キクチ・ヒサシ

文化と芸術を言祝ぐ『コトバの塔』

黒澤明

黒澤明「姿三四郎」(1943)無心に発現する光の力

2016/11/12

黒澤明「姿三四郎」について記す。この半年で黒澤明映画全30作品を鑑賞し、書いてきたが、初監督作品である「姿三四郎」を題目に、ひとつの終わりを迎える。黒澤明映画は、強力であった。その全体像、ひとつひとつの作品の輝きは、信じがたいほどで、半年という期間で鑑賞するには、あまりにも濃密であり、映画あるいは創造に関わるような人間に、一気に鑑賞するのはおすすめできない。巨匠という言葉が使われるのが嘘ではない、本物の芸術家の作品を前にすることになってしまうから。年に数本がいいかもしれない。大げさではなく、ひとつの高い山に登ったような感じで、足腰の鍛えとそれなりの準備が要る。ふつうの映画なら、半年で100本くらい観てもたいしたことはないかもしれないが、黒澤明映画の30作品の半年は、明らかに詰め込み過ぎたという感覚がある。一本の映画に数年ロケをするような黒澤明映画であり、その脚本も、原作をシェイクスピアやドストエフスキーやゴーリキや日本の伝統から採ってきている。目に見えるものが目に見える実在物としてリアルが志向された上に、その物は単に物ではなく、そこに象徴とイメージが宿り、より高いリアルが達成されている。音楽、画面の絵、色彩、物語、黒澤明の心に宿ったモチーフの数々、そして何より、黒澤明には強い性格がある。性格、というと今の言葉だと誤解が多いかもしれない、不屈の魂がある、強いメンタリティがある。これが黒澤明映画の背骨で、この個性、このメンタリティがなくては存在し得ない。同じ脚本、同じ音楽、同じ構図で撮っても、こんな風にはならない。黒澤明という性格なくして、この芸術はありえない。「影武者」の中で描かれた武田信玄のように、ドカッと座り、人のこころにズカッと踏み込んでいく。だから人はそれを忘れられない。良い仕事をすることは、喜ばれる半面、嫌われることでもある。仕事をすればするほど、他人に妬まれたり嫌がられたりもする。人は、自分を有名にしようとか、目立つようにしようとか、色々考える。良い仕事よりも、どう良いように見せるかに必死であるのが人の世と言っていい。真に良い仕事などされてしまっては、たまったものではないのだ。しかし、巨匠とも呼ばれるような大芸術家にあっては、そのようなものを超えて、ただ彼のこころの内で照らされた光が、どこまでも煌めき、わたしたちの内面に栄養を与え、外面を観察する意識を更新し、生死の荘厳にまで目覚めさせる。この恩恵によって、わたしは一歩また進んだと実感できる。映画というスクリーン、そのイメージの舞台を眺めるというのは、頭を超えた、心身レベルのテレパシーを発生させる。まるで、誰かが死の瞬間に走馬燈のように眺める人生の映像の断片を、夢を観るように体験させ、それは黒澤明が人生において真剣に取り組み眺めてきた、見つめてきた彼の夢を、そのまま明確に、別の人間の心身に伝達するもので、全30作品は、黒澤明の魂の軌跡が焼き付けられ、特に映像という、イメージをそのまま見せることができるということの恐ろしさ、凄さがよくわかった。深層レベルでは、それが己の夢であろうが、迫真の映像であろうが、どちらも同じリアルとして並置される。数々の偉大な先人たちが視たビジョンをそのまま、映像として創造することの可能な、この映画というジャンルは、人間の魂に影響を与える強い力を持っている。テレビであるとか動画であるとか、そのような映像を視るということには、夢を見ることと等しい。いや、夢に似たものを与えて、真の夢を奪う。そして、映像によって容易に、リアルを書き換えることができる。夢を支配することで、逆に外的現実の精神活動の枠をはめることが可能になる。夢を与えることで、操作することで、その反応として社会的現実を創る。人は、嘘か本当かと考える、好きか嫌いかで感じる、そのような二元のどちらかを選べるように見せかけて、その土台自体を支配する。わたしが権力者で、そうでなければならぬ運命ならば、そのようにして大衆を支配するだろう。ありがたいことに、そのような運命はわたしにはやってきてはいないが、わたし以外の誰かにはそのような運命がやってきて、彼本人を超えて、そのような流れもまた続いていくだろう。支配したい者と支配されたい者が手をつないで、ずっと続いていくだろう。しかし、その小さい流れは、自然の大いなる流れによって、壊滅するだろう。アリの巣に流れ込む濁流のように。そのときに、人々は、救済に導く、より高い手を目撃するだろう。