キクチ・ヒサシ

文化と芸術を言祝ぐ『コトバの塔』

宮沢賢治

宮沢賢治「銀河鉄道の夜」カムパネルラからジョバンニへ。賢治の内的自伝、詩人誕生神話。

宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」(1924-31)は、幾度なく改稿を繰り返しており、完成稿が存在しないものと理解している。それにも関わらず、宮沢賢治の最高傑作であり、魂の書とでも言いたいような物語であり、ふつう、わたしたちが言う意味での「作品」という感じを超えている。多くの批評、感想、レビューが書かれ、日本人としては、「銀河鉄道の夜」を知らない者はほとんどいないと思われるが、最後まで読了した人は、案外少ないかもしれない。わからないが、わたしの身近では意外と読んでいない人が多かった。かく言うわたし自身が、実は「銀河鉄道の夜」を長らく読んでいなかった。幼い頃に、アニメの映画は観たのだ。そして、学生時代に読もうとしては、途中で挫折することを繰り返してきた。その理由を考えてみると、ひとつは、長年改稿されたものである為に、文章が必ずしも読みやすくないということが言える。わたしたちは、PCがあり、タイプライティング出来るが、賢治の時代はそうではないし、原稿用紙100枚程度、40000字の作品の全体を統一するには、集中的な時間が必要である。書くことは深く読むことである以上、賢治にとっても、この作品を数百回繰り返し読みながら書くような時間が更に必要とされていたのではないか、と想像する。賢治の他の短編作品は、文量からいっても、一日、あるいはほぼ数日以内に書けるものと想像する。「銀河鉄道の夜」は、天性の筆で一気に書ける文量ではなく、主題も高く深い、後で付け加えるときにタイプライターもない。時代的な制約と未完成稿であることが主な理由だと思うのだが、この作品だけは、読み終えることが出来ずにきたという感じであった。夜行列車に乗ったときや、気分が乗ったときに何度も開いてはきたのだが。そして、映画で観たから大体知っている、と自分に言い訳するのも容易かったのだろう。視点を変えて、もうひとつ思うのは、賢治が書いている「銀河鉄道の夜」を自分が書くように読むには、まだ早かったのだと思う。読み飛ばすということが出来なくて、自分の身でわかるまでは、わかったつもりになれない不器用な人間が、「銀河鉄道の夜」に肉薄するには、人間と世界に対する認識を深める時間が必要だったということかもしれない。わたしは賢治が死んで星になった37歳の年にようやく、それもこないだの5月に「銀河鉄道の夜」を読了し、38歳になっている。生まれ変わった気持ちがするし、厭世的で色々なものが嫌で仕方なかった結果、星の不思議に導かれて、結局は、この外的宇宙と内的宇宙に目が自然と向かうようになって、やっぱりそれで良かったんだな、と思う。物真似ではなく、内なる衝動、心の自然が、賢治の所まで導いてくれたのだと思う。ところで、作品は二つに分けることが出来る。一方は、いわゆるネタバレに弱い、あらすじが重要な作品である。それは、頭で理解しやすいので、思考タイプの人に読みやすい。他方は、イメージの中に読者を連れていこうとするもので、そのイメージの連続が結果的にストーリーを生むが、あらすじ以上にひとつひとつの場面が重要と言える作品である。感覚タイプの人に喜ばれることが多い、理解するというよりも、肌で感じる、ことが主となる。筋を追う習慣の人には、よくわからない、と困惑されることがよくある。偉大な作品は、感覚描写だけに頼ることはないし、ストーリーだけを書いていくということはないが、あえて分けた方がわかりやすい物事というのはある。先に進むことを重視するのは、男性的である。その場を味わうということは女性的である。その兼ね合いもまた、小説を読む楽しみである。読み方も色々ある、感想も異なる。書かれたテキストを、できるだけ自身の投影を少なく読み込んでいこうとする者もいるし、著者の心の流れを感じ取ろうとする者もいるだろう。その作品が細部の描写や普遍的な事や物で溢れていれば、そこに世界が出来る。多くの読者は自由にそこに投影をして、色々なことを感じ、感想も多様になる。「銀河鉄道の夜」について語ろうというので、わたしは少々興奮しているようだ。頭から順番に再読しながら書いていこうと思う。

