キクチ・ヒサシ

文化と芸術を言祝ぐ『コトバの塔』

黒澤明

黒澤明「影武者」(1980)人類の影を目撃する男への飛躍。イメージ=魂=映画という黒澤明の文法

2016/08/18

黒澤明「影武者」は、武田信玄の影武者を描く傑作映画である。この設定だけでも面白すぎるのだが、映画全体として、落ち着いた雰囲気で、少しもつまらないところがなく、徐々に深まっていき、衝撃的なラストが描かれる。こういう高質な映画を黒澤明が余裕たっぷりに撮っている(ように見える)事に、感動を覚える。わたしの黒澤特集も終盤に入り、こうして、美しく洗練された「影武者」を観ると溜息が出るのだ。夢中になって観て、我を忘れて、観終わった後には、夢のように思い出しにくく、もう一度観たくなる。

「影武者」の絵、イメージ=魂=映画という黒澤明の文法

この映画の素晴らしい点は、ストーリーというものを超えて描く、黒澤明を黒澤明という芸術家たらしめているイメージ力である。ふつう、イメージというと想像という意味に考えられているが、黒澤明のイメージとは、そういうものを超えている。人は空に、イメージを描くことが出来る。そして、そのイメージ世界が、実在して、わたしたちに強い影響を与えるというのは、よく考えれば、あまりにもその通りなのだが、そういうイメージ=魂=映画、というのが黒澤明文法であり、このような血のにじむような創造活動をよくぞ継続的に行うことが出来たものだと、信じられない想いがする。表層的な物質的現実を画面に捉えながらも、その組み合わせと画は、深層的、密教的に、イメージを描き、そのイメージという内的現実を加えて、美しい映画として創造する。黒澤明は、絵コンテを描いて映画を撮っている。それを見ると驚くべきことに、既に絵コンテにおいて、イメージが表現されて、それを映画作りで追っているのである。カメラでとらえる人や物や場面は、そのイメージを描くための筆のようなものになっているのだ。つまり、すべての映画の場面は、夢同様なのだ。わかりやすく言うのならば、ヴィジョンなのだ。幻視なのである。シャーマン、宗教家、詩人、哲学者たちが視たような魂の世界を、映画で行うということが黒澤明のやろうとしていることなのである。我が国の芸術家では、宮沢賢治と黒澤明は、特別なものを描いているとわたしは思う。

黒澤明映画の真骨頂

「影武者」のような黒澤明作品としては、「七人の侍」と「赤ひげ」と「乱」をあげることができる。これらの共通点は、長編作品であることで、映画の平均的な上映時間よりも長い、という部類に入る。このような長編作品こそが、黒澤明映画の真骨頂であり、人類が生存し続ける限り、繰り返し鑑賞されて、わたしたちの魂を養っていくことと思われる。長さが必要なのは、そこにイメージの舞台を強固に存在させ、鑑賞者をその世界に入れこむためだと思う。その世界の中に入るような感じ、主人公に感情移入するというようなレベルではなく、世界そのものに入り込ませるような映画なのである。観客を飽きさせずにストーリーでコンパクトに描こうと思えば、黒澤明には造作もないことである。しかし、ストーリーというのは、因果をわかりやすく描いて、鑑賞者が、それをコンパクトに記憶として持ち運べる良点がある一方、芸術作品としては、世界とイコールにはならない、狭さを持っていることも確かである。ストーリーは、起承転結によって世界を切り取る。それはわかりやすい、カタルシスもある。その形式は、人類にとって有益なものであることは確かだが、より高い表現を求めるものにとっては、世界が狭くなるのも確かである。黒澤明は、魂の現実を描こうとする。そこに本物が在るように魂の舞台を創る、そして時間が経過する。彼にとって映画とは、魂を描くことなのである、一体誰がそのような高い目標を立てて、それを実現し得たというのか、驚くべき天才の仕業である。黒澤明は完璧主義として知られ、厳しい姿勢で映画創造に臨んだことは有名であるが、それも当然と思う。彼がやっていることは、人類の魂の仕事であり、偉大な芸術家たちが身を粉にしてきた、人類生存に関わってくる重要な仕事なのである。大げさではなく、彼の命がかかっているものと思う。そうでなければ、撮れない、描けないような作品群なのである。現代で生きる限り、誰でも魂が病むようなことがきっとあるだろう。そのようなときこそ、本物の魂の表現が人を癒す。爽快な映画、コンパクトにまとまった作品は、快感、感覚を刺激する。しかし、深く癒す力は持たない。真に魂の危機に接したとき、黒澤明が描くような映画を観るべきなのだ。そのときには、そこに描かれているものが、全く異なるように見えるだろう。人は危機に瀕しなければ、物事を理解しない。そのとき、はじめて黒澤映画の力がもっとも響いてくるときである。この「影武者」という映画ひとつとっても、人々の心の滋養になる場面がいくつもある。過去、人がどのように生きていたのか。どのような感情で人が滅びていくのか。本物と影、というのは、人間存在にとってどのような意味を持つのか。生きる、ということはどのような現実なのか。それらは全て、わたしたちの日常に通じているのだ。

