キクチ・ヒサシ

文化と芸術を言祝ぐ『コトバの塔』

黒澤明

黒澤明「悪い奴ほどよく眠る」(1960)組織における人間の腐敗を、個人においては超える、廃墟での美しいキスシーンに象徴されるもの

2016/07/09

黒澤明「悪い奴ほどよく眠る」(1960)を観た。この映画の翌年には「用心棒」(1961)が公開され、更には「椿三十郎」(1962)、「天国と地獄」(1963)へと続く。黒澤明映画がわたしの内的資産として登録されていくにつれ、黒澤明映画の全体が見えてきて、その価値は俄然高まってくる。この映画は、汚職に切り込んだとか、巨悪は表に出てこなくて眠っているとか、そういう風な単純な構図だけで説明出来るようなものではなくて、重ねに重ね、塗りに塗りまくった、要するに、いつもの重層的、黒澤明映画である。廃墟でのキスシーンが絶品の美しさで、恍惚とさせる。

冒頭、結婚式に汚職事件の追求が重ねられる。少し後では、公式には死んだことになったが、実は主人公に匿われて死んでいない男が自らの葬式を見るというシーンに、その上司で汚職している部長と課長補佐を盗聴したテープが再生されて重ねられる。秘密を漏らす可能性のある人間がいなくなった事を祝って乾杯している声がそこに響き、その背後で明るい音楽が鳴っている。テープによって時間が重ねられ、空間を超えてその乾杯と葬式が重ねられる。形式的、慣習的となっている結婚式と葬式という二つのものを利用して、ユーモアとそれに付随する深みが表現され、ここまで観ただけでも、偉大な絵画を何枚も鑑賞したような感じになる。改めて、黒澤明は、センスの塊である。脚本、映し撮る絵、それらをつなげてストーリーにしていく手腕、音楽、主題の広さと深さ、それらを表面的には、エンターティメントとして撮っていくことが出来る。

お話の見所としては、副総裁が「悪い」のだが、更に黒幕がいて、その人形でしかなく、副総裁は、娘には「良い人」で家庭的である。副総裁の息子は、父親が「悪い」ことをしないようにと気遣い、妹を保護する気持ちに溢れている「良い人」であるが、仕事をしておらず、彼が裕福にぶらぶら出来るのは、父親が「悪い」ことをして稼いでいる為である。主人公(三船敏郎)は、父親の復讐で、「悪い人」である副総裁を懲らしめようとして、娘に近づいた。「悪い人」を懲らしめるために、主人公自体が「悪い人」になってしまう。そして、「悪い人」に徹するはずが、副総裁の娘の純真に惹かれ、本気で好きになってしまう。主人公の父親は、「悪い人」である副総裁等の仕業で亡くなったが、そもそも、主人公の父親も出世の為に結婚した「悪い人」で、主人公は私生児として生きてきて、父親を恨んでいた時期があった。そして、副総裁の娘にとっては、父親は「良い人」である。良い悪いという二元で考える限り、どうしようもない葛藤と矛盾がついて回り、二人は、廃墟で、その葛藤を横断して、初めて唇が触れ合い、狂おしくキスをする。二人が円になる。この映画の一番美しいシーンである。愛し合う男女が一体となって、夢見るように目を閉じる。個人においては、それは越えられる。組織的集合的な場では、それぞれが力の連鎖の犠牲になり、二元の中に絡めとられてしまう。黒澤明がその眼光を放つとき、良い悪いを超えて、ただ現実がこうであるように映し撮られていく。しかし、どこまでいっても、その本体は、彼方にあり、把握出来ない。個人であることを忘れて、集合的になったとき、無意識のデーモンが力を振るう。神と悪魔は、電話の向こう側の世界からやってきて、わたしたちの中で猛威を振るい、意のままに、人を操る。個人として可能となっている高い意識が、慣習的、形式的な檻に入った組織的、集合的な場では、低いままに留まっている現実は、今も至る所、この通りである。わたしたちを構成する水を、創造的に流していかなければ、ただちにその水は腐敗する。創造的エネルギーは、行き場をなくし、それは周囲に問題や悩みを創造し始める、悪臭を放ち始める。個人の生命を抑えて全体になるのではなく、個人生命を存分に発揮する先に、人類が発展する道が開けてきた、そのわたしたちの歴史が、善悪二元を超える道を示唆している。それは、昼と夜が廻る、この青い星の一部としての意識を、どれだけの個人が会得するかにかかっている。

-黒澤明