キクチ・ヒサシ

文化と芸術を言祝ぐ『コトバの塔』

梅原猛

梅原猛「少年の夢」(2016)傷ついた者が大きな夢を見る。人類哲学の創造。

梅原猛「少年の夢」を読んだ。対談を主とした同タイトルの書籍も存在するようで、いずれそちらも読了したいと思っているが、わたしが今回読んだのは、学生向けに講演した内容をまとめたものである。わたしは、梅原猛が好きである。どういうときに、好きということがあるのだろう。彼は、現在91歳。旺盛な著作活動を継続的に行い、日本文化を鋭く深く、広範に渡って論じており、論旨は独創的である。彼の本は、全く個人的であり、強く惹きつけられる。個人的ということは、文体にも現れていて、ある内容を情報として伝える、ということを超えている。つまり、彼自身の主観が、見識が文体に現れ、何を書いているにしても読める魅力に満ちている。個人であるということは、自らの心という自然との接触を可能とする。組織的であるということは、周囲の顔色に依存する。この「少年の本」の中にもあったが、新しい主張、新しい意見を持つということは、人を孤独にする。なぜなら、ほとんどの人間が、現状の説を取るときに、それと異なる新しい視点に立つということは、ほとんどの人間を敵に回すことになる。だからこそ、賢い人間、秀才には、創造的な仕事は出来ない、と梅原猛は書く。お金を稼ぎ、地位を得るには、危険な方向にいかないように賢く立ち回る方が良くて、その為、賢い人間には、創造は出来ない。彼自身、受験に落ちたり、留年を三度しているのだそうだ。ノーベル賞を取った湯川秀樹と親しく交流する機会があったそうだが、彼も受験に失敗したりして、秀才ではなかったのだそうだ。偏差値教育というのは、あてにならない、と梅原猛は言う。最近のカラオケでは、歌が終わると点数が出る。もちろん、歌に点数をつけるのは間違っているとわかっているけれども、あそびで戯れているのだと思うし、歌が終わって、次の歌が始まるまでの沈黙を、点数に戯れてつなげるようにしているのだと思うし、河合隼雄は、カラオケの機能は、対話を避けることだと思うと述べていたが、わたしは、偏差値教育の影響で、歌に点数をつけているのだとおもうけれど、それは頭で歌を聞こうとするような態度で、やっぱり歌は心で聴きたいし、対話を避けるためにカラオケの狭い箱に行くのは好きじゃない。歌と歌の間に、点数の話になるとかなしくなってきて、カラオケは二度と行くまいとトイレで泣いてしまうのだ。それで狭い部屋に戻って、歌と歌の間に、六十代の同僚の頭を平手打ちしてみたりして、二度とカラオケに誘われないようにと頑張ってみるのだが、余計に人気が出て、金がないのに、色々誘いが来て、あんまり断ってばかりいるのもつらい、わたしは正直者なので、うそつきになって、金を出さなくてもいい場合に限り参加することにしているのだが、と言う。すると、金は出さなくてもいいから、来てくれと言う。しかし、交通費はかかるし、全く出さない訳にもいかないから、やっぱり金がかかる。わたしは正直者なので、うそつきになって、毎週毎週、居酒屋で豪華でへんな料理を食べてカラオケに行くのは、胃がつらくて肌が荒れるし、生理前なのでちょっと、と言う。すると、生理は終わったか、まだなのか、とうるさいので、いやになってくる、その猛攻を防ぎきって、この本を買う資金と時間を残すことが出来たのだ。

目次

  1. 梅原猛の夢、新しい文明の創造
  2. 日本仏教の流れ
  3. 湯川秀樹のエピソード
  4. 西田幾多郎の影響
  5. 黒澤明のエピソード
  6. 創造的人間の必要、ニーチェの三段階
  7. 梅原猛作品
  8. 終わりに