目次

  1. 「午後の授業」仏教的宇宙観の展開
  2. 「活版所」アルバイトするジョバンニ
  3. 「家」貧しい家と母親の病気
  4. 「ケンタウルス祭の夜」機関車になるジョバンニ
  5. 「天気輪の柱」文学空間の中に並置されるもの
  6. 「銀河ステーション」カムパネルラからジョバンニへ。宮沢賢治の内的自伝、詩人誕生神話。
  7. 「北十字とプリオシン海岸」白鳥と十字架が象徴するもの
  8. 「鳥を捕る人」魂を捕らえることの二面性。宮沢賢治作品の秘密。
  9. 「ジョバンニの切符」孤独と叡智、分離と包含。

 

「一、午后の授業」仏教的宇宙観の展開

ですからもしもこの天の川がほんとうに川だと考えるなら、その一つ一つの小さな星はみんなその川のそこの砂や砂利の粒つぶにもあたるわけです。

先生が銀河について説明している場面から始まる。授業の一幕を書きながら、ジョバンニとカムパネルラという二人の少年を登場させ、その関係を示唆し、お祭りがあることを伝える。先生の宇宙についての語りが見所となっている。天の川と地上の川をおなじように視るのは、仏教的宇宙観のわかりやすい展開であり、これはラストに響いてくる。

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「二、活版所」アルバイトするジョバンニ

「よう、虫めがね君、お早う。」と云いますと、近くの四五人の人たちが声もたてずこっちも向かずに冷くわらいました。
ジョバンニは何べんも眼を拭いながら活字をだんだんひろいました。

カムパネルラが、仲間たちと楽しそうにしているのを尻目に、ジョバンニはアルバイトに急ぐ。彼は学校だけではなく、その職場でも、冷やかしを受けているのだった。

「三、家」貧しい家と母親の病気

「お母さん。今日は角砂糖を買ってきたよ。牛乳に入れてあげようと思って。」
「ああ、お前さきにおあがり。あたしはまだほしくないんだから。」
「お母さん。姉さんはいつ帰ったの。」
「ああ三時ころ帰ったよ。みんなそこらをしてくれてね。」
「お母さんの牛乳は来ていないんだろうか。」
「来なかったろうかねえ。」
「ぼく行ってとって来よう。」

ジョバンニが家に帰ると、病気の母親がいる。クラスメートが祭りを楽しみにしている日に、彼は、貧しい家のためにアルバイトをし、これから牛乳を取りに行くのである。「作品」としては、この二章と三章は、賢治が書きたいことではないのだが、書きたいことのために必要な部分ということが、前面に出てしまっている印象を持つ。わたしが賢治なら、二章と三章を書き直したいと思う。細部の描写か、見所を創るか、凝縮して書くか、最低でもリズムを整えたい。しかし、当然のことながら、賢治は賢治で、わたしはわたしなのだ。ところが、これは「作品」ではなく、魂の書だと捉えると、こんなことはどうでもいい、という気持ちがしてくる。「作品」としては、技術的な荒さが目につき、眉をひそめる者もいるかもしれないし、わたしはそれを積極的に認める者だが、四章からは、それを補って余りある、賢治の真骨頂が現れるので、未読の方には、粘り強く読まれることをお勧めする。

「四、ケンタウル祭の夜」機関車になるジョバンニ

坂の下に大きな一つの街燈が、青白く立派に光って立っていました。ジョバンニが、どんどん電燈の方へ下りて行きますと、いままでばけもののように、長くぼんやり、うしろへ引いていたジョバンニの影ぼうしは、だんだん濃く黒くはっきりなって、足をあげたり手を振ったり、ジョバンニの横の方へまわって来るのでした。
(ぼくは立派な機関車だ。ここは勾配だから速いぞ。ぼくはいまその電燈を通り越す。そうら、こんどはぼくの影法師はコムパスだ。あんなにくるっとまわって、前の方へ来た。)

