キクチ・ヒサシ

文化と芸術を言祝ぐ『コトバの塔』

黒澤明

黒澤明「静かなる決闘」(1949)自分を救うことが他人を救うことになる。大いなる自分からの警告。

2016/09/04

黒澤明「静かなる決闘」は、三船敏郎の黒澤映画出演二作目であり、「酔いどれ天使」のやくざ役から、本作では医者役になっている。若い時代の三船敏郎を見るのは楽しい。この後、50年代と60年代の最盛期の三船敏郎を、「赤ひげ」で魂の医師を見事に演じる彼をわたしたちは知っている。「静かなる決闘」(1949)の医者と「赤ひげ」(1965)の医者を比べたとき、その道程と到達点に、驚きを感じる。黒澤明映画の発展であり、三船敏郎という俳優の成熟が、そこにはっきりと現れている。わたしは、その歩みに、感じ入ってしまう。それは、ひとつの物語であり、そのように作品と作品の関連と流れを感受可能となることは、一流の芸術家、表現者たちに贈られる称号であろう。そして、誰にでも初期時代というものがある、ということは、人を励ますものでもあると思う。

「静かなる決闘」のあらすじ、物語の構造

「静かなる決闘」のお話は、三船敏郎演じる医師が、治療の中で、梅毒に感染してしまう。他者奉仕に励む中で、病を得てしまうのだ。彼はそのことを隠し続ける。そのせいで、恋仲の女性とも結婚せず、隠し通していく。看護師のひとりの女性が、そのことを知ってしまう。医師と彼女だけがそれを知っている。他は知らないという構造における悲劇が、作品を引っ張る中心となっている。知らない者は、医師の態度の意味や深遠がわからないので、そこには誤解が生まれて、解消されない。知っている者は、その誤解の元になっている医師の真実と想いを知っている。このギャップが、ドラマを創る。テレビドラマが年中放映されて、それを観てきたわたしたちにとっては、既に何度も繰り返し見てきた形となっている。原作があるようだが、他の黒澤明映画と比べると、少々ナイーブなドラマ性が鼻につく。時代や治療していた男の悲劇などの突きつけ方は、黒澤明らしさを感じるが、「赤ひげ」のような魂の表現まで昇華されてはいない。「酔いどれ天使」は、結核を治療する医師を志村が演じ、「静かなる決闘」は、梅毒を治療し、自らも病を負った医師を三船が演じる。「赤ひげ」では、治療するのは、人間のこころ、魂であった。人間存在にとって、医者というのは、ひとつの重要な元型であり、多くの人の夢に、夢想に、救世主として、賢者として、強い力を持って現れてくる。それは、実際の医者や芸術家や宗教家に投影されて、人々の心にとって良い効果を生み出す。それは物語の中に度々現れて、人々の投影を受ける。そういうとき、芸術家は、魂の医者、時代の教育者としての投影を受ける。普遍的な投影であり、それは人類にとって必要なことなのだろう。その意味では、「静かなる決闘」の医師は、高潔な倫理を負っていた。それは「赤ひげ」に比べるとまだ小さく、粗削りであるが、いずれ「赤ひげ」へと発展するような人の魂を問題とする男の現れなのだった。

