黒澤明「夢」(1990)全8話の解説、夢分析の試み
2024/08/13
黒澤明監督の映画「夢」(1990)は、1990年の5月25日に公開されていると言う。恥ずかしながら、この映画を5月23日に借りてきて、昨日返却した。そして、わたしの誕生日は5月25日で、この星のめぐりに、驚きを感じる。この星におけるすべての物事が、網の目のようにつながっており、それらは関連している。それにしても、こうもあからさまに関連を示されると、わたしに生じている縁について考えされられてしまう。それは贈り物のように降ってくる。それが、遠いような関連であっても、おなじことであるが、こうした縁が、星座が、わかりやすく人を導き、この星の在り方を伝えてくる。人はそれを「奇跡」と呼んだり、「あるべきよう」と呼んだり、単に「美」と呼んだり、「思い込み」と笑ったりもするだろう。
黒澤明の夢と映画
この映画は、8つの夢が、並べられている。夏目漱石の「夢十夜」を借りて、「こんな夢を見た」という文字と共に、描かれていく。感動した。イメージを描くということは、そのまま、彼の夢と同様であることを、「酔いどれ天使」の記事で書いたが、この「夢」という映画について感想を述べようというのならば、更に一歩進めて、書かなければなるまい。黒澤明の「雨あがる」のDVDには、彼の脚本が自筆でDVDに付録しており、読むことができるが、驚くべきことは、彼の脚本は、既に映像として撮る前から、イメージが明確であり、人がどのような風景に、どのように立っているのか、どう動くのか、ということまで、きっちり記されていることである。明確なイメージを空に描き、その上で、彼は映画を撮ってきたのだろう。つまり、本体は、イメージであり、それが出力されて、形となった結果が映画だということである。近代になって、夢やイメージは、空想や妄想などの病的なものとして捉えられる傾向があったが、フロイトやユングの体験知の積み重ねによって、それらは払しょくされ、夢が人間の本来的な言語であり、イメージが、日常言葉で扱いきれぬものを全体的に表現可能であることは、常識となったと言って良い。我々が時間的な根を持つ以上、先祖たちの神話や民話を切り捨てることなど不可能であり、また日常生活の実感からも、心の深層こそが根であり、表層である言葉になる前のコトバが、イメージであり、夢であると言うのは、わが国では、説明を必要としない。フロイトは、夢を抑圧された願望として捉えたが、ユングは更にそれを推し進めて、個人的レベルと普遍的レベルに分けた。個人的レベルでよりよく生きていない者の夢に、願望充足的なイメージが生じるというのは、多くの人の夢の実感であり、わかりやすいことから、夢を見ないくらいの状態が良いと述べる者もいて、そこには一定の意味があるが、一般的な現代生活を送る多くの人間にとっては、夢に注意を払っていても夢を見ないほどに、充足することは簡単なことではない。また、効率を追い求めた節操な暮らしを送りながら、夢に注意を払うのは、並大抵のことではない。わたしは8年夢を記録しているが、実際にやってみるとわかる。夢はその人の個人的な関心事を全て明らかにしてしまう。表層にとっては最も意識したくない事柄、その人間の盲点を表現してくる補償作用が、つかみにくく、理解しにくいのもやむを得ないことである。夢分析の体験知は充分に集積され、誰でもその気になれば、書籍を読み込み、その知見を自らの夢体験に応用することが可能である。話を戻すが、ユングは、個人的願望の充足の線では、考えられないような夢を普遍的レベルの夢として考えた。ある民族では、個人では抱えていられないような夢が生じると、一同を集め、その夢を話す習慣がある。そのような夢は、ビッグドリームと呼ばれ、民族全体の夢が、何者かの上に、間欠泉のように噴出する。いわば、シャーマンや預言者と我々が呼ぶような人達の上にそれが生じた。