キクチ・ヒサシ

文化と芸術を言祝ぐ『コトバの塔』

黒澤明

黒澤明「乱」(1985)世界のクロサワ、魂の次元を含むリアリズム。雄大な自然と人間の修羅を描く。

2016/09/08

黒澤明「乱」を観るのは二度目である。黒澤明映画のトップ5に入る傑作と思う。なかなか選ぶのが大変だが、「乱」を抜きにするわけにはいかないと思う。それどころか、世界の映画史的にも、相当上位に入ってしかるべきものである。公開時は、黒澤明75歳である。この映画を観たときの、世界の映画人の顔が思い浮かぶようだ。これを75歳に撮られてしまったら、もう参りました、あんたが大将、てなもんだと思う。これほど美しい動く絵で、人間の魂を描いて、突き詰めている。シェイクスピアをこれほどの映画に仕立てあげることは信じられない。恐れ入る。そして、人間の描き方として、これほどに誠実なものも少ないと思う。人が目を背けがちな、身近でありながらも人類が繰り返してきた行為を、説得力ある形で描き切っている。黒澤明映画では、「蜘蛛巣城」が最もこれに近い主題を持つ映画であるが、完成度、芸術性で「乱」が圧倒的に高く深い。わたしは大好きである。「乱」の城が燃えるシーンは圧巻であり、実際に城を建ててしまうところなどは、半壊した「羅生門」を実際に造った黒澤明の姿勢が、晩年にも貫かれ、むしろ徹底されていることがわかる。燃える城を降りてくる狂ってしまった大殿のシーンは、映画史に遺る美しい表現であり、「乱」で狂ってしまう大殿の前身には、「影武者」での武田信玄の魂なのか影武者なのか人類の愚かさを目撃する匿名の者なのかわからない男が、狂ったように戦場を走り抜けるあのシーンが思い起こされる。更に回想するならば、「用心棒」のラストで、狂ったように太鼓を打ち鳴らす男の姿が蘇ってくる。一体、人間とは何なのか、どうなっているのか、この愚かさは一体何なのか、そういう場面で、狂った男が登場し、その狂い方は圧倒的に身に迫る、こころに長く遺る。人類の争い、第二次世界大戦の爪痕が、その負の連鎖がまだ人々の心に影響を与えているときに、「乱」ほど誠実な映画はないだろう。世界史に名を刻む大芸術家が、わが列島に生じたことを、わたしは誇りに思う。

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「乱」のあらすじ、解説。雄大な自然と小さな人間、黒澤明のリアリズム

「乱」の主人公の大殿は、三人の息子に城と政治を任せて、隠居しようとする。長男と次男は、大殿に対して、いかにも敬った言い方をして、いわゆる「いい子」たちである。三男だけは、ずけずけと進言し、思ったことを口に出す。大殿は怒り、三男を追放するのだが、やがて大殿は、長男と次男にうとまれていることを知る、権限を与えた途端に、彼らが手のひらを返し、大殿が干渉できないようにしようとする。二人の息子は、権力欲に動かされて、別人のようになってしまう。そして大殿が滞在する城が攻められて、部下たちは殲滅、城に火がつけられ、自害する刃さえも失った彼は、茫然自失、狂った男として、燃える城をただひとり歩いて降りてくる。兵たちは、その大殿の姿に恐れを感じ、下がる。もはや亡霊のようなのだ。それは、人類の愚かな戦争で死んだ者たちの代表でさえある。そうして、真ん中に道が空き、そこを大殿は歩き去っていくのだ。衝撃的かつ美しく、比類なき表現である。これ以上の映画の名シーンなどわたしには思い出すことなど出来ない。大殿自身が、地位を築くために、多くの血を流してきた。そのような犠牲者たちも出てくる、そして、彼自身も子供に裏切られる。そのような修羅、人間の乱を見事に描き切っている。大殿の傍には、ピーター演じるトリックスターがいつもいて、彼は冒頭に、あの山から、この山から、と歌うのだが、それは劇中に起こることを予言しているのだった。大殿とトリックスターが二人で荒野をさまようシーンは、非常に変な気持ちがする。だんだん、映画を観ているなどという意識はなくなって、誰かの夢の中にいるようなのだ。映画じゃないな、俺は何を見ているんだ、という気持ちがしてきて、驚きを感じる。そしてそれこそが本物の表現であり、黒澤明の「映画」であり、魂の舞台を、そのイメージを、眼前に目に見えるようにしてくれているものなのだと気付く。山や荒野の中で、小さい米粒のように遠景で撮られる人間の姿、なんと人間は小さく、この自然は雄大で、美しいのだろうか。夕日と山の雄大さに対して、人間の争いのなんと小さく愚かなものだろうか。滑稽なものだろうか。なんと愛しく小さいものだろうか。黒澤明は、イメージを描くことに熟達しており、そのリアリズムは、魂の次元を含んだ、時間と空間さえ超えた、天の視座を持ったものとして「乱」に結実している。

