キクチ・ヒサシ

文化と芸術を言祝ぐ『コトバの塔』

小説・物語

夏目漱石の夢

 目覚めたのかどうかにも気付いていなかった。暗闇の中、上半身がベッドに起きていた。やがて、眼が柔らかい光に吸い寄せられ、白い玉の像を認める。反射的に右手が開き、それを握った。こぶしから、するりと抜けて跳ね、浮上してくる。大口を開けて、それを吸い込み、顎を上げて唾と共に飲み込む。途端に、後頭部が掴まれ、引っ張られ、枕の上に落ち、気を失った。

 気付くと、彼は檻の中に立っていた。白昼夢から覚めるとここに立っていて、前後の関係が思い出せないという具合だった。訳がわからなかった。その檻の中は、役所のカウンターの向こう側に似ていた。数人の男たちが、各々、ふらふらと歩き、立ち尽くし、座り込んでいた。やがて、一人の男が食事の時間が来たことを告げ、床から長方形の金属蓋を取り外す。下水が流れているのが見えた。近づくと、麺や煮物が流れているのがわかった。

「これを取って、順番に食べる」と男が説明した。

 どこかから流れてくる残飯を口にするのは嫌だ、と彼は思った。しかし、彼の番が来て、下水を掬ったスプーンが口に差し込まれ、けいれんし、倒れた。

 目が開き、上体を起こしたとき、彼は再び闇の中にひとりでいた。息を吐くと、白い気体が彼の口から放たれ、空中で玉のかたちを取り、浮上していく。彼は死の恐怖に襲われ、それを掴もうと手を伸ばす。元の世界に戻れなくなってしまう。ベッドの上に立ち、飛び上がり、手が空を掻く。それは暗い天井に吸い込まれるように消えていく。俺は死んだのか。目が闇に慣れると共に、彼の身体は夢から現実へと馴染み始め、耳がきんと鳴り、思考がやってきて、夜と自分とを区別し始める。名前がやってきて、自分を意味づける。ベッドの上で汗をぬぐい、手を開き、結ぶのを数回繰り返した後、立ち上がり、ランプをつけ、机に向かった。深夜二時を過ぎていた。彼はまだ心細かった。書きかけの原稿を手に取り、夏目漱石の筆名を認める。彼は自分の名に視線を落としていた。夢の中で、別の人間だったような気がした、と漱石は思った。

 ハットを被り、下宿を出た。外は濃霧に包まれ、見慣れた建物は姿を隠している。闇に滲むガス灯が街路を暗示しているのを目印に、彼は歩いた。繁華街の中心、ピカデリーを目的地に決める。湿度が高いせいなのか、馬糞の臭いがやけに鼻についた。名前の後には、三十五歳と唱え、自分にまつわる数字を次々と暗唱して、まるでしがみついている。ロンドンに留学して一年以上が経過していることを考えたとき、苦痛が強まった。一体、俺はどこに行こうとしているのだろう、と漱石は思った。鈴と蹄の音が鳴り響き、近づいてくる。すぐ先の外灯の下、夜霧の奥から馬の首が現れたかと思うと、馬車の影が横を抜け、霧に消えていく。

 夏目漱石は、大学進学前、建築家を志していた時期があった。結局、親友の影響を受け、英文学を専攻したが、講義は退屈だった。作家の作品を年代順に並べたり、生没年を暗記したりしても、肝心の文学は遠く、夢の中であった。自力で掴もうと、図書館に通ったが、本も乏しかった。やがて卒業が近づき、稼がなければならなかった。英語教師の口を得たが、窮屈で肩が凝った。松山の中学に赴任し、一年で辞職、熊本の高等学校に赴任し、自宅で結婚式を挙げた。子供も産まれた。漱石は三十二歳になっていた。しかし彼は不愉快だった。腹の中に漠然とした空虚が詰まって憂鬱となり、終始圧迫してきた。各々が職を得て生活し、それなりの満足を得ているように見える中、彼は英語を教えることが既に面倒で、興味もなかった、日々鈍痛を感じながら、いつか本来の道に戻るのだと言い聞かせていた。しかし、何が本来の道なのかが、わからなかった。霧の中に閉じ込められた孤独な人間のように立ちすくみ、どこかから光が射すのを待ったが、どの方角も、いつまでもぼんやりとして、ぼうっとしていた。文部省からロンドン留学の話が来たのは、一九〇〇年、三十三歳の時だった。東京や熊本には見つからなかった何かが、ロンドンにあるかもしれない。大学の頃、果たせなかった文学の根本を極める機会かもしれない。留学後、漱石はロンドン大学に聴講し、図書館に通い、街を歩き回った。ロンドン塔を訪れ、カーライル博物館に足を運び、美術館に行った。そして、三ヶ月もすると大学に通うのを止めた。日本の講義と変わるところはなかった。一年ほどは、ウィリアム・クレイグの個人教授を受けたが、次第に足が遠のいた。文部省への申報書は白紙で送った。賃料を安くする為に、そして、魂の安息地を求めるかのように、彼は下宿を転々とした。浮かせた金を持って古本屋に行き、書物を買い求め、部屋に引きこもった。ディケンズの小説を読み、聞いたことのある著者の本を、片端から読んだ。読めば読むほど、本を読むということの意味がわからなくなっていった。霧の都ロンドンにあって、下宿の一間で、彼は、つまらないと思った。目から水が零れ落ち、頬を伝う。