近代化以後は、主に芸術家達のヴィジョンの中に、それらの痕跡が認められ、そのヴィジョンは、希望を表現し、時に人類に警鐘を鳴らし、広く伝播し、そのような作品を、わたしたちは、普遍的な作品と呼ぶ。それは、表現者個人を超えた普遍的レベルに到達したものとして見るのである。例えば、黒澤明の映画がそれである。彼の作品の中で描かれてきた重要なシーンを思い描くとき、まるで夢のような、幻想のような、人を惹きつけるシーンがわたしの中に思い浮かんでくる。そのイメージは、作品の核になっていることが多い。誰でもそれに相当するものを思い浮かべることが出来るだろう。ガルシアマルケスの小説に描かれる幻想的なイメージ、宮沢賢治のファンタジー、カフカの諸作品、多くの優れた詩人や宗教家、芸術家達のビジョン。黒澤明の「八月の狂詩曲」のラストを思い浮かべてもいい。それは言葉を超えた、力強く意味深い、それでいてひとつの、美しいヴィジョンである。黒澤明映画の諸作品のラストを飾るようなイメージが、贅沢に取り出されて8つも並べられて、それは「夢」というタイトルとなっている。これらのイメージを分けて使うことで、いくつかの作品として成立させることも可能である。わたしは、この「夢」をひとつ観る度に、休憩を入れたいくらいに、濃密な体験をした、と告白しておく。
黒澤明「夢」の夢分析
目次
- 【日照り雨】虹の下
- 【桃畑】精霊たちの舞い
- 【雪あらし】雪女
- 【トンネル】歩哨犬
- 【鴉】ゴッホの絵世界
- 【赤富士】原発の爆発
- 【鬼哭】文明世界崩壊
- 【水車の村】自然法爾
黒澤明「夢」第1話【日照り雨】狐の嫁入り、虹の下
少年は、日照り雨の中、狐の嫁入りを目撃する。それは、美しい行列である。彼はそれに見とれてしまう。そして、狐に気付かれてしまう。家に戻ると、短刀が送られてきている。見てはいけないものを見たので、狐が怒り、その短刀で自決することを求めているのだと女は言う。そして、「狐の家は、虹の下」であると言い、謝ってくるようにと告げる。少年は、家を追い出され、しぶしぶ、自然の中へと分け入っていく。恐ろしいくらいに美しく咲いた花畑を超えて、彼は、虹の下へ向かって、短刀を手に歩んでいく。見てはいけないもの、この世の神秘であり、秘密である。黒澤明という芸術家になる少年は、神秘をのぞきこんでしまった。そして、彼は、宿命的に、短刀を持って、狐の元へ行かなければならない。しかし、その場所は、虹の下であり、ふつうの歩み方では、永遠に辿りつけない場所である。その道筋は、困難な道でありながらも美しく、どこまでも続いていくことが示唆され、少年の長い旅路を予期する。幼少期に、その者の人生を決定づけるような夢を見ることはよくある。自然の奥深さ、神秘、深遠を描いてきた黒澤明の宿命を描くような美しいイメージである。日照りと雨という一見相反するものを同居させる多義性は、彼の映画の性質そのものを現すかのようだ。異界から手に入れた短刀で、彼は、異界に辿り着く最後の時まで、神秘を切り取り続けるのだろう。
黒澤明「夢」第2話【桃畑】木の精霊たちの舞い
ひな祭りの日、少年は、その場に六人いると思っていたのに、気付くと五人しかいない。そのことで騒ぐが、周囲は、頭がおかしくなったと思って取り合わない。すると、美しい少女が、部屋の隅にいるのが見える。少女は、少年を桃畑へと導いていく。そこには、桃の木の精霊たちがいた。美しい衣装をまとった精霊たちは、桃の木を切断されたことに怒っていた。ひな祭りは、桃の節句で、その桃の木を切ってしまって何がひな祭りだ、と少年に怒りをぶつける。ひとりの精霊が、桃の木が切られるときに、最後まで泣いていたのがこの少年だから責めてはいけない、と諭す。そして、全員で舞いを披露してくれる。桃畑は段になっていて、それは、本物のひな祭りの姿を現している。とてつもなく美しい場面だ。着物と舞と音楽。一転して、無残な桃の切株が、緑の中で、墓のように並んでいるのを少年は目にする。そして、おそらく少女の形で現れた桃の木が、小さく花を咲かせている。
