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河合隼雄:明恵 夢を生きる

河合隼雄「明恵 夢を生きる」と明恵「あるべきようわ」と高山寺訪問

2016/08/19

河合隼雄の名著「明恵 夢を生きる」は、鎌倉時代の僧、明恵が19歳から60歳まで記録した夢記の解釈を試みているものである。分析心理学を創始したユングにゲーテがいたように、河合隼雄には明恵がいた。そして明恵にはシャカがいた。この「明恵、夢を生きる」と明恵について書かれた本たちは、折につけ、わたしを支えてきた。「あるべきようわ」という明恵の言葉が有名だが、その刻々に変化する物事や人、事物の在るべきようは?とわたしは何度自らに問いかけてきただろうか。親鸞の自然法爾と明恵の「あるべきようわ」という言葉は、似た層から来ている。自ずからの在りようを大切にする姿勢は、ともすれば、外側に振り回され、自己を忘れがちな現代人にとっては、内なる故郷に帰るための道しるべである。詩人、芸術家、心理療法家が日本に新しい仏教が隆盛した時代、鎌倉について言及することが多い。河合隼雄も述べているが、無意識の発見に沸いた、フロイト、ユング、アドラーの時代と比肩する日本の無意識の発見、日本的霊性の発見が、この鎌倉時代なのだ。河合隼雄「明恵 夢を生きる」と高山寺訪問について話そう。

by カエレバ

 

目次

  1. 河合隼雄、師を見出す
  2. 「明恵 夢を生きる」について
  3. 明恵の人生エピソード
  4. 明恵が人々をかくまった高山寺

1 河合隼雄、師を見出す

河合隼雄は、ようやく師を見つけた、と書いている。彼は、日本人で初めてユング心理学の分析家の資格を取り、帰国した。現在は、夢分析の専門性を疑う方が時代遅れというほど、普遍的なレベルまで高まっているが、彼が帰国したときには、まだまだ、夢分析など近代以前のものと取られる向きがあり、河合隼雄は、孤独な想いをしたことと思う。ユング研究所に河合隼雄が着いたときには、すれ違うように、ユングは去っていた。遣唐使や遣隋使の時代のように、海の向こうから新しい智慧を獲得して戻った彼にとって、どのようにそれをこの列島に植えつけ、理解を得て、実践していくのか、ということは、大きな困難であり、同時に使命となり、彼の輝きになっていったのだと思われる。そんなとき、遥か以前に、この日本で、生きている間ずっと夢を記録し続け、それに溺れず、民衆を自らの生きる姿勢で触発し、導いていった明恵に辿り着いた河合隼雄の喜びはいかほどであろうか。明恵の的確な解釈も、河合隼雄からすれば驚嘆するものであったに違いない。北条泰時が、足しげく明恵の元に通ったのも、故なきことではない。不世出の大人物だったのだ。

2 「明恵 夢を生きる」について

わたしは、何度も「明恵 夢を生きる」を読んできた。再読に耐える名著なのである。まず、一般の読者が、夢分析とは何であるのかを理解出来るように、わかりやすく丁寧に書いている。しかも、河合隼雄の主観フィルターを通してくれているおかげで、より血肉化された夢分析の実際に触れることが出来る。高度なメガネを通して、物事を見る体験を提供し、読者の意識レベルを向上させる秘伝の巻物になっている。河合隼雄の投入したエネルギー量に驚きを隠せない。こうした豊かな書物は、人生そのものを描写して、読者に洞察の機会を与える。おそらく、今後、夏目漱石の小説のように長く読み込まれていくことと思う。

