キクチ・ヒサシ

文化と芸術を言祝ぐ『コトバの塔』

黒澤明

黒澤明「生きものの記録」(1955)「国家」や「社会」という集団幻想とひとりひとりの個人。

2016/09/04

黒澤明「生きものの記録」は「七人の侍」の翌年に公開されている。1955年に既にこのような映画を撮るところに、黒澤明のセンスの鋭さを感じる。三船敏郎演じる、工場を経営する老人は、ブラジルへの移住を考える。その理由は、放射能に対する本能的な反応からくるもので、水爆実験による放射能汚染などが問題となっている時代背景で、老人は「殺されるのは嫌だ」と言う。安全なブラジルに一族全員で移住したいと思っているのだ。世間の反応は、老人が狂っている、頭がおかしいと思っている。しかし、老人は、明晰であり、その言説に反論出来るものはいないのだった。早すぎた思想というのは、そういう運命を繰り返しているのだろう。

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「国家」や「社会」という集団幻想、存在するのはひとりひとりの個人

広島と長崎の原子爆弾による壊滅の歴史、東北震災による福島原発汚染事故、わたしたちにとっては、放射能の脅威は、以前にも増して現実味を帯びている。原発を廃した国も出てきた。原子力から逃げるために、移住するという行動は、今では珍しいものではなくなった。東北震災後、三宅洋平は沖縄に移住し、坂口恭平は熊本に移住した。その行動を笑う者はいたかもしれないが、1955年当時と比べると、それは簡単なことではなく、多くの人間がこの現実に震えあがった。数万単位の人間が、原発廃止のデモを行い、その良し悪しは置いても、何らかの問題意識を持つように目覚めた。多くの芸術家、詩人、思想家、一般生活からすると気難しくて理解しにくいと思われるような人々は、共通して何十年も繰り返し述べていることは、この星の資源のことであり、精神文化の堕落への警鐘であり、新たな文明の創造が必要だということであった。世界を良く知り、人間を良く知る者たちが、なまはげの形相で、繰り返し繰り返し、このままでは危ない、と告げているのだった。それは大地の精霊の言霊を、微細な感受性を持つものたちが、代弁しているものだろう。一般には、世界や社会がテレビで大丈夫だと告げているので、大丈夫だと思ってしまう。しかし、この世界と人間の歴史を知る者たちは、国家や社会という集団幻想が告げることをそのまま信じることの危険をわかっている。そういうプロパガンダに左右された大衆が軍隊となって招集され、数々の戦争で血を流してきたのだった。そのため、一般よりもはるかにリスクを感じ取り、個人として行動を起こそうとする。集団幻想の中にいる者は、それがピンと来ない。何かばかばかしい、狂った人のように見える、ということになりがちである。「国家」や「社会」がどこにあるのか、訪ねようとしてみるとわかる。どこにも「国家」も「社会」もないのだ。あるように見える、集団幻想であり、真実存在するのは、ただひとりひとり、個人のみなのである。しかし、人は誰もが弱く、何らかのイメージを必要とする。宗教が危険なものとして退けられて、現代生活にどっぷり浸かるということは、「国家」なるイメージ、「社会」なるイメージに自己を投入し、いわば、それらが宗教の代わりになるのだった。(宗教を理解出来ないもの、それを退けているものは、むしろ宗教的なものを他のものに投影してしまう無意識が発動する。なぜなら、こころとは宗教的なものなのだから。宗教的という言葉が死んでしまい、理解不能になっている現代では、それはイメージと言い換えてもいい。こころとはイメージ的なものであり、それを投影できるものがいるのだ。イメージこそが、人の弱い精神を支えているのだ。それは以前は宗教が果たしていたことなのだ)わたしたちは「国家」や「社会」という集団幻想に所属しているという安心感と引き換えに、自らの責任能力を手渡してしまう。その代り、国家や社会が守ってくれるはずだ。制度が救ってくれるはずだ。それは魂を悪魔に売り払ってしまうのに似ている。しかし、血の通っていない制度は人を救いはしない。ただ個人が、自らの責任能力を取り戻し、生きる力を取り戻さなければ、国がしてくれない、社会がしてくれない、と求めても得られない幻想にしがみつく結果になりがちである。国家や社会は、母親ではない。この大地が母親である。従うべきもの、護るべきものは、この足元にある。立派な外観をした国会議事堂などではない。そんなものは、地震が来れば跡形もなく崩れ去るだろう。そういうことがハラの底でわかるものは、個人としてリスクを回避しようとする。それは一般レベルを突き抜けているために、足が生えた魚のように奇妙に見えるのだと思う。しかし、進化とは、新しいものとは、古いものからは奇妙に見えるものである。「国家」なるもの、「社会」なるものは、より小さくならねばならない。代わりに、列島の民の生きる規範や文化が、集団幻想を埋めるだろう。森と共生してきた列島文化を下敷きに、科学文明と信仰の均衡、循環可能な生活スタイルの建築こそが、人々の内面に火を灯し、この列島に生きる誇りとなるだろう。物質消費社会、経済社会において発展するという古いスタイル、大地から離れた生活スタイルへの違和が広がり、景気の良い悪いではなく、生きる喜びに満ちた生活に必要な精神文化が打ち建てられるだろう。その過渡期に、わたしたちは存在し、葛藤を感じながらも、心奥の声に耳を澄ませ、静かな実践を続けるだろう。日々の生活を丁寧に生き、時に愚かさを逃れられずとも、太陽が昇り沈んでいくその一日の円環に感動を覚えながら、美しい日々を過ごすだろう。過去の遺物を静かに解体していき、新時代がやってくるだろう。その鍵は、国家などにはなく、わたしたち個人個人の責任能力にかかっている。国家や社会を機能レベルに下げて、イメージレベル、魂を投影出来る、列島の民としての高い精神文化建築の仕事が、大勢のわたしの仕事なのだと思う。何度もこのブログでは、引用しているが、アウシュビッツ強制収容所体験を綴った精神科医フランクルは、著書「夜と霧」の中で、過酷な状況でよりよく生き残った者たちは、精神文化の高い者たち、物質的には収容所に閉じ込められているという中で、精神次元の世界を持っている人たちで、肉体が頑強な者よりも、感受性豊かで精神生活を持つ者がより良く生き抜いたのである。精神の次元の世界が、彼らには開かれていたのだ。つまりイメージの世界、魂の世界と通じているために、「国家」や「社会」にのみイメージを投影している者たちよりも、はるかに強く、はるかに精神衛生が守られているということを示している。ポケモンGOは無料で、多くの人間が参加出来て、そこにイメージの世界が開かれる。集団幻想に乗ることが出来る。それはそれで意味があることだろう。縄文人は、木に人の顔を描いて、神として祀った。大地の代表としての木に、神をイメージし、実在するものとして祀った。木が与えてくれる恩恵に、心からの感謝を感じていたのだろう。一体どちらが、強固で本質的な精神文化かと言うと、後者だろう。現代文明は、ある次元においては退化していると言わざるを得ない。わたしたちが生命を維持するためには、この大地と海が必要で、それらがわたしたちの本当の母親であることは、ふつうに考えて理解出来ることである。人間中心ではなく、この大地中心に物事を考え、地球意識で暮らすような時代が幕を開けているのだ。