 爆竹のような炸裂音が鳴り響いた。漱石は立ち止まり、音がした方向に反射的に首をひねった。暗闇が見えた。霧の中、駅に近づいた列車が合図しているのをイメージした。向こうに駅があるのだろう。夜の海を航海しているかのように、前に進んでも、景色には変化がなく、霧が続いている。これではまるで夢だ、と思った。食い入るように外灯に目を向け、歩き続けた。そして、足を一歩一歩前に出す、自分の歩みに注意を向けた。身体が温まり、首元に汗が流れた。息が、波のように満ち引きしているのを感じることも出来た。馬糞の臭いが絶えることなく押し寄せ、確固たる現実を知らせる。足音は確かに、彼に付き従っていた。つま先に目をやって、無心にどれくらい歩いただろう。立ち止まり、腰に手を当てたとき、彼は、完全な暗闇の中にいることに気付いた。外灯から目を離すべきではなかったのだ。

 振り返ったが、何もなかった。暗闇が続いている。周囲に目をやるために、忙しく身体の向きを変えた。そのせいで、今では、どちらが前か後ろかもわからなくなった。目が開いているのかも不安になり、彼はまぶたに手を当てた。それから、暗闇の中に手を伸ばして探った。どの方角にも、どこにも手は突き当たらない。頭を打つのではないかと恐れ、手を上に伸ばすが、何にも当たらない。空気の感触は変わらず、外気に触れているのに間違いはないはずだった。巨大な箱の中に閉じ込められたのではないか、と思うと、恐怖がやってきた。幼い頃、しつけという名目の無意味な罰で、蔵に閉じ込められたことがあった。蔵の戸は重く、びくともしない。彼は半狂乱となり、暗闇の中、柱にしがみつき、一晩中、叫び続けた。そのときと同じように、激しく動悸し、汗が腋の下を流れていく。叫びだしそうなのをこらえ、彼は自分の顔の先を、前と定めて、駆け出した。両手を前に出して、張り手をする力士のような恰好で、小走りで進んだ。見えないものに衝突するのを恐れた。そして、できれば、何かの物質に手が当たるのを求めてもいた。暗闇が続く中を、彼はその体勢で進んだ。何も見えない。ただ黒が続いている。こめかみがぎゅっと痛み、頭が狂ってしまうのではないか、と思った。彼は、右に折れて、進んだ。それから左に折れた。その方が、ただ前方に進むよりは、何かに当たる確率が高いように思えた。足を進めながら、落ち着け、と言い聞かせる。人類の歴史の中では、生まれつき目の光が弱い者でも立派に生涯を終えた者がいるはずだ。そして、誰もが母親の胎内にいるとき、同じような暗闇の中にいたのだ、自分は胎内に戻っているのだと考えれば良いのだ。頭痛は去らず、むしろ強くなる。彼は足を止める、自分以外の人間の存在に思い当たったのだ。「エクスキューズミー」と声を出した。それは、虚しく霧散した。彼が前だと思う方向に、「エクスキューズミー?エクスキューズミー」と叫んだ。今度は、微かに、声が跳ね返ったような気がする。「誰かいないか!」と怒鳴った。少し遅れて、遠くから、自分の声とは思えない間抜けな色で、「誰かいないか」と小さく返ってきた。孤独な闇の中では、それが空耳なのか、確かな音が響いたのかを、現実として共有する相手がいない。願望がそう聞こえさせているだけなのではないか、という考えが一瞬かすめる。己を信じるしかない。壁か建物か、何かがこの方角にある、と言い聞かせる。