ここから、美しい描写が光る。途中、同級生に冷やかしを受けた後のリアクションや独白も面白くなってくる。賢治節が、この章をストーリーと無関係に読ませる力となっている。星座の図の描写もいい。そして、その星座の中にこれから入って行くことが示唆されながらも、現在がある、という感触が読者を打つ。

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「五、天気輪の柱」文学空間の中に並置されるもの

ジョバンニは、頂の天気輪の柱の下に来て、どかどかするからだを、つめたい草に投げました。
町の灯は、暗の中をまるで海の底のお宮のけしきのようにともり、子供らの歌う声や口笛、きれぎれの叫び声もかすかに聞えて来るのでした。風が遠くで鳴り、丘の草もしずかにそよぎ、ジョバンニの汗でぬれたシャツもつめたく冷されました。ジョバンニは町のはずれから遠く黒くひろがった野原を見わたしました。
そこから汽車の音が聞えてきました。その小さな列車の窓は一列小さく赤く見え、その中にはたくさんの旅人が、りんごを剥いたり、わらったり、いろいろな風にしていると考えますと、ジョバンニは、もう何とも云えずかなしくなって、また眼をそらに挙げました。

自然描写が、わたしたちを世界に連れて行く。そして、それと等価に、同じ言語を使って、ジョバンニには、汽車の音が聞こえ、イメージが見えてくる。文学空間の中では、現実描写とイメージ描写は、並置されて、そこに優劣は生じない。わたしたちが、言語で世界を把握する以上、言語が、わたしたちがよく知る自然を喚起しようと、不思議なイメージを喚起しようと、どちらも全く同じ存在感で持って、浮かび上がってくる。わたしたちがよく知る世界の描写、比喩、そしてイメージの世界に入って行く流れは、賢治の世界の捉え方から生じてくるものだろう。ここに作為などいらない、賢治の感覚の前にあるものを頼りに書けばいいのだ。

「六、銀河ステーション」カムパネルラからジョバンニへ。宮沢賢治の内的自伝、詩人誕生神話。

するとどこかで、ふしぎな声が、銀河ステーション、銀河ステーションと云う声がしたと思うといきなり眼の前が、ぱっと明るくなって、まるで億万の蛍烏賊の火を一ぺんに化石させて、そら中に沈めたという工合、またダイアモンド会社で、ねだんがやすくならないために、わざと穫れないふりをして、かくして置いた金剛石を、誰かがいきなりひっくりかえして、ばら撒いたという風に、眼の前がさあっと明るくなって、ジョバンニは、思わず何べんも眼を擦ってしまいました。
気がついてみると、さっきから、ごとごとごとごと、ジョバンニの乗っている小さな列車が走りつづけていたのでした。ほんとうにジョバンニは、夜の軽便鉄道の、小さな黄いろの電燈のならんだ車室に、窓から外を見ながら座っていたのです。車室の中は、青い天蚕絨を張った腰掛けが、まるでがら明きで、向うの鼠いろのワニスを塗った壁には、真鍮の大きなぼたんが二つ光っているのでした。

不可思議な世界に入って行く場面、賢治は、きらびやかな比喩を重ねる。描写が、眼前に世界を創る。比喩のイメージの中に恍惚としている間に、別世界への移行が始まる。異世界に行くという主題は、人類が創造する物語の十八番であり、ベーシックであり、普遍的なものであるが、移行場面が重要だと思う。そこに橋を架けなければならないから。賢治の描写は、その見事なお手本だとわたしは思う。

