識の高さを象徴している。拷問によって怪我を負った三十郎は、からくも逃げ出して、棺桶の中に入って逃げる。その途中で、棺桶の隙間を空けてもらい、戦いの様子を眺める。死者なのか生きているのか、その境界にいる男が、人間の争いを見ているのだ。映画は、痛快な時代劇であり、心理を突いた機転やチャンバラで見所がたくさんあり、単に面白い映画でありながらも、ここには、芸術家の視点が強くぴったりと焼き付けられている。最後、争いによって多くの血が流れた後、小屋から狂ってしまった男が出てきて、太鼓を打ち鳴らすのである。このシーンが、恐ろしいほどの迫力であり、このような人類の争いによって魂が傷つき、狂ってしまうということが、圧倒的な力をもって迫ってくる。対立に橋をかけることが出来ないとき、このような祟り神が生じるのである。やがて、晩年の「乱」のあの比類なき表現へとつながっていく助走となっていることも見逃せない。こうして、争いのどちらにも肩入れしない英雄は、人間の対立とその流される血を確実に目撃して、去っていく。翌年に再び現れた「椿三十郎」は、自らの剣の力と争いに辟易し、彼を英雄と慕う若い者達に、「おとなくし鞘にはいっておけよ」と言い残して去っていく。三船敏郎演じる剣を捨てた英雄は、「赤ひげ」で、救世主として、魂の医者として現れて、世界に聖なる力を掲げることになるのだった。姿三四郎、三十郎、そして赤ひげと、黒澤映画における人類の対立の問題は、戦士からトリックスター、英雄、そして救世主像と確かな発展の跡を残し、わたしたちの意識発展における道しるべとなっているのかのようである。

-黒澤明