1梅原猛の夢、新しい文明の創造

梅原猛は、夢を持つことは、現代でこそ可能であると言う。芸術家や詩人が、大きな夢を描いて、それは現実よりも素晴らしく、いきいきとしている。夢を視る職業が芸術家だと言う。また日々の生活でも、夢の実現を目指して働いている人がいる。そして、現在は、近代が指導している状態で、新しい文明意識を持った芸術、哲学、学問の創造が必要な時代であると述べる。梅原猛は、四大文明が、小麦農業と牧畜である点に着目しており、彼は実際に、文明発祥の地を訪れたそうだが、木が一本もないそうである。小麦と牧畜の文明は、砂漠を増やしてしまう。そして、近代とは、その文明が広く地球を覆っていった時代であった。日本の誇れることは、国土の六割が森であることだと言う。約2300年前まで、10000年続いた縄文時代、そして弥生時代と、森と共に生きていた文明が、日本の深層なのだ。狩猟採集と稲作の文明と梅原猛は考えているのかもしれない。どんぐりを餅にして、魚や肉や野菜をぶち込んだ鍋を食べていた、それは、ちゃんこ鍋だと言う。山人は、時々里に降りてきて、やたらと相撲を取りたがったと言う。相撲好きのわたしには嬉しい話ではないか。ゴルフ場などを作って、森を削ることはやめてほしい、と梅原猛は森の精霊が憑依したように言う。わりと最近では、定説を覆して、古くから中国に、稲作の文明が存在したことがわかってきたと言う。彼は実際に訪れて、今と変わらぬ稲を目にしたそうだ。小麦牧畜文明一辺倒の環境破壊に対する警鐘、縄文的精神、アイヌの循環の哲学、森の文明を基底にした新しい人類の生き方を説くこと、人間中心の近代合理主義を反省し、「草木国土悉皆成仏」の思想を基に、循環し持続可能な文明ヴィジョン、人類哲学を創造することが、梅原猛の夢なのだと思う。そして、彼の一連の著作が既にそれだとわたしは思う。

2日本仏教の流れ

梅原は、深く傷ついた者が大きな夢を描くのだと言う。法然は、幼いときに出家し、15歳の時に、父親は死に、厭世観を強くした。寺の僧の堕落にもなじめず、浄土宗を創造する。聖徳太子、飛鳥仏教から、最澄と空海による平安仏教へ、そして、法然によって鎌倉仏教が始まり、親鸞の絶対他力、一遍の踊念仏、栄西と道元の禅宗、宮沢賢治に影響を与えることになる日蓮、日本的霊性発現の流れ、日本文化最大の見所を梅原猛はわかりやすく解説する。個人的には、ここに明恵を加えたい。華厳を説き、北条泰時に多大な人格的な影響を及ぼし、夢記を遺した。華厳宗祖師絵伝、そして、鳥獣戯画が彼の寺に遺っていた。高い人格達成の模範として、長い間、日本人の尊敬を集めてきた巨星である。

3湯川秀樹のエピソード

梅原猛は、湯川秀樹と親しく交流していて、「ぼくは何か憂鬱だった」と言うのを聞いたそうである。湯川秀樹は、兄弟が皆秀才で、出来が悪いので、商業学校に行かされる所だったと言う。小学校の先生が、両親を説得してくれて大学に進むようになった。そして、誰も取り組んでいないような分野に取り組み、論文を書いたが、当時メジャーな分野ではないので、誰もそれを読んで理解出来ないし、読むものがない。それで英語にして、海外に送った。やがて、その論文で、ノーベル賞を得ることになる。晩年は、門を閉ざし、人に会わなかった。湯川秀樹の心の空白を埋めるには、大きな夢が必要だった。彼の自伝は、名文だと言う。いずれ読んでみたいと思う。