すぐ前の席に、ぬれたようにまっ黒な上着を着た、せいの高い子供が、窓から頭を出して外を見ているのに気が付きました。そしてそのこどもの肩のあたりが、どうも見たことのあるような気がして、そう思うと、もうどうしても誰だかわかりたくて、たまらなくなりました。いきなりこっちも窓から顔を出そうとしたとき、俄かにその子供が頭を引っ込めて、こっちを見ました。
それはカムパネルラだったのです。
ジョバンニが、カムパネルラ、きみは前からここに居たのと云おうと思ったとき、カムパネルラが
「みんなはねずいぶん走ったけれども遅れてしまったよ。ザネリもね、ずいぶん走ったけれども追いつかなかった。」と云いました。
ジョバンニは、(そうだ、ぼくたちはいま、いっしょにさそって出掛けたのだ。)とおもいながら、
「どこかで待っていようか」と云いました。するとカムパネルラは
「ザネリはもう帰ったよ。お父さんが迎いにきたんだ。」
カムパネルラは、なぜかそう云いながら、少し顔いろが青ざめて、どこか苦しいというふうでした。するとジョバンニも、なんだかどこかに、何か忘れたものがあるというような、おかしな気持ちがしてだまってしまいました。

ぬれたような真っ黒な上着は、カムパネルラが川で溺れている所につながる布石だろう。同様に、会話も、それを示唆している。この不気味な感じに、たまらない魅力を感じる。死者と対話しているような雰囲気が、心に滋養を与えるのかもしれない。それは、世界が多層になることを意味し、それはこの世界が平板ではないということを意味するのだろう。お盆に死者を弔い、拝み、対話する。このような伝統的風習は、世界の豊かさにつながっているのだろう。青森には、死者を召喚して憑依させるイタコが存在するが、賢治は、死者を呼び、それと同じことをしているのだと言えよう。死期の近い者は、世界がばーっと今までとは異なる深みを持って見えてくるのだと聞いたことがある。また、修行と呼ばれているものは、生きながらにして死に近づくことで、通常意識では見えないものが見えてくる、変成意識状態になるのだと聞いたこともある。これらは、悟りと言われている体験かもしれない。ところで、死者との対話ということは、別の見方も出来る。ある人間の生きていない半面を、20世紀最大の思想家の一人であり、分析心理学を創始したユングは、影(シャドウ)と呼んだ。例えば、正直に生きている者にとって、うそつきな自分は死んでいる。それは生きていない半面であり、暗い影となっている。その影は、他者の上に投影され、強い感情を引き起こす。これがワイドショーのメカニズムであり、スケープゴートを必要とする人間の心理学的構造である。この投影を自分の元に返そうとするのならば、正直な自分とうそつきな自分に対話が成る。生きていない半面、つまり死者との対話が成る。意識拡大の道が開ける。その観点からいくと、明るく級友たちと一緒にいるカムパネルラが川に溺れて死ぬ。そして、その死と共に、貧しく、級友から仲間外れになっているが、川底に銀河を視るようなジョバンニが生まれてくる。カムパネルラからジョバンニへ、そこに銀河鉄道の経験が生じる、これは詩人としての目覚めだろう。詩人、宮沢賢治誕生の神話が、この「銀河鉄道」と言えるだろう。死と再生の神話。そう思えば、賢治が、この作品を改稿し続けてきた理由もわかる。これは、彼の内的自伝であり、詩人として目覚めた意識発達の経過を封じ込めている宝物なのである。生者と死者の、意識と無意識の対話であり、それは詩人誕生神話であり、死者を送る儀式の変奏でもあろう。偉大な作家は、夢を視るように、それらを直観的に行う。その結果、自然がそうであるように、単一に解釈出来ない、重層性が、心の自然からもたらされる。そのような作品を、わたしたちは金字塔と呼ぶ。

