キクチ・ヒサシ

文化と芸術を言祝ぐ『コトバの塔』

黒澤明

黒澤明「七人の侍」(1954)魂の舞台を映画時空間に創造。組織を統べる徳と才(トリックスター元型を召喚した三船敏郎が坂口恭平に見えて仕方がない)

2016/07/09

黒澤明「七人の侍」(1954)を観た。本物の村をその場に創って、ドキュメンタリーのように撮った印象で、そもそも、人間の営みを映す以上、映画そのものが、「映画」ということ自体が、そのようなものであるにしても、圧倒的にリアルで、よく考えてみれば、何台もカメラを使い、場所も変えて、同じ場所であるかのように編集して、映画にしていくという行為は、その黒澤村のリアルは、魂の舞台をそこに創り上げて、手で触れることは出来ないのだが、四角い画面にその光は投影されて、わたしたちは寝て観る夢のように、暗闇の中、映画の光に臨むということは、一体何なのか不思議な気持ちがしてくる、肉体が存在しない魂の次元、などと言うものが存在するとしたら、この映画というのは、まさにそれで、触れることは出来ないが、観ることは出来て、心に強い影響を与え、その切り取られ、並べられ、創造された世界は、リアルはリアルでも、次元の違うリアルで、その映画時空間は、保存され、いつでも再生出来、しかもそこには躍動する本物の人間がいるということになっていて、「七人の侍」のような強度で映画が撮られると、「映画」という概念を更新する必要があるように迫られて、それは娯楽や慰めなどを含みつつ、超えていき、世界観を創り、人間を揺さぶってくるのだが、黒澤明の対談動画などを観たりしていると、「映画」とか「撮影」とか言うときに、どこか神話的に響く感じを受けるのだが、その意味が了解されてきて、黒澤明が完璧主義として知られていて、映画的リアルを追求するためにうんぬんとか、言われているけれども、そこに映し撮られているのは、何を撮っているにせよ、イメージであるため、それはほんの少しのずれで、一気に、物質的現実の模写に落ちてしまうような感覚なのだろうと想像する。イメージ。黒澤明の「七人の侍」は、完全に夢の中に観客をそのまますっぽりと入れるような映画で、何かおそろしいような気持ちがする。映画を観ました、という感じがしない。本物の現実を観ました、という感じになる。わたしたちが普段「現実」と思っているものと、イメージの「現実」を合わせた、本物を観ました、という感じがする。誰かの心の中にすっぽりと入ったような感じがする。さあ、ここは夢のシーンですよ、ここは現実のシーンですよ、みたいな、よくある二元に分けた描き方では実在出来ないようなレベルの層に入り込ませる、すっぽりとその世界の中に入れてしまう。という気持ちがする。

侍のリーダー役を演じる志村喬が、人間的魅力にあふれている。演技というものは、そもそも演技する人間という現実が既に映し撮られているのだが、そして、人間の心にとっては、入口が演技だとしても、全然関係なくて、魅力的ではない人間が、「演技」で魅力的にはならないのと同様、人が振る舞うということに小手先と腹からの現れがあり、良い俳優、良い演技と呼ばれるものは、小手先の技術を超えた、腹から出てくる動きに対して真実であるようなことが出来るのを言うのだと思うが、この侍のリーダーの笑顔、佇まい、有事における能力、全体を掌握する威信は、古くから東洋で才と徳と呼ばれてきたもので、両方を兼ね備えるリーダー像として、説得力があり、すばらしい。ストーリー上、頭を丸めるわけだが、意図としては、僧と武士を兼ねた人物に描きたかったのだと思う。日本人が養った禅的、武道的な修養を身につけた、現代でも通用する模範人物だとわたしは思う。

そして、三船敏郎演じる菊千代は、トリックスターとして、暴れまわる。心の深い層の元型を呼び込んで、まるで憑依したようにして、人間の深層の馬を開放、三船敏郎は、魂の世界のレベルで見ると、この映画の明らかな王である。人間世界の王が志村演じる侍のリーダーだとしたら、菊千代は、深層レベルの王様であり、農民や子供とバカ騒ぎして、遊びまわり、おどけてみせる三船敏郎を観ていると、段々、坂口恭平の姿が見えてきて、重なってきて、我が目を疑って驚いていたのだが、こうして写真をじっくり見てみると、顔がそもそも似ている所がある、というよりも、この三船敏郎も坂口恭平も、深層の馬を開放し、あばれまわるトリックスター元型を呼び込んでいる点で、魂のレベル、深層意識レベルでは全くおなじものなのだから、同じように見えるのも当然なのだった。そして、ユングが言ったように、トリックスターが、いたずらをするところから始まり、それが救世主の像に近づいていくのも、この映画の三船敏郎、坂口恭平に、ぴったり重なり合うイメージで、農民と武士という垣根を超える境界に住むいたずらもの三船敏郎(菊千代)、そして、現代日本を魂の舞台とする荒業を行い、活躍するいたずらもの坂口恭平、これらは同じものだ、と言いたい。わたしは、二度ほど、坂口恭平が大阪でトークショーを行った時に、青木拓人と出かけて、わたしの著書「話の途中」を無理やりプレゼントして無礼つかまつったことがあるほど、坂口恭平をリスペクトしている。彼を主役に誰か映画を撮った方がいいぜ、世界的な俳優になるぞ、とわたしは言いたい。魂のレベルで見るならば、あれはスサノオだぞ、と言いたい。皆、もう気付いているとは思うけれど。

お話の構造は、七人の侍を集める部分と、村で戦の準備をする部分、そして実際の戦と三つに分けられるが、農民も多面的に描かれ、善悪などという二元に絡めとられない、高次の表現となっている。もはや説明不要の有名作品なのだから、詳細を省くけれど、これは何度でも観れる、それほどの価値がある、人類を救済するひとつの神話で、道徳と言うのならば、この「七人の侍」を上映すればいいとわたしは思う。わたしたちを癒し、教育するのは、こうした魂の舞台に触れたときなのだから。

-黒澤明