キクチ・ヒサシ

文化と芸術を言祝ぐ『コトバの塔』

黒澤明

黒澤明「野良犬」(1949)欲望の線路を走る狂犬と身近な蝶の歌。良いことと悪いことの間。

黒澤明「野良犬」は1949年に公開されている。三船敏郎が出演するようになって3作目であり、同じ年には、2作目になる「静かなる決闘」、前年には黒澤明映画デビューとなる「酔いどれ天使」(1948)が公開されていて、いずれ有名俳優として世界中の人を魅了することになる三船敏郎を、駆け出しの若手俳優を見るように鑑賞出来るのは喜びであった。「羅生門」(1950)「七人の侍」(1954)へ至る黒澤明と三船敏郎の助走として見るのも面白い。しかしながら、そういう個人的な楽しみを抜きにしても、「野良犬」は驚くほど完成度が高く、娯楽性と作家性の融合した素晴らしい作品であった。刑事の二人が、犯人を逮捕するべく捜査をする、という現代でもよく描かれる刑事ドラマの走り的なお話の構造なのだが、見所がたくさんある。戦後の日本を舞台としており、闇市的な戦後の街を映像として収め、試合中のプロ野球場をストーリーの一部として映像に捉え、犯人捜査の中で踊り子たちの舞台裏を映すなど、映像的快感に満ちて、人のこころを引っ張るフックがこれでもかと詰め込まれている。個人的には、踊り子たちのステージを映した後、舞台裏で寝転んでいる女たちの絵は、フランス画家たちが描いた娼婦や踊り子を思い起こさせ、黒澤明の演出に笑みを浮かべてしまう。

「野良犬」の横線、黒澤明映画の縦線

黒澤明映画の特徴としては、移動が少なく、その場に佇み、そこで起こる人間模様を捉えようとする、高さと深さを描く、山のように動かない映画が、彼の最大のもので、黒澤映画の傑作群に共通するものだとわたしは思う。「七人の侍」の村、「赤ひげ」の療養所、「乱」の城、左右に移動するよりも、深く高く縦線を描くイメージなのだ。そこに在る人間模様に、人類の歴史、人間心理の深み、精神の高みが捉えられ、描かれるのだ。あるいは、場所や時間という日常的意識を超えた、時間も場所もあってないようなイメージの舞台を描いている感じで、特に晩年の作品群は、黒澤明の夢を観ているような感触で、黒澤芸術が美しく結晶した最高峰、繰り返しの鑑賞に耐え、人類の魂を養い続ける国宝級のものと思う。そのような作品と比べると、左右への移動、移動による快感、疾走感がある黒澤映画は稀であり、この「野良犬」と「隠し砦の三悪人」が移動しているという感覚がする映画だと思う。このような移動、視野の早い変化、左右に広がる快感は、現代映画における快感の方程式と全く同じもので、映画が好きな人ならば、誰でも面白いと感じるようなリズムと思う。この横線は、作品が軽くなるが、その分、わかりやすいという感触がある。左右に動かないときの黒澤明映画は重厚であり、常人では考えられないほどに、執拗にその場に佇み、これでもかと動かずに、深めようとする、高めようとする。「影武者」の大殿のように山のようにずっしり、でんと構えて、ずかっとしている。その視点のぶれなさと重厚な空気に、圧倒されることもある。よくぞここまで現実を直視する力量を持っているものだと畏敬の念を持たされる。山がここに在るという感じがする。この縦の線と横の線のバランスによって、黒澤明映画作品は、様々なバランスを見せている訳だが、「野良犬」と「隠し砦の三悪人」は、この横線の軽快さ、快感が著しく、リズムで最後まで一気に面白く見ることが出来る。そのリズムの中に、黒澤明のエッセンスが隠し味のように響き、これはこれで痛快で、たまらない。