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「この地図はどこで買ったの。黒曜石でできてるねえ。」
ジョバンニが云いました。
「銀河ステーションで、もらったんだ。君もらわなかったの。」
「ああ、ぼく銀河ステーションを通ったろうか。いまぼくたちの居るとこ、ここだろう。」
ジョバンニは、白鳥と書いてある停車場のしるしの、すぐ北を指しました。
「そうだ。おや、あの河原かわらは月夜だろうか。」
そっちを見ますと、青白く光る銀河の岸に、銀いろの空のすすきが、もうまるでいちめん、風にさらさらさらさら、ゆられてうごいて、波を立てているのでした。
「月夜でないよ。銀河だから光るんだよ。」ジョバンニは云いながら、まるではね上りたいくらい愉快になって、足をこつこつ鳴らし、窓から顔を出して、高く高く星めぐりの口笛を吹きながら一生けん命延びあがって、その天の川の水を、見きわめようとしましたが、はじめはどうしてもそれが、はっきりしませんでした。けれどもだんだん気をつけて見ると、そのきれいな水は、ガラスよりも水素よりもすきとおって、ときどき眼の加減か、ちらちら紫いろのこまかな波をたてたり、虹のようにぎらっと光ったりしながら、声もなくどんどん流れて行き、野原にはあっちにもこっちにも、燐光の三角標が、うつくしく立っていたのです。遠いものは小さく、近いものは大きく、遠いものは橙や黄いろではっきりし、近いものは青白く少しかすんで、或いは三角形、或いは四辺形、あるいは電や鎖の形、さまざまにならんで、野原いっぱい光っているのでした。ジョバンニは、まるでどきどきして、頭をやけに振りました。するとほんとうに、そのきれいな野原中の青や橙や、いろいろかがやく三角標も、てんでに息をつくように、ちらちらゆれたりふるえたりしました。
「ぼくはもう、すっかり天の野原に来た。」ジョバンニは云いました。
「それにこの汽車石炭をたいていないねえ。」ジョバンニが左手をつき出して窓から前の方を見ながら云いました。
「アルコールか電気だろう。」カムパネルラが云いました。

なんと見事な描写であろうか。一体誰に、銀河をこのように書けるだろうか。それを試みた者がいただろうか。あまり素晴らしいので引用したくなったのだ。

「七、北十字とプリオシン海岸」白鳥と十字架が象徴するもの

銀河鉄道の夜を、ジョバンニとカムパネルラは楽しむ。宮沢賢治の描写は、異界を現前させる。白鳥の停車場と十字架のイメージは、この銀河の旅が、魂の旅であることを暗示する。冬になると白鳥が東北の川にやってくる。賢治もきっと見たことだろう。それは美しく、何とも幻想的である。古事記では、死んだヤマトタケルの霊が、白鳥になって海に向かって飛んでいく場面がある。鳥は古来から、霊を象徴してきた。天を飛び、山に帰っていく鳥に、古代人は、魂をイメージしただろう。鳥居は、鳥の居る場所であり、魂の門の象徴であろう。梅原猛は、相撲取りのちょんまげを、鳥のとさかではないか、と語っていたが、相撲取りのシコ踏む仕草は、大地を踏み、そして天を舞う鳥の表現と思われる。神事としてこれ以上ぴったりとくる表現はありえないと思わせる。白鳥は、わたしたちの心の深層で、ずっと前から魂の世界を飛翔していた。そして、宮沢賢治は、おそらくは直観的に、白鳥のイメージを取り出す。それは魂の舞台のリアルとなって、わたしたちに響く。ポケモンGOが流行しているが、おそらくは、物的現実に対して、イメージキャラクターが同時に存在するという体験をデバイスが補ってくれるおかげで、多くの人間がそれを目にする。イメージが実在し、物的現実に比肩しているということを、体験させてくれているのだろう。デバイスに映るイメージは、光を映像として、認知したものであり、実質は、光ということになるだろうが、多くの偉大な僧たちが見たものは、デバイスなしの光であり、イメージであり、銀河鉄道であり、目に見えない実質、宇宙の秘密だったのだ。創造のハタラキを内的に体験することは、それが、宇宙創造のハタラキと相似形であるとの認識へ導く。ポケモンというイメージは、確実に存在しており、そういうイメージの実在は、遠く太古から人類にとって馴染み深いものである。テレビゲーム、インターネット、色々新しい表面をしているが、容易になっただけで、実質は変化ないものと思われる。

