キクチ・ヒサシ

文化と芸術を言祝ぐ『コトバの塔』

黒澤明

黒澤明「赤ひげ」(1965)羅生門から聖なる門、用心棒から魂の医者へ。イメージの転化。

2016/08/07

黒澤明「赤ひげ」を観た。この映画は、ガルシア・マスケスのお気に入りで、山本周五郎「赤ひげ診療譚」を原作としており、後半部分は、ドストエフスキーの「虐げられた人びと」を取り入れていると言う。ヴェネツィア国際映画祭サン・ジョルジュ賞、国際カトリック映画事務局賞を受賞している。主演の三船敏郎はヴェネツィアで最優秀男優賞を得ている。映画レビューを拝読すると、「赤ひげ」をして黒澤明の最高傑作と呼ぶ者もある。広く普遍的な作品として認められるものには、必ず理由がある。三時間の長い映画だが、黒澤明映画の魔力がどこにあるのか、この作品によって感じるところが多かった。画面の比類なき美しさ、音楽、登場人物の魅力、作家性、全て揃っている。そして、少々冗長に思えるのだが、これが後で効いてくる。前回、黒澤明「生きる」(1952)のレビューを書いた。志村が主演級を務めるものでは、ひとつの完結編のようだ、と述べた。「赤ひげ」(1965)は、三船敏郎が主演した最後の映画であり、内容的にも、「用心棒」(1961)「椿三十郎」(1962)に連なって、ひとつの高い峰を思わせる。絵描きは、絵の中で思考する。小説家は、書きながら思考する。普通の意味の「思考」と比べると思索と言った方がいいかもしれない、イメージの思考と言ってもいい。黒澤明は、映画制作の中で思考し続けており、彼の一連の作品に通底する流れが認められることは当然のように思える。映画を観終わった後、確かに黒澤明の作品だとわかり、しかも、過去作品のいずれかの地点に留まっていない、どの作品も、芸術家の魂の表現であり、そのため、それは生命の根源的な本質と同形であり、ひとつに留まらずに、進んで進んで進んでいるのであり、そこには流れがある、有機的な連関が認められる。ということは、過去作品も当然、その時の彼の真実であるならば、今作も真実であり、前作とつながって、また異なる動きが生じている。そのことを実感するとき、もはや、この芸術家がどう変化し、どこまで行くのか、その生涯を見届けたいという強い気持ちを内に感じる。これが芸術家への信頼となる。もし、ある表現者の作品と作品の間に、有機的な連関、魂の流れが感じ取れないとしたら、その断絶に、不信を感じてしまうだろう。その表現者の作品はつながっておらず、核となる哲学や追い求める問いがなく、魂の現れではないのだとしたら、そこには本質的な変化はなく、変化の別名である永遠もないことになる。芸術家に同様のものを期待してしまうあまり、過去作品からの飛躍に、驚きと当惑を感じることもよくあるが、長い目で見れば、そこに必然があったのだと了解されてくるものである。彼のような芸術家ともなれば、「用心棒」の続編として「赤ひげ」を視ることも可能で、またそれが自然というものであろう。

目次

  1. 羅生門から赤ひげの療養所の門へ。イメージの転化
  2. 用心棒、椿三十郎から赤ひげへ
  3. 長編三時間の効果
  4. DVD、関連作品
  5. 関連リンク、動画