「野良犬」のベテラン刑事役、志村の名演技

「野良犬」は、三船敏郎演じる若い刑事が、拳銃をすられてしまい、それが殺人事件に使われていることがわかり、ベテラン刑事役である志村と共に犯人捜査をするのだが、このベテラン役の志村が、はなはだ良い。「七人の侍」でのリーダー役に匹敵する志村の好演だと思う。「生きる」や「醜聞」での志村の「そ、その、つまり、その。もし、そうだとしたら」というお馬鹿な感じの、言葉がもつれて出てこない演技も、けっこうおもしろくて、物真似しまくっているので好きなのだが、それに比べても志村の演技では「七人の侍」と「野良犬」が大好きである。とにかくカッコいい。カッコいい志村がたまらないのである。特に捜査中に聞き込みをして、必要なことを聞き取るとサッとその場を離れるところがいい。聞き取られた方の人間は、いかにも人間らしく、聞かれたこと以外にも何かを話したがってしまう。しかし、志村は聞きたいことを聞いたら、サッと話を終わらせてその場を去るのだ。彼は職務に徹しているのであって、必要とあれば、なかなか口を割らない女にアイスを食べさせたり、おしゃべりして気を許させたり、たばこを吸わせたりして口を割らせる。こういうところがまたいい。物事をよくわかった賢者役をするときの志村が好きなのだ。三船敏郎は「酔いどれ天使」ではやくざ役だったが、今回は刑事役で、この若さもなかなかいい。しかし、この三船敏郎が、「赤ひげ」のような威厳を身につけていくのだから、黒澤明の御眼鏡には感服する。私生活でも、志村と三船は親子のような師弟のような関係だったと聞く。志村が三船を自宅に案内して、配給のビールとかぼちゃの煮つけを振る舞う場面がたまらなく好きだ。一体何を食べるつもりなのか、とわたしは画面に身を乗り出し、「急だから何もないよ、かぼちゃくらいしかない」という意味のことを志村が言い、なんだとかぼちゃでビール?一体どんな感じなのだ、と目を凝らし、そのちゃぶ台と部屋に目を凝らす。その生活の感じが見たくて見たくて仕方なくなるのだ。

「野良犬」のあらすじ。良いことと悪いことの間

犯人は、乱れた世の中で、悪い方向に外れていってしまう野良犬として描かれる。しかし、彼には貧しさがあり、時代の影響がある。そして若い刑事もまた戦後の混乱の中で、ひどい目にもあってきて、もしかしたら彼自身が犯人のようであったかもしれない、と繰り返し示唆される。盗んだり、事件を起こすことは、たしかに「悪いこと」だろう。犯人が好きな女に、ショーウインドーに飾ってあった美しい洋服をプレゼントしたということが明らかになる場面がある。それは悪いことによって手にしたお金である。そしてそのお金で、好きな女に男はプレゼントしたのである。プレゼントは一般には「良いこと」だろう。女は男をかばって口を割らない。それは親しみを持つ人間を守ろうとする「良いこと」ではあろうだろう。しかし、法律的には明らかに「悪いこと」だろう。女は言う。「こんなものを見せびらかすように、ショーウインドーに飾っておくからいけないのよ」確かに、綺麗で豪華で人が憧れる物をショーウインドに飾っていれば、誰でも欲しくなるだろう。そして欲しいためにはお金が必要で、お金はそれぞれの才能や努力や運で、手元に入ってくる量は異なってくる。そして、うらやましいものが飾ってあるのに、自分には手に入らないと思うと鬱屈する者が出てくるだろう。なぜお金を持っている者がいる一方、自分はお金を持っていないのか、と恨む者が出てくる。いつもの黒澤明映画同様、「良いこと」と「悪いこと」が相対的に描かれ、それは容易に固定出来ない。このような善悪二元に対する叡智の高さが、黒澤明が高い芸術家として世界に評価された一因に違いない。西洋では、善悪は、きっぱりと分けすぎて、固定されてしまい、「良いこと」と「悪いこと」は分裂してしまう。その為、黒澤明のように映画を描くことは、なかなか出来ないものと思う。人の心を考えたときに、「悪いこと」にそそのかすようなものが、確かに溢れ過ぎており、物質主義は、精神を堕落させ、欲望を際限なく煽る。欲望は、手に入れた瞬間に消えて、また新しい欲望によって突き動かされる。手にした瞬間に消える欲望の幻想とは、一体何なのか。そして、欲望の電車が走り続けることによって物が売れて、儲かる。人の心の弱さにつけこんで、物を売る。そのようなことは、法律内に入りながらも、けっこう「悪いこと」とも言えるだろう。しかし、それで喜んでいる人の主観の中では「良いこと」かもしれない。追いかける三船敏郎、追われる犯人という場面で、ピアノが流れてきて、子供の歌声が聞こえてくる。ちょうちょ、ちょうちょと蝶の歌だ。魂の世界の調べ、美しき精神の世界が、こんなにも身近に、傍にあるというのに、一方で人が逃げて、人が追っている、そんな風な世界が伝わってくる。人を幸せにするもの、喜びがこんなにもたくさんあるのに、人々は自分を不幸にするような方向へと流れてしまう。三船敏郎扮する若い刑事は、悩む。どうも腑に落ちない。一体何が良くて悪いのか。ベテラン刑事は、そんなことは忘れろと言う。娯楽作品としてのバランス感覚が、志村によってうまく取られている。しかし、果たしてこの社会は、この資本主義とは物質主義とはいかがなものなのだろうか、という問いを突きつけてもいる。後は、映画を観たわたしたち、ひとりひとりに託されたものと言えるだろう。

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