「八、鳥を捕る人」魂を捕らえることの二面性、宮沢賢治作品の秘密

鳥捕りは二十疋ばかり、袋に入れてしまうと、急に両手をあげて、兵隊が鉄砲弾にあたって、死ぬときのような形をしました。と思ったら、もうそこに鳥捕りの形はなくなって、かえって、
「ああせいせいした。どうもからだに恰度合うほど稼いでいるくらい、いいことはありませんな。」というききおぼえのある声が、ジョバンニの隣にしました。見ると鳥捕りは、もうそこでとって来た鷺を、きちんとそろえて、一つずつ重ね直しているのでした。
「どうしてあすこから、いっぺんにここへ来たんですか。」ジョバンニが、なんだかあたりまえのような、あたりまえでないような、おかしな気がして問いました。
「どうしてって、来ようとしたから来たんです。ぜんたいあなた方は、どちらからおいでですか。」
ジョバンニは、すぐ返事しようと思いましたけれども、さあ、ぜんたいどこから来たのか、もうどうしても考えつきませんでした。カムパネルラも、顔をまっ赤にして何か思い出そうとしているのでした。
「ああ、遠くからですね。」鳥捕りは、わかったというように雑作なくうなずきました。

鳥捕りの人は、不思議なことをしているように見える。彼は、この銀河の常識を代表している人物でもあり、商人であり、生計を立てなければならない一方、「来ようとしたから来た」りするのは当然なのだと語る。彼にとって不思議なのは、ジョバンニたちの方なのだ。異界と言えども、そこに住む者は、なんでも自由に無茶苦茶ではなく、その世界の倫理やルールや常識があるようだ、というところにリアルを感じる。面白い。鳥を捕るということは、一面残酷なようでもある。それは、飛翔して来た魂のように見えるから。けれども、捕まえた鳥は、チョコレートのようになっているのだから、鳥を捕まえて、それを甘いお菓子にしてしまうのは、魂の現実をつかまえて童話やファンタジーに拵える、まるで賢治の一面のようではないか。あるいは、文士一般の姿を思い起こさせる。そうであれば、次章で、ジョバンニが、鳥捕りの人を気の毒がるのもわかる。生計を立てるために、素敵な鳥をつかまえて喜んだり、よく見えるように包装したり、それぞれの才能や経験や人気という切符に目を注いだりする。本当に素敵なものを、商売にしなければならない矛盾を抱えるというのは、気の毒ではないか。夢と同じように、イメージは、多重であり、普遍的であり、流動的である。詩人であろうが、誰であろうが、世俗で生きるために、人が生計を立てるために、色々しなければならないことが、ジョバンニにはかわいそうなのだ。彼の幸いのために、代わりになりたいとさえ思う。原罪を背負うような、品格あり、もの哀しい、孤独な歌。これが宮沢賢治作品の比類なき美しさの秘密であろう。

「九、ジョバンニの切符」孤独と叡智、分離と包含。

「さあ、」ジョバンニは困って、もじもじしていましたら、カムパネルラは、わけもないという風で、小さな鼠いろの切符を出しました。ジョバンニは、すっかりあわててしまって、もしか上着のポケットにでも、入っていたかとおもいながら、手を入れて見ましたら、何か大きな畳んだ紙きれにあたりました。こんなもの入っていたろうかと思って、急いで出してみましたら、それは四つに折ったはがきぐらいの大きさの緑いろの紙でした。車掌が手を出しているもんですから何でも構わない、やっちまえと思って渡しましたら、車掌はまっすぐに立ち直って叮寧にそれを開いて見ていました。そして読みながら上着のぼたんやなんかしきりに直したりしていましたし燈台看守も下からそれを熱心にのぞいていましたから、ジョバンニはたしかにあれは証明書か何かだったと考えて少し胸が熱くなるような気がしました。
「これは三次空間の方からお持ちになったのですか。」車掌がたずねました。
「何だかわかりません。」もう大丈夫だいじょうぶだと安心しながらジョバンニはそっちを見あげてくつくつ笑いました。
「よろしゅうございます。南十字サウザンクロスへ着きますのは、次の第三時ころになります。」車掌は紙をジョバンニに渡して向うへ行きました。
カムパネルラは、その紙切れが何だったか待ち兼ねたというように急いでのぞきこみました。ジョバンニも全く早く見たかったのです。ところがそれはいちめん黒い唐草のような模様の中に、おかしな十ばかりの字を印刷したものでだまって見ていると何だかその中へ吸い込こまれてしまうような気がするのでした。すると鳥捕りが横からちらっとそれを見てあわてたように云いました。
「おや、こいつは大したもんですぜ。こいつはもう、ほんとうの天上へさえ行ける切符だ。天上どこじゃない、どこでも勝手にあるける通行券です。こいつをお持ちになれぁ、なるほど、こんな不完全な幻想第四次の銀河鉄道なんか、どこまででも行ける筈でさあ、あなた方大したもんですね。」
「何だかわかりません。」ジョバンニが赤くなって答えながらそれを又畳んでかくしに入れました。そしてきまりが悪いのでカムパネルラと二人、また窓の外をながめていましたが、その鳥捕りの時々大したもんだというようにちらちらこっちを見ているのがぼんやりわかりました。