人類の影を描く「影武者」光と影と、生者と死者と

武田信玄の影武者という設定は、不思議な現実を描く。盗人の顔が、あまりにも信玄に似ているので、影武者になることを要請され、信玄亡き後は、本人自身の希望で、男は影武者を務める。しかし、本人が亡くなっている以上、もはや、影ではないのである。本人がいてこそ影である。では、影武者は誰なのか?用意された組織機構の中で、本物のように振る舞うことを強制されている存在とは何なのか?彼は武田信玄なのである。本物のように振る舞い、同じ組織機構の中心という場所にいる以上、それは、同じようなものを彼に運んでくる。彼は、おそるべき夢を見る。それは、組織を束ねる位置にある男にしか見れないような、予言的な夢であった。影武者として、慣れていく彼は、段々本物のように見える。本物のように見えるのが彼の仕事である。本物のように見えるとは、本物のようになることを意味する。自らが死んだ後は、それを三年は隠すようにとの遺言から、彼は影武者となっているのだが、まるで、武田信玄の霊が彼に乗り移っているかのようにさえ見えてくる。思えば、死者の影を務めるとは、魂の世界の住人になることを意味する。本人と影とは、意識の光と影と同様に、一体のものなのだから。ラストの場面で、影武者は、既にお役御免となり、信玄の息子が殿様となり、その息子の愚かな判断で、負け戦となる。元影武者は、その様子を見ている。愚かな戦によって、民の命が奪われ、荒野に凄惨な死体の山が築かれる。そのとき、元影武者だった男は、その凄惨な場に向かって走る。その顔は、当然、武田信玄にそっくりであり、まるで幽霊のような顔となっている。戦争によって築かれた亡き者達の山に向かって、魂を代表する男が、そこを走り抜けるのである。このとき、人間が何と愚かに争ってきたのか、何と馬鹿げたことを人間はやってきたのか、指揮者の未熟な感情によってなんと無駄に人の命が奪われたのか、哀愁漂うトランペットの音と共にわたしたちの心に吹き荒れる。そして、この影武者なのか幽霊なのか信玄なのか、わたしたちの魂を代表するのか、それら全てであるような男が、その現場を走るのだ。黒澤明は、このような死体の山を実際に見ているそうである。思えば、彼の映画とは、戦争と人間の心である。彼の映画に繰り返し描かれてきたもの、「用心棒」のラストで狂ったように太鼓を叩く男が、ここでは、人類の影を目撃する男=影武者=死者=魂の代理人となって描かれ、これは、「乱」に続くのである。光に対しての影であるように、生者に対しての死者は、魂に近しいものの別名であり、武田信玄の影武者であった男は、最後には、人類の影を目撃する魂の男へと飛躍し、わたしたちは、「影武者」に畏怖の念を覚え、感動するのだ。黒澤明が描いているのは、影武者ではない。それは、人類の影を描くための象徴、方便にすぎない。「羅生門」で首都の門が半壊しているという強烈なイメージ、戦後の魂の現実を、短編に収めてから三十年後、「影武者」(1980)にして、「羅生門」で描かれたものは、より広大により深遠になっている。彼の芸術は留まることなく深化、発展しているのである。このような映画監督は、世界にただ一人、黒澤明だけである。

無料で借り放題!TSUTAYAの宅配レンタルと動画見放題

-黒澤明