なんとまあ、このための、騒々しい茶番であったことか、と。しかしこれは、なんだか昔にあったような、あれまあ歴史は繰り返すというやつですか。繰り返すならば、人類という種族も、長くはないんだねえ。まあでも生きる他ありませんなしかし、どないですか、もうかっとりますか?いやあ、もうかってももうからなくとも、つまらなくてしょうがないね。ずいぶんおかしいじゃないか、それはおもろいことでっしゃろ、もうかってももうからなくとも、あなたにとっては同じ事。成熟ということじゃありませんか。そりゃあわかってますよ、そもそもはおもろいことしかないんですよ、しかしわざわざおもろいと怒り出す人もいましてね、いつも無意味に肩が凝る風情、奴隷のように凝り固まった頭で身体ががちがちになってますわ。そういう手合いはいつの世も良識ぶって、悪を追いかけまわす、良いと悪いの間に挟まれた野良犬というところですな。好きにさせておくほかないですな、あなた自身、遠慮せずに、好きに生きるのがよろしい。誰の人生も一緒、人間という乗り物はしょんべんとうんこを垂れ流し、美味しいどんぐりを頂くということに尽きますよ、その生命の円環はいかがですか、物質は、絶えず流転して、留まっていない、留まってしまえば、うんこのような顔になって、それはそれで、テレビが殺到するでしょうよ。まあ、あなたったら、そんな美しいことを?口にしてはいけませんよ。え、何を口にしろというのですか。わたしは、そのようなものを口に入れるのは好みませんよ。それは、出す方のものですからね。まあええじゃないか、ええじゃないか、げっぷ。下品な!わたしは上品なものを召し上がれると聞いて、こちらを訪ねたというのに。あんたは、上品なものを求めすぎたんですな。上品は、下品があってはじめて成り立つ。あなたが上品を取るなら、いつまでも下品があなたの影になってつきまとうでしょうよ。上下が一致するその日まで、あなたが下品の影に怯えるつもりというのならば、あなたはいつまでも上品を求めるがよろしいでしょうな。誰なの、この失礼な手合いは!ええじゃないか、げっぷ。笑わせないでくださいよ、といってもわたしは別に笑ってませんよ、手合いなどと呼ばれるのは、月の満ち欠けほどに雄大なことでありましょう。あさのりんごはうんこ、よるのりんごもうんこ、うどんを鼻から入れて、その白い茎から、厳かなうんこが咲く、さくら咲くように、馴れ馴れしきクワガタの歌。蜜をくれ、背広に垂らすために、ダイエットダイエット、老後って何?げっぷ。すべて黄金の音がやってくるまで。清廉な水が、光を受けて、黄金となって降り注ぐ世まで、うんことりんごのかたちの研究を、博士。そう喚くな。無意味であればあるほど、それが神聖であるということを考えてみると良いのだ、さあ無意味に右腕をあげたまえ、一体だれが右腕を動かしているのか想像してみたまえ。それが無意味であればあるほど、それが意味を超えた神聖さを帯びていることに気付くだろう。これが全て儀式のはじまり。これがすべてりんごとうんこのはじまり。大地と光のはじまり。はじまりとおしまい。おしまいとはじまり。だっふんだー!今宵は、なんと美しき夜だろうか。すべてのものが祝福しているようじゃのう。殿、ご報告です、街が壊滅しました。たわけものめが!知っとるわ、そんなことは、邪魔するでない。見よ、あの月のクレーターを。見えません。ばかめ、想像せよ、きっとクレーターがあるに違いないのだ、まあ知らんが。殿、お言葉ですが、街が全滅です。騒ぐでない、とっくの昔から魂が去っていたわ。もぬけの殻じゃ。だからこそ、人の世はおもろいではないか。わしの街が壊滅した以上、わしはもう殿ではないということだ。見よ、この諸行無常の響きを、ピンク色をしているじゃろう。そして、わしが殿でなくなった以上、大臣、お前ももはや大臣ではない。荒野に咲くダニというところだ。どこでも好きなところに行くと良い。しかし、殿、行くところがありません。アホ、もう殿ではない。あるいはお前自身が殿になったのだ。全てを決めて、好きに生きるが良い。好きに生きているからこそ、ここに参っております。もう少しだけお願いでござりまする、殿ごっこ大臣ごっこを続けてほしいのでございます。いや、もう帰ろう。月に雲がかかって、見えなくなった。しかし、わしの脳裏には、はっきり見えるのじゃ。光を受けた月の姿が。この上は、布団に横になって目を閉じれば、ますます輝くような気がしてならんのじゃ。夢見心地のごっこがわしを待っているのじゃ。しかし、殿、それでは、人間ごっこの方はどうなりまする?