ジョバンニは、自らでもわからないままに、黒い唐草模様の切符を持っていた。そこには、不思議な字が十ほど書かれている。彼が得た内的な黄金。その智慧は、鳥捕りを驚かせる。そのような神聖な切符を手にし、どこか誇らしい気持ちもあろう。それを鳥捕りに褒められたとき、自らの中にある世俗的な気持ちをジョバンニは恥ずかしがる。そして、世俗的な者を気の毒がる気持ちがジョバンニに生じてくる。そのとき、鳥捕りは消えるのだった。鳥捕りをどこか邪魔者に感じていた自分自身を恥じることは、世俗的なものを内的に認めることによって生じた。そうして、鳥捕りは成仏したのだ。心の現実に登場する力を失ったのだ。このようなことを、宮沢賢治は、夢を視るように書いていると思う。意識的に書くのではなく、夢見るように書いて、自然こうなるのである。イメージ世界を、どこでも自由に移動出来るシャーマンのごとき、内的宇宙に関する叡智をジョバンニは得ている。それは、明るく仲間に囲まれて暮らすカムパネルラの死によって、宮沢賢治が内面に得た光明であろう。物質的現実で貧しく孤独な少年が、魂の現実では高い地位を得ているのである。しかし、ジョバンニは苦しいのである。高くなればなるほど、彼は孤独になっていく。ジョバンニと同じ切符を持つ者がいないのである。

(どうして僕ぼくはこんなにかなしいのだろう。僕はもっとこころもちをきれいに大きくもたなければいけない。あすこの岸のずうっと向うにまるでけむりのような小さな青い火が見える。あれはほんとうにしずかでつめたい。僕はあれをよく見てこころもちをしずめるんだ。)ジョバンニはほてって痛いあたまを両手で押えるようにしてそっちの方を見ました。(ああほんとうにどこまでもどこまでも僕といっしょに行くひとはないだろうか。カムパネルラだってあんな女の子とおもしろそうに談しているし僕はほんとうにつらいなあ。)

(こんなしずかないいとこで僕はどうしてもっと愉快になれないだろう。どうしてこんなにひとりさびしいのだろう。けれどもカムパネルラなんかあんまりひどい、僕といっしょに汽車に乗っていながらまるであんな女の子とばかり談しているんだもの。僕はほんとうにつらい。)

ジョバンニは、カムパネルラと強い同一性を求める。別々の人間でありながらも、この青い星に一つに包含されているわたしたちは、お互いに引き合うのであろう。それは、元々一つであるからに違いない。しかし、同時に離れている。この分離のかなしみに、強くジョバンニは苦しんでいる。内的レベルでの宮沢賢治の自伝的な内容を含むものと想像する。