1 羅生門から赤ひげの療養所の門へ。イメージの転化

黒澤明「羅生門」(1950)は、世界にクロサワの名を轟かした出世作であり、半壊した首都の門が、雨の中、圧倒的な美しさで迫りながら、その伝えてくるイメージは強烈である。第二次大戦後、わずか五年後の世界。魂へ通じる門を破壊してしまい、その門の下に腰かけて当惑する人間たちの姿が描かれているように見える。黒澤は、古典に材を取り、人間のこころの不可解さを描く。人間の語りがそれぞれつじつまが合わず、あるいは、自分に都合の良いように人が話を拵える為に、事実が藪の中であるというイメージは、まさに、世界中に起こったことであった。起こってきたし、これからも起こりうることであった。大戦によって、多くの建物が破壊され、幼い子供たちが亡くなり、人間の道徳は、大きな危機を迎える。それは、人類史上未曾有の惨劇であり、圧倒的な数の死者が大地に積み上げられた。広島、長崎の原爆、沖縄、大阪の大空襲。炎上する首都、東京。世界中で、それが起こった。人間を迎え入れる魂の門は、崩れ落ちようとしている。終戦後五年、生々しい爪痕が残る世界に、この「羅生門」が現れたとき、それは、人々の心に、あまりにもぴったりきたに違いない。黒澤明の直観は、首都の門が半壊している絵を、そのイメージをそこに立ち上げる。時代劇の装いと共に。それは細部まで徹底的にこだわって創られた。象徴として、半壊した首都の門を、リアルにそこに立あげなければならない、と直観は命じていた。それは作品の核を為すイメージであった。そして、イメージとは、言葉以前の形式であり、本能に訴求する本物のコトバであり、それは、民族、風習、言葉、文化を超えて、人の心に通じるのであった。壁、区別、争いの理由となってきた表層を超えて、世界中の人々の深層に通じたのだった。それから十五年。戦後二十年。「羅生門」の三船敏郎は、「赤ひげ」で医者となって登場する。その療養所は、貧しい人達を治療する建物である。そして、何度も映されるのは、療養所の門の絵であり、それは木で出来た、別段、目立つことのない門であり、間隔を空けて、直立した二本の柱があり、そこにクロスする形で、一本の柱が横に通されたものである。まるで十字架が二つあり、その下部が門の入口になっているような恰好である。鳥居をシンプルにしたようだが、確実に十字に見えるように創られた風である。

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チラシは、上記のように、明らかに十字に見える形で門の一部が映されている。このチラシのみを視る者には、それが門の一部とは見えない。十字架として見えるだろう。スタッフの証言では、黒澤明は、この門に異常にこだわったと言う。また、チラシも彼自身が配置を考えたと言う。これはどういうことだろうか。黒澤明は、世界に評価された映画監督であり、その射程に、世界も入っている。キリスト教の十字を意味するのだろうか。十字とは、縦と横の組み合わせを意味する。人間が全体を把握しようとするとき、いつもクロスする縦糸と横糸があった。上と下と右と左。北と南と東と西。というように。それはキリスト教の専売特許ではなく、全体を結びつける聖なる象徴として繰り返し現れてきた、人類の遺産、元型である。それは聖なるイメージである。その門の向こうには貧しい人達がいて、医者がそれを救うべく奮闘している。全体が結びついた聖なる門。そこに、人類を救うべく奮闘する魂の医者がいる。半壊し、今にも崩れ落ちそうだった首都の羅生門は、人類の集合的な心を象徴して余りあるものだった。そして、今、その門は、さりげなく、目立つことなく、聖なるイメージを宿している。それは、十五年の歳月をかけて、築き上げられたものである。クロスの下にいる救世主像、赤ひげは、数々の聖人の面影を宿し、そのイメージの実在は、世界中に強い影響を与え、現在でも「赤ひげ」を傑作と言わしめている。