「生きものの記録」と「夢」

「生きものの記録」の老人の姿は心を打つ。全く古臭い所がない。工場を家族経営しているので、家族たちは、工場にぶら下がっている方が楽で、良いので、老人の言うことには耳を傾けない。工場を創業し、軌道に乗せて維持してきたのは、その老人なのに。そして、老人は、狂っている者として精神病院に入院することになる。たったひとり、彼だけで逃げても良いのに、彼は最後まで家族と共に逃げたがり、入院している自分は、別世界に避難したものと思い込み、他の人間も避難しなければ危ないと考えている。黒澤明は「夢」(1990)において、原子力発電が爆発し、富士山が赤くなり、噴火し、放射能が流れてくる場面を描いている。そうして、世界は崩壊し、荒野となっている。黒澤明が富士山が好きなのは有名である。大好きな富士山がそのような姿になることは、どれだけつらいことであろうか。「夢」の最終話では、水車のある村で暮らす老人が描かれる。そして、「八月のラプソディ」(1991)では、原爆の記憶を持つおばあさんが、雨の中、狂ったように走るのだ。雷が、原爆だと思って。子供たちに観てほしい映画である。「生きものの記録」と「」と「八月の狂詩曲」を、感受性が豊かな天才たちである子供たちに見せたい。彼らは、きっとこの映画に、大きな収穫を得るものと思う。

-黒澤明