「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一緒に行こう。僕はもうあのさそりのようにほんとうにみんなの幸いのためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない。」
「うん。僕だってそうだ。」カムパネルラの眼にはきれいな涙がうかんでいました。
「けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう。」ジョバンニが云いました。
「僕わからない。」カムパネルラがぼんやり云いました。
「僕たちしっかりやろうねえ。」ジョバンニが胸いっぱい新らしい力が湧くようにふうと息をしながら云いました。
「あ、あすこ石炭袋ぶくろだよ。そらの孔だよ。」カムパネルラが少しそっちを避さけるようにしながら天の川のひととこを指しました。ジョバンニはそっちを見てまるでぎくっとしてしまいました。天の川の一とこに大きなまっくらな孔がどほんとあいているのです。その底がどれほど深いかその奥に何があるかいくら眼をこすってのぞいてもなんにも見えずただ眼がしんしんと痛むのでした。ジョバンニが云いました。
「僕もうあんな大きな暗やみの中だってこわくない。きっとみんなのほんとうのさいわいをさがしに行く。どこまでもどこまでも僕たち一緒に進んで行こう。」
「ああきっと行くよ。ああ、あすこの野原はなんてきれいだろう。みんな集ってるねえ。あすこがほんとうの天上なんだ。あっあすこにいるのぼくのお母さんだよ。」カムパネルラは俄かに窓の遠くに見えるきれいな野原を指して叫びました。
ジョバンニもそっちを見ましたけれどもそこはぼんやり白くけむっているばかりどうしてもカムパネルラが云ったように思われませんでした。何とも云えずさびしい気がしてぼんやりそっちを見ていましたら向うの河岸に二本の電信ばしらが丁度両方から腕を組んだように赤い腕木をつらねて立っていました。
「カムパネルラ、僕たち一緒に行こうねえ。」ジョバンニが斯う云いながらふりかえって見ましたらそのいままでカムパネルラの座っていた席にもうカムパネルラの形は見えずただ黒いびろうどばかりひかっていました。ジョバンニはまるで鉄砲丸のように立ちあがりました。そして誰にも聞えないように窓の外へからだを乗り出して力いっぱいはげしく胸をうって叫びそれからもう咽喉いっぱい泣きだしました。もうそこらが一ぺんにまっくらになったように思いました。

この分離のかなしみを、ここまで描いているものが他にあるだろうか。幼い頃、両親からはぐれて迷子になったときのような、分離のこわさ、かなしみ。一緒に行こうね、という言葉は、底の見えない暗い穴によって、不吉なイメージを与えられる。そして、カムパネルラは、ひとり逝ってしまう。この星の残酷さ、無慈悲さ、それは、美しさにもつながっているだろう。いつかジョバンニは、この青い星がOneであり、彼自身がOneであるように、別々でありながらも、Oneという所では通じるものがあることに開かれるだろう。表層では別々でありながらも、深層では一つの青い星であることを洞察するだろう。かなしみとよろこびと言う二元は、まわる一つの輪であると。カムパネルラが全体を持ち、ジョバンニが全体を持ち、この青い星が全体を持つように、それは仏教の曼荼羅世界観に現れた一即多、多即一であると。

ジョバンニは眼をひらきました。もとの丘の草の中につかれてねむっていたのでした。胸は何だかおかしく熱てり頬にはつめたい涙がながれていました。

溜息が出る。読者にとっても、共に銀河鉄道に乗っていたからに違いない。ジョバンニは、走り出す。そして、事件が起きていることを知る。カムパネルラが川に落ちたのだ。

下流の方は川はば一ぱい銀河がおおきく写ってまるで水のないそのままのそらのように見えました。
ジョバンニはそのカムパネルラはもうあの銀河のはずれにしかいないというような気がしてしかたなかったのです。
けれどもみんなはまだ、どこかの波の間から、
「ぼくずいぶん泳いだぞ。」と云いながらカムパネルラが出て来るか或いはカムパネルラがどこかの人の知らない洲にでも着いて立っていて誰かの来るのを待っているかというような気がして仕方ないらしいのでした。けれども俄かにカムパネルラのお父さんがきっぱり云いました。
「もう駄目です。落ちてから四十五分たちましたから。」

川に銀河が映る。それは、まるでそのまま空みたいだ。映っているということは、イメージである。イメージはそのまま実在するようにしか見えなかった。カムパネルラは、あの銀河にいるのだというイメージが、本当のことのように思えて仕方がなかった。カムパネルラが星になり、宮沢賢治が星になり、わたしたちは、夜空を見上げる。孤独な大勢のジョバンニたちに向かって、優しい星の光が放たれ、包み込み、わたしたちは、銀河鉄道の夜をどこまでもイメージする。それは、ほんとうのことなのだ。


銀河鉄道の夜

-宮沢賢治