4西田幾多郎の影響

西田幾多郎は、独創的な哲学を著した男で、わたしも愛読している鈴木大拙との関係が深い、「善の研究」が有名でみなさんも読んだことがあると思う。梅原猛は、彼に影響を受けて、京都に出てきたようだ。西田幾多郎は、頭が冴えている朝から深い思索をはじめ、それは、散歩をしながらの奇妙なものとして映っていたらしい。現在では、その散歩した道は、哲学の道と名付けられている。警官が彼を呼び止めて、名前を訊くと、京都大学の西田と答えるので、警官は大学に電話して、「西田という作業員がいるか?」と訊いたところ、京都大学で一番偉い先生だったと言う。頭が疲れると、読書をする人だったようだ。普通の学者は、朝から読書に入ってしまうのだと言う。

5黒澤明のエピソード

この本に、黒澤明が出てくるなんて!わたしは大変感激した。梅原が書いているのは、黒澤明が、何かの賞をもらったときに、天皇の質問に答えているエピソードである。あなたの傑作は何ですか、との質問に、黒澤は、「わたしの映画に傑作はありません」と答える。天皇は、うまく伝わらなかったと考えて、質問を少し変えて、「あなたの作品の中で傑作はなんですか」と問う。すると黒澤明は、「芸術家にとっては、次の作品が傑作です」という意味のことを答えたと言う。そして、梅原は、黒澤もあまり人付き合いをしない人だと語る。これは、深い思索や創造の中で、全ての人間、人類について考えている梅原や黒澤にとっては、ごく普通のことであろう。接待する必要があるのは、己の心であり、その心の深奥は、人類全体につながっているのだから。

6創造的人間の必要、ニーチェの三段階

これからの時代には、創造的人間が必要だと梅原は述べる。おそらく時代は大転換をしなければならない。今のままでは、この星の自然は、人類によって根絶やしになってしまうだろう。そして、自然の一部である人間は、自然と共に消えていくだろう。景気を良くしよう、という考えが、既に古い枠組みにはまってしまっていて、景気を良くしなくても、豊かで幸せで発展的な生き方が出来るのだ、という視点が必要だと思う。「豊かさ」自体が問われなければならない。科学と信仰の共存、森と人間の共栄が新たなテーマであり、全く異なる目で全てを見直す必要があるのだと思う。梅原猛の著作や黒澤明の映画は、そうした新しいヴィジョン、大きな夢を視る人にとって、汲めども尽きぬ泉なのだとわたしは思う。梅原猛は、ニーチェのラクダ、ライオン、赤ん坊の三段階を例にして、学生にわかりやすく語りかける。ラクダ時代は、人類の遺産を背負って勉強するので苦しい。そして、次のライオン時代には、既にあるものを批判的、疑問的に見ていく。いたずらに批判することは無意味だが、既にあるものを批判する目が必要である。つまり新しいものを創造するとは何かを破壊することでもあり、既にある理論や学問の成果は、常に仮説であり、それは何度も更新されてきて、今後も更新されていく。既にある成果を鵜呑みにするようでは、新しいものを生み出すことは出来ないのである。そして、最後に赤ん坊時代、純粋無垢な赤ん坊のような目が、新しい創造を行うことにつながっていく。偏差値教育でテストの為の知識を詰め込んでも創造的にはならない、夢を見て、智慧を身につけていなかければ、人格を創らなければ、これからの時代は生き抜いていけないよ、という声を、わたしはこの本に聞いた。

7梅原猛作品

終わりに

梅原猛の著作は、広範に渡るが、これほど読むのが楽しみな著者もない。聖徳太子の書物に今取り組んでいるが、全く面白く深く、オリジナリティに溢れている。わたしは、なぜ梅原猛が好きなのか。わたしはストーリーが好きだし、ヒストリーも好きだ。だから、梅原猛が好きなのは当然かもしれないが、一番は、彼の姿勢であり、彼の足場であり、彼の見ているポイントが好きなのだと思う。カラオケに点数がつくのが好きな人もいるだろう。わたしは、広い野原で自由に歌うのが好きだ。梅原猛は、広い森だ、彼の森の中に入って行くと、わたしは、心を自由に広げて、すごく伸び伸びした気持ちになる。どこかから歌が聞こえてきて、大笑いが聞こえてくる。わたしは、そこに加わって、ダンスを踊りたいと願うのだ。

-梅原猛