黒澤明、乱

黒澤映画で描かれる人間行為の負の連鎖、「乱」における救い

人間の修羅によって、大殿に滅ぼされた一族の女は、その恨みを晴らそうとする。そのような恨みを持たず高い精神次元にある尼となる者もある。その尼の弟は、大殿の過去の行為によって両目が見えなくなっている。大殿は、確かに裏切られた。しかし、大殿自身も過去に悪行を行ってもいる。三男だけは、狂った大殿を助けようとする。救出劇は成功し、親子の絆が高まったとき、馬上で三男は矢で射られてしまう。純粋なこころを持った尼もまた、無為な殺戮の犠牲となり、結局その尼の首を求めた女に死をもたらす。争いが争いを生み、憎しみや恨みが、次なる修羅を、乱を呼び寄せる。救いようのない人間の愚かさが、説得力高く描かれる。このようなことが、わたしたちの日常で起こっていることを、認めない訳にはいかない。そして、人類史の中で、このようなことが繰り返し起こり、そして今も起こっている。そのような現実をわたしたちは、イメージの舞台に目をこらし、ありありと目撃する。そこには、黒澤明の芸術家としての信念、現実から目を反らさないという、高く誠実な姿勢が、響き渡っているのを感じる。人間の修羅を描く点では、「蜘蛛巣城」(1957)と同様の筋であるが、「乱」(1985)においては、25年以上の歳月が黒澤明にもたらした芸術家の進化がはっきりと現れている。寺に飾られていた、美しい仏像の絵巻を、尼の弟であり、盲目の男が持って歩いている。姉が戻らないので、盲目の彼は崖の上をひとり歩いている。人類の悲劇を現す、目の見えない男であり、同時に、現実を見ることが出来ない人間の哀れな姿も現している。その彼が崖を歩いている姿が、雄大な自然の一部、小さい存在として遠くから映し撮られ、彼は崖の前で、間一髪立ち止まる、しかし、仏像の絵巻が崖下に落ちていく、絵巻は広がり、そこに美しい仏像の絵が開く。わたしたちが崖下に落としてしまった聖なるものの姿を、黒澤明は、はっきりとわたしたちに見せる。それは捨て去るべきものではない。そして、現実から目を反らし、盲目になることは、危険な崖の上を歩くことであり、聖なるもののありかがわからなくなることでもある。そのようなことを示唆すると共に、例えそうだとしても、人間の聖なる光が、最後の最後にはためくのである。更には、愚かで滑稽で、小さく愛おしい人間の姿が、雄大な自然の中のわずかな一部として捉えられ、人間中心の物事の見方を超えた、この世界自体の美しさが、わたしたちの前に姿を現す。夕陽、美しい空と雲、わたしたちを包む山と森。愚かな人間の姿と微かに見える聖なるもの、美しき自然世界の現れ、夢のようなイメージで描かれる人類の迷走と盲目、現実から目を反らさない、黒澤明という山のように大きい芸術家の誠実が、わたしたちの胸に届けられる。前期、中期と比べて圧倒的に高く深い、映画監督という職業人から、大芸術家となった黒澤明の傑作であり、その威信は、古びることなく、人類史に輝き続けるだろう。

黒澤明映画、乱

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