キクチ・ヒサシ

文化と芸術を言祝ぐ『コトバの塔』

黒澤明

黒澤明「どん底」(1957)希望としての音楽、持たぬ者たちの魂の融合。

黒澤明「どん底」は、ロシアの文豪ゴーリキの戯曲を翻案したものである。同年には、「蜘蛛巣城」も公開されている。連続で映画を公開し続ける黒澤明の中期時代にあって、彼が好きなロシア文学のひとつを下敷きに、三ヶ月ほどの撮影期間で一気に撮られている。戯曲を下敷きにしているという感触は映像からも強く窺われて、場面は、貧乏人たちの住む長屋を主としている。ストーリーの起伏などよりも、人物の魅力、その掛け合いのみが見所となるのだが、変に魅力がある。大体、詩人たち、芸術家たちというのは、アウトサイダーのような視点で、外から社会を眺めて、外れた道にある、人々が見逃がしがちなものに目を向ける。それだから、ドストエフスキーが「貧しき人びと」を書き、ケルアックが「路上」を書き、ゴーリキが「どん底」を書き、黒澤明が「どん底」や「どですかでん」を描くのだし、わたし自身、ホームレスを「話の途中」などで書いたが、そういうのは、自然と詩人たちのこころに浮かび上がってきて、表現するように命じてくるようで不思議なものだが、この黒澤明の「どん底」を観ていると、もういいねん貧乏人は、そういうのはわたしもよくわかってるし、わたし自身貧乏人みたいなものだから、もういいんだよ、という気持ちもわりと湧き上がってくる。それだけ、どん底を描くことに関して、黒澤明はうまいのだと思う。そして、見終わった後に、なんとも言えない、もう一度見たいような、変に惹きつけられるようなところがあって、あとでよく思い出す映画になったりするのだから不思議だ。

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「どん底」のあらすじ、感想。音で奏でる魂の融合。

明日もなく、貧乏な暮らしをしている男女が、狭い中に、十人くらいがひしめき合っていて、掛け合いを早いテンポでするところが、面白い。「わしのゴローロップがよ、酒毒にやられてよ」と男が言い、「またゴローロップだとよ。おい、五臓六腑だよ。覚えろよ」「だから、わしのゴローロップがよ」などと、馬鹿馬鹿しい会話が、段々面白くなってきて、映画の最後の方になると、「ゴローロップ」と出てくると吹き出してしまい、見終わった後に、やたらと物真似をしたくなるからいけない。金が入れば、すぐに飲みに行くか、ばくちを打ちに行く男達、そのばくちも、イカサマをしていて、それで儲けた金も、またお酒やばくちで消えていく。貧乏で、その生活から逃れられない。そういう中で、宿を貸しているお金持ちがいて、そこの女が、三船敏郎扮する男と関係があり、そのことで、問題が持ち上がっていくのをひとつの軸にしながらも、見所は、人間同士の佇まいであり、会話であり、そこに流れている空気なのだ。冒頭に、鐘の音がごーんと鳴っている始まりがたまらないのだが、小僧たちは、貧乏人が住む長屋が下にあるのだが、「どうせ掃き溜めだ」と言って、ごみを長屋の方に上から捨てるのだった。そういう掃き溜めで、人々は、生命を燃やす。そこには、堕落した生活、希望を失ったかに見える生活がありながらも、ユーモアと会話と音楽があり、それらは、持たぬ者たちにも等しく与えられているのだった。そして、本当にわたしたちが持てるのは、そういうものだけなのかもしれない。長屋に流れ者の男がやってきて、彼がただ一人、聖なる人格であり、人間と世界に通じた賢者で、彼のような人間と長屋の人間の対照がすさまじい。人は、賢者のようにもなるし、貧しい生活の中で、愚者のようにもなる。過去があり、人々はそれに縛られている。そういう中で、彼はより自由であり、精神世界に開かれている穏やかさと智慧をみにつけている。「河原の小石のように磨かれて丸くなったんでさあ」彼は人々の話を聞き、彼自身がプレゼントのように存在し、人々に良い影響を与える。ゴローロップの男は、自らの病を治すと宣言し、高い所にある寺に行くと言い出し、長屋を出て行く。しかし、高い寺ではなく、彼は天に昇ってしまったことが衝撃的に伝えられて劇に幕が下ろされる。日本人は、古来から死者は山に行き、そこから天に昇っていくと考えていた。山は、死の世界への入口と考えられていた。男が言う、高い所にある寺に行きたいとの気持ちは、天に昇り再生したいとの願いだったのかもしれない。一番の見所は、長屋の人間たちが、口で音を奏でて、祝祭を行うところである。「地獄の沙汰は金次第、仏の慈悲も金次第、ぴーひょろろー、ぴーひょろ、どんとんつくつどつくつ、ぴーぴーひょろろ、どすんすどん、ぱーひゃらぱひゃら、どんどこどん」などと、指揮なく、見事な魂の融合を、音で奏でるのだ。そのとき、圧倒的な祝福、生の素晴らしさが迫ってきて、それは貧しい暮らしと対照されて、得も言われぬ喜びを、わたしたちにもたらし、生きるということの本質をわたしたちに理解させ、それは「どですかでん」(1970)でより美しい映像に昇華されることになるのだった。

-黒澤明