黒澤明「夢」第3話【雪あらし】永遠の眠りにつかせようとする雪女
雪山だろうか、吹雪の嵐の中を、数人の男たちが歩いている。意識朦朧とし、時間感覚もおかしくなり、限界の中、リーダーがひとり叱咤激励している。「キャンプまであともう少しだ」「起きろ、眠ったらしぬぞ」ひとりが「誰かが来た」と言う。「誰も来ていない。幻覚だ」とリーダーは言う。しかし、男たちは、雪山に倒れてしまう。そのとき、美しい女神がやってきて、リーダーに、輝く布を被せる。「雪はあたたかい」と言う。「氷は熱い」と女は言う。そして、リーダーを永遠の眠りにつかせようとする、男は抗う。そして、女は、鬼へと姿を変え、飛んでいく。雪山の女は、人々を永遠の眠りにつかせる自然の化身であり、わたしたちの祖先が神や悪魔と呼び、畏れてきたものである。自然にとっては、善悪などない、人間にとって救いとなるときに、それは女神となり、人間の敵となるときには、鬼の姿として、わたしたちに捉えられるのだ。自然の前では、わたしたちは、いつもこのように勝利できるとは限らない。実際助けてくれたのもまた、太陽の恵みなのだった。第2話と同様、自然の精が擬人化してくる夢で、わたしたちが自然への畏怖を欠いていればいるほど、ますます補償的となってくる。
黒澤明「夢」第4話【トンネル】生き残った隊長と歩哨犬
男が歩いている。眼前には、先を見通すことのできない暗闇の円。トンネルがある。そこから、歩哨犬が出てきて、男の足元で吠えたてる。男は、慌てながらも、暗闇の中に足を踏み入れていく。漆黒の闇の中で、男の足音がこだます。やがて、トンネルを抜けたとき、背後から、誰かがやってくる。それは、男がかつて指揮した第三小隊の部下だった。「自分は本当に死んだのでありますか?」と部下は言う。男は、自らの手の中でそうなったことを語る。しかし、部下は、自分の帰りを待つ両親の灯りが見えると言う。部下の中では、まだ戦時中なのである。暗闇、わたしたちが生まれてきて還っていく暗闇、東洋哲学では、色即是空、空即是色として知られる現実感。このトンネルが、現実のトンネルではなく、異空とつながる境界であることのリアル感。暗闇、それはそもそも、そういうものではないか、映っている暗闇自体の本質がそうではないか。そのため、恐ろしいくらいの現実感がある。いわば、魂のレベルのイメージは、外的現実に匹敵している。あるいは、人によっては、それを超える根源だと言う者もあるだろう。やがて、全滅した第三小隊が、行進してきて、男の前で整列する。男は言う。「よく聞いてくれ、正直に言う。お前たちは全員、戦死したのだ」「還って、静かに眠ってくれ」しかし、男の言葉は、男の言い方では、彼らには、伝わらないのだ。「第三小隊、回れ右、前に進め!」その言い方で、小隊は、トンネルの中に戻っていく。すると、歩哨犬が再び、暗闇の中から現れて、男にまとわりつく。払しょくできない影が、男につきまとってくる。このブログで、「明恵、夢を生きる」という記事を書いたが、60歳まで夢を記録した名僧、明恵は、黒い犬がまとわりついてくる夢を見ている。彼のような偉大な聖人にとっても、黒い影がある。明恵は、黒犬の像をつくらせ、愛玩した。男は、異界の犬に呼ばれている。それは、彼にまとわりついてくる。もう一つの視点では、男もまた異界の住人になっていることをまだ自分で気付いていないのではないかとも思わせる。あるいは、暗い淵が、彼を呼んでいるかのようだ。人類にとっての悲劇の傷跡を、魂のレベルで描いた美しいこの映像をわたしは忘れないだろう。ビッグドリームだ。
黒澤明「夢」第5話【鴉】ゴッホの絵世界の中へ(自然と合一する芸術家)