 汗が額を流れ、ふくらはぎが張り、息が上がっても、彼は歩き続けた。肉体の疲労が、彼の存在を証明し、励ましているかのようだった。百年くらい歩いているのではないか、という気がした頃、遠くに小さな光が灯っているのが目に入った。地上の一番星という趣で、確かに光っている。彼は走った。闇と自分を区別するのは、この意志なのだ、と意味もわからず、内面で吠えている。思ったよりも早く、地上の星は拡大していき、近づいてくる。彼が近づいているはずだったが、どちらが寄ってきているのか、両方なのか、走っている彼の目では判断できない。どちらでもいい。やがて、それが外灯の明かりだとわかる地点まで迫った。闇の中に、ぽっと浮かび、辺りに柔らかなオレンジ色を投げかけていた。外灯まで数メートルとなり、安堵を得て、歩き始めたとき、光が突然弱まり、点滅した後、闇の中を玉となってゆっくりと落ちていく、線香花火の種火のように。彼は駆け出し、落下してくる光の玉に間に合い、掌に受け止めた。その玉は、両掌に収まり、柔らかく発光して、彼の二メートル四方の足元と霧を映し出している。光を手に、彼は歩き出す。二メートルほど行き尽くすと、新たな二メートルが現れるという具合で、通った過去は後ろに消えていく。彼は、二メートル四方の自分の世界を、風に抗って進んだ。どこに向かっているのかはわからない。それでも、この光があれば、どこに行こうと恐れることはない。風から守ろうと、玉を抱えたとき、それは、そのまま彼の腹へと滑り込んでいき、内から光を放ち始める。

「外側の建設は、もう終わったことがはっきりしました。今必要なのは、内側の建設です」

 腹に手をやった。その声は、そこから出ていた。

「誰だ」と彼は口に出した。答える者はなかった。頭頂部に雷が直撃し、背骨を突き抜ける。これまで外の他人の評価に右往左往し、他人の書物をそのまま鵜呑みにし、自分は振り回されてきたのではなかったか。今、腹に他人が宿っていて、この内側に光る他者こそが、自己であり、芸術家や科学者が恩恵を得てきたインスピレーションの発する場所、偉大な思想家たちが天啓と呼んできたものが発する場所ではないのか。

「必要なのは、内側の建設です」

 北に突き進み、転回し、南に出るかのように、孤独の果てに、内なる他者を見出したのだ、と思った。彼はその他者を自己と同定した。それはわたしであり、わたしでなく、しかもわたしだった。苦痛に満ちた日々が、東京や熊本が、眼前に浮かび上がり、水に流れていく。この光を腹に、ロンドン塔まで歩いて行こう、と思う。いや、その前に、この霧を払ってしまおう。

 漱石は目を閉じた。霧は消え去った。そして、目を閉じたにも関わらず、目を開けているのと同様にはっきりと、虎の模様のような白色の線が、激しく眼前を動いているのが見える。身をよじり、倒れたが、彼は目を開けなかった。次第に目を閉じて見える世界の像は落ち着き始め、線が消えて、銀髪の老女が闇に立っているのが見えてきた。白のワンピースを着ていた。長い銀髪を肩におろし、腕を組み、色のある瞳で彼を見つめていた。女が背後の暗闇を指差す。その指の先に、巨大な塔が輝いていた。暗闇を押しのけ、堂々とその空間を占めていた。塔の頂上は鋭く尖り、天を指し示している。高さはロンドン塔に並ぶが、幅が広く、より有機的で、全体は、カブトムシのさなぎに似ている。表面が黄金に光って、内部が液状に流動しているのが透けていた。まだ完成していないのかもしれない。

 塔から目を転じて、女に視線を向けたつもりだったが、そこにいたのは馬だった。銀色のたてがみをし、大きな瞳で彼を見つめていた。馬は踵を返すと、彼に尻を向けて、輝く塔に向かって歩き出す。漱石は馬の後を追った。

(2014)

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