3 明恵の人生エピソード

明恵樹上座禅
*心の深みへの下降

修法の最中に「手洗いの桶に虫が落ちたと思う。すぐ水から取り上げて逃がしてやれ」と明恵が言うので、弟子が行ってみると、蜂が落ち込んでいた。又座禅の途中に、明恵が供の者を呼び、「後ろの竹藪の中で小鳥が何者かに蹴られている。行って見てくるように」と言うので、急いで行ってみると、小さな鷹が雀を蹴っていたので追い払った。ある夜には、炉辺で眠っているような姿勢で明恵が座っていたが、急に「かわいそうに。灯りをつけて急いで行き追い払え」と言う。弟子が何事か聞くと「大湯屋の軒の雀の巣に蛇が入った」と言う。行ってみると、明恵の言ったとおりだったので、雀を助けてやった。明恵のまわりでは、あまりにも不思議なことが起こるので、弟子達が、人々が明恵を権者ではないか、と言っていると伝えると、「禅定をし、仏の教えに身を行じれば、誰にでも起こることだ。これは自然に起こることだ。珍しいことではない。水が飲みたければ水を汲み、火にあたりたければ火のそばへよるも同じ事だ」と語った。

*師を見出すことができず、やがて夢を師としていく
「然るに世間に正しき知識もなし。誰に問い何れにか尋ねん」

十八歳の頃、上覚に密教の秘法を授けられ、不明な箇所を質問したが、上覚には答えることができなかった。叔父の上覚には、明恵は手に負えなかった。東大寺でも同じで、白上の峰に引きこもり、修行をするようになる。十九歳の頃から六十歳に及ぶまで、夢記をつける。二十四歳の時、右耳を切る。(肉体的次元での自己去勢は、激しい精神性への希求がある。耳を切るのは正気の沙汰だが、真に創造的な人は、常識や社会的規範を超えた行為をどこかでやり抜かざるを得ない。河合隼雄)三十三歳の時、上覚にあてた手紙で、骨身を砕いて修行に励んでも、一向はかばかしくなく、日夜憂愁に閉ざされている。既に三十三歳になったのに、周囲に思うように奉仕もできず、いっその事死んでしまった方がいい、そうはいっても、人よりも命が惜しく、人よりも不覚なものであるから、他人に出来ることも自分には実現できそうもない、と嘆く。

*社会と接触し、他人の為にも大きい仕事をする運命

世俗を強く厭い、他人を避けて隠遁し、一人こもっての修行を望み、孤高の地位を保ってきた明恵は、次第に周囲に徳を及ぼすようになり、三十四歳の時、高山寺を賜り、正式に居を移す。(明恵は島に手紙を書き、石を愛し、子犬の像を愛玩し、涙もろかった)

*明恵、円熟期のエピソード

ある時、学のある坊さんが数人で訪れたが、明恵は居留守を使った。弟子がまごまごとごまかしていると、後ろの障子を開けて明恵が入ってきて、「ここにいます。あまりに身分不相応なもので、時々このような空事をしている。入ってください」と平気な顔で対面し、客人達は大喜びしたが、食事の時間だと弟子が言っても、明恵は一晩中語り続けるので、疲れ果てた坊さんたちは、トイレに立つふりをして、かわるがわる休息をとった。明恵はその場を動かない。翌日も食事に立つ気配がなかったので、みかねた弟子が注意すると、一昼夜たったとは露知らず、未だ昨日の昼のつもりでいた、法文を言っていると、時の移るのを忘れるのは、このようによくある、と明恵は言った。

ある時、女院が明恵を呼び、受戒を求めたが、女院が明恵を一段低いところへ座らせたので、釈迦の子は国王大臣にもへつらうことはできないので、誰か他の者を呼ぶといいでしょう、と言い、さっさと引き上げてしまったので、女院は焦って、明恵を上座に据え、受戒を受けた。

ある時、貴族が祈とうを頼みに来たが、明恵は、毎日全ての衆生の為に祈っているのだから、あなたもその中に入っているに違いない。それなら特別に祈ってあげることもないだろう。もし望みが叶うべきものなら、祈らずとも叶うであろうし、叶わないものならば仏の力も及ぶまい。その上、平等の心に背いて、あなただけ特別扱いをしたら、神仏も聞き入れるはずはない、わたしが恥ずかしい思いをするだけである。昔の偉い坊さんは方便でそういう行いもしただろうが、自分のような無知のものが真似たら大きな過ちを犯すことになる、といくら頼んでも聞き入れなかった。
明恵に帰依した覚智は(安達景盛という元武士)、ある日、なずなを摘み、味噌汁を作って明恵に食べさせたが、一口食べた後、明恵は埃をつまんで味噌汁の中に入れた。妙なことをなさると思って、覚智が見ていると、「あんまりおいしいので」と恥ずかしそうに呟いた。又、ある時、明恵は松茸が大好物と聞いて、ある人が料理してご馳走した。後で聞くと、大変苦労して探した松茸だと聞き、明恵は恥じ入り、その後は松茸を断った。