黒澤明が、ゴッホの絵を高く評価していたことをわたしはこの映画を観て知った。美術館に飾られたゴッホの絵の輝きの生命感は異常なほどで、そこに夢を見る黒澤明に、わたしは感激した。ゴッホの絵の中に入って行くのを、スリリングに描き、美しい映画の絵としてしまう所に驚愕した。並大抵の没入ではないのだ。全ての映画の中の建物、景色がゴッホが捉えたように映し出され、男は、ゴッホの筆の線の中にさえ入って行く。マーティン・スコセッシが演じるゴッホに男が出会ったとき、わたしたちは、魂の舞台で、ゴッホに出会ったのだ。彼は言う。「なぜ描かん」と。「絵になるような風景を探すな」なぜなら、どんな自然も美しいからだ。ゴッホは、自分を意識しなくなる没頭の中で、自然の中に吸い込まれて、気が付くと夢のような絵が出来上がるのだ、と語る。そのまま、黒澤明の「夢」、そして創造の秘密と言っていいだろう。黒澤明が、ゴッホの絵の中に、深いレベルで没入したDaydreamingが、この第5話「鴉」であろう。
黒澤明「夢」第6話【赤富士】富士山と原発の爆発
人々はパニックに陥っている。「何があったんですか」と男は尋ねる。富士山が噴火し、原子力発電所が爆発したのだと言う。このビジョンが、2016年のわたしたちにとっては、既に起きてしまった予言の一つであったことがわかる。予言などという言い方をしなくてもいい、それは、意識的現実に対して、芸術家の心に湧き上がったビジョンが、単に集合意識に対して補償的な為なのだ。黒澤明のビジョンの中には、日本破滅の地獄絵図が浮かびあがったということなのだ。一体誰にその可能性を否定できるだろうか。日本の象徴である富士山が赤く染まる。夢分析をしているとわかることだが、イメージやビジョンに対しての意識的な取り組みを怠るとき、それは実際に生じてしまう。夢は、イメージ体験によって、足りないものを指し示す。補う必要があるものを気付かせる。現実の咀嚼能力が足りないものが、歯が抜ける夢を繰り返し観るように。わたしたちは、このような夢を何度も繰り返し見ることになるのかもしれない。「全く人間はアホだ」「狭い日本だ、逃げ場所はないよ」そして、「原発は安全だと言った人たちが許せない」と語る男が、それが実は自分だとして、海に落ちていく。
黒澤明「夢」第7話【鬼哭】文明世界崩壊の後で
崩壊した街を背に、男が歩いてくる。そこには、鬼がいる。自然植物は奇形となり、獣はいなくなった。痛む角を抱えて、もだえ苦しむ鬼たちの共食い。壊滅した人間世界、汚された自然界。鬼だけが生きている、地獄絵図が現実のものとなってしまった世界がある。
黒澤明「夢」第8話【水車のある村】自然法爾
第7話と第8話の流れとして、このようなヴィジョンが生じるのは最もなことだと感じさせる。物質的な生活、効率的な生活が、必ずしも人を幸せにしないことに、多くの人間が気付き、多くの偉大な芸術家が、繰り返しこのヴィジョンを描いてきている。人類の生き方を、新しいパラダイムに更新しなければならない時代である。水車の村を訪れた男は、老人に訊く。「電気は引いているんですか?」「そんなものはいらない。人間は便利に弱い」と老人は言う。「夜は暗くないんですか」「暗いのが夜だ。星空が見えないような明るい夜は嫌だ」人間も自然の一部であることを忘れて、自然の深い心がわからないものが多くて困る、と老人は語る。わたしたちの祖先は、永代常夜燈を創り、そこに火を灯した。電気がない時代でも、人は生きていたのである。三種の神器は、電化製品ではなく、剣と鏡と勾玉なのだ。
自然と共にあれば、寿命を全うできて、そういう大往生は、かなしむべきものではなく、よく生き、働いて、おつかれさんと言うべきもので、葬式は、めでたい祝福の儀式なのだと老人は言う。わたしたちがやってきた空白との再びの結婚、それが大往生の意味なのだと老人は言っているのだ。自然法爾。祝福の行列、舞う花びら、人生の喜びを祝うダンスと歌。内なる自然に親しい芸術家たちの声は、いつも同じである。自然と共にあれ、と彼らは言うのだ。そして、わたしたちの内的自然、心が荒れていれば、それは外的現実に投影されていく。わたしたちの内的宇宙を開発し、その黄金を物質的現実に匹敵させるまでに、建立すること、これがわたしたちの時代の主要な仕事であるとわたしは信じる。黒澤明の夢を、わたしたちが引き継いでいくのだ。