自分を犠牲にせず、自分を生きることが即、他人に貢献することになる

お話の見所として、秘かに病を隠して、自分も病を得ているのにそれを言わずに秘して治療に専念している医師の心の模様があげられるが、先ほども述べたように、そのくよくよした感じが、わたしは乗れないところがある。そもそも、テレビドラマが既にしてわたしは苦手で、どうにもついていけないということがあるから、それも当然なのだろう。自らを犠牲にして人を救うというのは、ひとつ良い行いではあると思う。しかしながら、自分を犠牲にして他を助ける、というのはより深く昇華されて、自分というものが深まって認識されたときに、自分と他人との区別を超えたときにはじめて、自分を救うことがそのまま他人を救うことになってくる。他人を救うことがそのまま自分を救うことになってくる。なぜなら、その境地では、自分と他人という区別を超えているから。そうでなければ、自分を犠牲にしているというレベルでは、その反動がやってくる。その反動と犠牲の葛藤の中にあるドラマというものは、ある種の真実を現しているかもしれないが、わたしの中では、既に終わったことなのだと思う。自我にこだわる限りは、その葛藤を避けられないだろう。本来は、生命を与えられた個人が、その与えられたものに従って生きて行くとき、それは、勝手に人の為にもなる。もちろん、その「人」の中には自分も入っている。もし誰もが、自分の好きな事に静かに取り組むことが出来て、生命の個性を生きて、満足していたら、その喜びの中にあれば、その人は、しあわせに過ごすだろう。そのしあわせに過ごしている姿は、他者にも良い影響を及ぼすし、人間は、全員合わせて人間であり、その行為は、人類のしあわせにつながっているだろう。たったひとり、自分自身を生きてしあわせになることは、人類の中の一人を救うことになる。明かりを灯すこと、それが小さな明かりであっても、ただ自分自身を救うことが出来ればいい。そのことが、人類を救うことに必ず通じている。ただ自分のために書かれた小説が、多くの人間の心に希望の火を灯し、ただ好きなことをしてしあわせでいる姿が、多くの人間を啓発する。パンを焼くのが好きな人は、それを徹底するだけで人に喜ばれる。なんでも好きなことを自分のためにやれば、それは必ず他の為になる。ただ自分自身である、ということが、そのまま「自分自身であれ」とのメッセージを他者に発する最大の方法である。他人のために自分を犠牲にしている、ということは、他人のために自分を犠牲にせよ、というメッセージを送ることになる。犠牲にした人ばかり集まって、誰もしあわせではなく不平と不満が渦巻いている。こういうことでは、全てがダメになってしまうとわたしは思う。犠牲ということを良いことに、自分自身を生きることからの逃避でもある。本当の「犠牲」とは、自然が選び、本人の自我を超えた要請で、運命的に為されて、自分を犠牲にして他を救うなどということを超えた、自然現象であり、その場合以外に、狙って犠牲になどしてはいけないものと思う。犠牲を美化した自我の喜びでは、いずれそれは続かなくなり、反動によって周囲に迷惑を引き起こすだろう。こういうことを、首尾一貫しない慈悲はやめたほうがいい、と親鸞は言っているのだろう。自らに与えられた生命を犠牲にせず、その命を懸命に生きること。ひきこもらず、与えられた生命を惜しまず、自らを表現し続け没頭して生きるとき、周囲の目を気にせず自分自身の命を生きるとき、死の瞬間に悔いのないように生きるとき、はじめて、視界が開けてくるものと思う。人間には、現状維持はなく、退化と進化しかないとよく言うが、そのとおりだと思う。生きて生きて生きて、行きて行きて行きて行くこと。これがこの星のハタラキであり、太陽のハタラキであり、生命のハタラキである。このハタラキを留めることは、生命の流れに抗うことであり、最も良くないことである。親鸞が、ただわたし一人のために阿弥陀様がうんぬんと言うとき、一般レベルの感覚では、自分のためだけ?って何なの、ひどいじゃない、皆のためにじゃないといけないじゃない、という感じがあるが、親鸞の言う、ただ一人、ただ自分だけの為、というときの「自分」とは、自我ではなく大我であり、それは、この星の全ての生命の人称としての「自分」なのだと思う。そのレベルでは、ふつうに言う「自分」という場所を、自分とは思っていなくて、生命の根源の動きのようなものを「自分」として同定しているのだった。そこまでの意識レベルに達すると、自分を救うことは、大いなる自分を救うことにつながり、その大いなる自分には他者が含まれている。(誰もが自分のことを自分と思っているが、他人から見ると、わたし自身が他人として見られている。つまり、実際の意味としても、自分を救うとは他人を救うことである)そして、他者のかなしみもまた、おおいなる自分のかなしみであり、それを自らのことと感じ取る宗教家や詩人が現れてくる。自分を犠牲にして他者を救うのではなく、自分を生きることが即、他者に通じている。自分に取り組み、自分を生きることが、他人につながり、大いなる自分につながっていくというパラドックスのようなものに、ある種の真実があるのだろう。自分を犠牲にするところからはじめると、既にして自分という他人を損なうところから始まり、プラスマイナスゼロで、そこからは枯渇しないエネルギーは湧いてこないのだろう。他人に気を遣っているつもりが、他人を窮屈にするようなことになることがよくある。気を遣わずに自分自身を生きている人がいると、自由な気持ちになり、そこに人が居やすい空間が出来る。人間の心には、WANTの動きという光明があり、それは、肯定しかない。犠牲という否定によって、エネルギーは湧いてこないだろう。これは空海の肯定や釈迦が苦行を卒業したことの意味にもつながっているだろう。このようなことを認識せずとも、やがて自然生命は、突きつけてくるだろう。それは、理由のわからない心身の不調に現れるだろう。もっと与えられた生命を生きてくれ、との大いなる自分からのメッセージだろう。この宇宙のハタラキの法則から外れていることへの警告であろう。

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-黒澤明