*承久の乱、明恵も政治や戦争に巻き込まれる。北条泰時に理を説く

戦争の落ち人をかくまっていたので、景盛は山に打ち入りて、明恵をとらえて、六波羅へ拉して行った。(景盛は、後に明恵の弟子となり、「覚智」と名乗るが、この時は明恵を知らなかった)北条泰時が軍勢を集めて指揮しているところに、景盛が明恵を引っ立てていくと、かねてから明恵の噂を聞き、尊敬していた泰時は、驚いて席を立ち、明恵を上座に据えて、かしこまったので、景盛はとんでもないことをしでかした、と興ざめの体であった。

明恵は、泰時に向かって、「わたしについては、多少お聞き及びのことと思うが、若い頃寺を出て、方々さまよった後は、長年かかって覚えた法文さえ、思い出すのを厭うようになっている。まして、世間のことなど考えてみたこともない。そんな風だから、誰かの味方をするか、ひいきにするといった気持ちはみじんも持ち合わせていない。そういったことはすべて、沙門の法に背くからである。わたしにとっては一切衆生の苦しみを救うのが先で、縁故があるからといって、特別扱いはできないのだ。だが、特別扱いをしないといっても、高山寺は、殺生禁断の地である。鷹に追われた小鳥や、猟師から逃げたけだものは、皆この山に隠れて命をつないでいる。いわんや人間が、からくも敵の手を逃れ、木下・岩のはざまなどに隠れているのを、自分が罪になるからといって、見捨てることができようか。古の聖者達は、身を捨てて、鷹や虎のえじきとなったが、それほどの慈悲心には及ばずとも、哀れな人々をかくまう位のことを、この明恵がしない筈がない。出来ることなら、袖の中、衣の下にも隠してやろうと思っているし、今後もきっとそうするに違いない。是れ政道の為に難儀なる事に候はば、即時に愚僧が首をはねらるべし」と言い切った。

泰時は恐縮し、侘びを入れ、あらためて現実的な問題について明恵に教えを請うた。北条泰時は、その後度々、明恵のところを訪れ、法談に及んだ。明恵が教えたのは、政治のあるべきようであった。「乱世の原因がどこにあるかといえば、すべて人間の欲から出ている。これを癒すには、先ず自分の欲から捨ててかからねばならぬ。そうすれば、天下は黙っていても治まるであろう。只太守一人の心に依るべし。天下の欲心深き訴え来らば、我が欲心の直らぬ故ぞと知りて、我が方に心を返して、我身を恥しめ給うべし。彼を咎に行ひ給うべからず。譬えば我が身のゆがみたる影の、水にうつりたるを見て、我が身をば正しく成さずして、影のゆがみたるを瞋りて、影を罪に行はんとせんが如し」明恵が没すときまで、泰時との交流は続いた。

4 明恵が人々をかくまった高山寺

わたしは、今回の高山寺訪問が三度目である。高山寺は、静かな山である。明恵が過ごした石水院が残っているのみで、他は江戸時代以降につくられたものである。にもかかわらず、わたしにとって最も大事なお寺になっている。この山で座禅をしなかった石はひとつもない、と明恵は豪語している。わたしは、石を見つけては手を触れ、座り込み、清浄な空気を吸い込み、明恵の気を感じる。大木に彼が棲んでいるのをわたしは感じる。かつてこの山に、戦火を逃れた人々が集まり、明恵は、危険をかえりみず、自らの命をかけて、人々をかくまったのだ。

*参考文献

by カエレバ

 

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