「姿三四郎」は、三四郎が日本の武道の真髄を会得していく過程を描いている。心技体、この統一こそ、武道の真髄であるが、三四郎は、技と体が揃い、強い武道家となるが、ひとつ、心だけが足りないのだ。自らが強いということをどう処すればいいのか、これが三四郎の悩みであり、迷いとなる。三四郎が戦えば、彼は勝ってしまう。すると負ける者が必ず生じてくる。負ける者にも人生があり、親や恋人がいる。戦うことに対する迷いが生じてくる。和尚は、そんな三四郎に言うのだ。「無心で行け」と。無心であることは、現代人の恐れに結びつく。何かしがみつく丸太がないと不安なのだ。学歴や資格や貯金や地位がないと不安で仕方がないのだ。しかし、真実は逆で、無心になり、自分を解き放ったとき、生命の本源が現れ、その者を使役して、本来の力が現れるのだ。澄みきった空にこそ、水にこそ、大きな鳥が、クジラが自由な飛翔を見せ始める。スポーツだろうが芸術だろうがビジネスだろうが、全て人間のパフォーマンスにおける奥義が、この無心なのだ。パフォーマンスは実行を意味する。実行は奉仕であり、奉仕の質と量がそのままこの星の富によって返礼される仕組みになっている。無心とは、自我の部分を空にすることで、生命エネルギーのハタラキがそのまま妨げるものなく発現するような状態となることを意味する。この無心の態度はカリスマ性にもなる。なぜなら、そこに天与のものが存在する響きを、本能的に人間は感じ取る。無心を極めることは、あらゆるものをその個人にもたらす。ただ無心を手にすることで、何億もの資産を手に入れたのと同様、どのような社会、どのような環境の中でも生き抜く力を得ることが出来る。息絶えるまで、彼を守り、彼を富ませる尽きない泉とつながること、これが無心の奥義の意味である。建物は壊れる、車は壊れる、銀行は破たんする、政府は嘘をつく、しかし、無心はなくならない。その内的資産は、誰にも奪われない。肉体の死まで、永遠に彼を導く。その生命エネルギーが滞ることなく発揮されていくのならば、霊長類である人間が、生き抜くことが出来ないはずがない。もはや居るべき場所に居る、尽きない生命と共に在り、時によってすべての人間がころされていくとしても、生命の本源は死ぬことがない。その本源と共に在る以上、一体何を恐れる必要があろうか。激烈な光と共に生きよ。無心に発する光をつかめ。その光と共に躍動せよ。無心よりも強いものはない。勝ち負けも、上と下も飛び超えて、光の子供として生きるのだ。泥の中で、蓮に掴まっていた三四郎は、ついに無心の花を咲かせる。無心とは、何もしないことではない。無心によって、心の中に光明が動き始める。光明とは、YESのことであり、WANTのことである。それは、光を浴する。欲する力であり、良くする働きである。生命エネルギーの至純のハタラキである。それをハタラカせよ。この次元で生きよ。殿、それはもしかして?そうじゃ、これが人間ごっこじゃ、それがどうしたというのだ、間抜けめ。さっさとその皿を洗え、しあわせものが。

-黒澤明