2 用心棒、椿三十郎から赤ひげへ

三船敏郎は、「用心棒」では、英雄であった。左右に分かれた壁を移動し、圧倒的な個人の強さで、争いを解決する。しかし、そこには多くの血が流れる。ラストには、小屋から狂った一人の男が太鼓を叩きながら現れるのだった。衝撃的なイメージとして今でも脳裏に焼き付いているが、争いの末に、気が狂った男が太鼓を打ち鳴らしている姿は、言葉では言い難い、迫力あるものをわたしたちに伝えてきて、どこかやるせない気持ちになるのだった。それは人が争い、血が流れること、そのことに対する問いをつきつけてくるのであった。一年後、用心棒は、「椿三十郎」と名乗り、同じように、左右に分かれた壁を自在に移動し、争いを収める英雄を務める。無駄に血が流れたときには、英雄は若者たちを本気で叱るのだった。しかし、戦いを避けることはできず、男は、若者たちを助け、ついてこようとする彼らに向かって言い放つのだった。「おとなしく鞘に収まっておけよ」若者が見送る中、修羅の男が、去っていく。これが「椿三十郎」のラストだった。鋭い刃を持つ英雄は、平和になれば、去っていかざるを得ない。強く、優れた男だが、彼を模範として他の人間がついていくには、あまりにも鋭く、あまりにも血が流れてしまう。「用心棒」に比べると「椿三十郎」はより内省的であり、悪だくみしている人間を成敗するのだとしても、血が流れてしまうことに、自覚的であり、そこには「用心棒」のラストで狂ってしまった男が打ち鳴らした太鼓の響きがある。この英雄は、二つに分かれてしまった葛藤を解決する力を持つ。しかし、人類の模範像としては、まだ何か足りないのである。「赤ひげ」では、三船敏郎は、医者となっている。彼は、用心棒同様、強く優れた男である。しかし、人々を救うために行動し、内省力は深まり、人の心理を見抜く、見事な智慧を持っている。途中、不幸な境遇の女の子を助けようとするときに、男たちに囲まれる。赤ひげは、英雄時代と同じように戦い、男たちを退ける。しかし、素手であり、もはや剣はなく、命を取ることはしない。彼は医者であり、もはや英雄を超えた救世主像を担っているのだから。それでいて、貧しい人達を助けるために、金持ちから多額の診療代を取るなど、必要悪も厭わない、清濁併せ呑む賢者となっているのだ。その人格は、大地に立脚し、高く聳え、貧しい人達に広がり、包んでいる。縦に、そして横に。その組み合わさった人格の全体性は、若き医者の模範であり、人々の模範である。ラストの場面、若き医者は、出世の道がありながら、赤ひげの元に残りたいと言う。地位、プライド、富が約束されない、貧しい人達のための療養所には、真実に満ちた人間の交流、魂の仕事があり、若き医者は、その価値に目覚め、そのあとでは、まさか映画の冒頭のように、この地を離れたいとは思わないのだった。赤ひげは、それを勧めない。しかし、最後には勝手にするようにと言うのだった。「椿三十郎」のときは、ついていくことが出来なかった、加山雄三演じる若者は、「赤ひげ」では、彼についていくことができる。葛藤を解決する剣は、深い智慧となり、人々の模範となる十字の光となっているのだった。「医学は誰のものでもない、天のものだ」と赤ひげは言う。それは出世するための道具でもなければ、お金持ちになるためでも、プライドを満足させるためのものではない。若き医者は、赤ひげにプライドを折られることで、ようやく自信を得る道に入ることが出来た。そのような生涯に幾度もない機会を得て、そこを去るわけにはいかないのだった。

3 長編三時間の効果、イメージ世界への誘い

黒澤映画、特に「七人の侍」などを観たときの感想は、とにかく、映画という感じがしない、ということだった。これは、おかしな言い方だが、ストーリーで惹きつけ、次々と詰め込んで、飽きさせないように、スリリングに描くという趣向のものではなく、まるで、自分が、映画の主人公が過ごす村に一緒にいるような感じ、あるいは他人の夢の中にすっぽりと入ってしまっていたような感じ、そもそもの描き方がおそらく、他の監督とは異なっているのだと思う。普通、映画というのは、つくりものと思っているものだが、そのつくりものに、本物が宿り、フィクションを観ました、という感じがしないのである。イメージというのは、物質的現実に比肩する本物なのかもしれない。そういう洞察を引き出すに足るような世界がそこに在るという感じなのである。「赤ひげ」も一緒で、長編小説のように、長いなと途中思っていたのに、終わってしまったときに、何ともさびしい気持ちになる。話の展開や趣向よりも、その世界の中に入り込ませ、馴染ませる感じなのだ。これが黒澤映画の特別な所だと思う。とにかく観終わった後に恋しくなる。また観たくなるのである。黒澤明にとって、「映画」とは「魂」や「イメージの舞台」を意味し、その世界は、美しく、どこまでも実在していると感じさせ、人々を励まし、喜ばせ、触発する。「赤ひげ」は人々のイメージの舞台に生き続け、長く人類のマスターピースのひとつとして受け継がれていくだろう。

DVD、関連作品

5 関連リンク・動画

黒澤明「羅生門」(1950)
黒澤明「椿三十郎」(1962)

 

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