キクチ・ヒサシ

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日本文化

「クマにあったらどうするか」アイヌ民族最後の狩人に学ぶ共生の在り方、熊の真実。

「クマにあったらどうするか:アイヌ民族最後の狩人」を読了した。非常に面白く、卓越した智慧がちりばめられて、読みやすい上に、熊猟師の自信に満ちた言葉のリズム、生の語りが損なわれずに収録されており、学ぶところが多かった。三年に渡るインタビューをまとめたものだが、インタビュアー(片山龍峯)がわからないことを執拗に問う姿勢とそれに率直に応える猟師の言葉(姉崎等)がこのような素晴らしい書物を創ったのだと思う。ポイントが幾つもある。実際に山で何度も熊と出会い、熊の生態について、体験的に知り尽くしている狩人が、わたしたちにとって未知である熊の姿を浮かび上がらせてくれて、山で熊に出会ったらどのような行動を取ればいいのかを理解することが出来る。それは本能と対面したときにどのような態度が必要なのか、というレベルでは、わたしたちの日常における対話にも通じる智慧となっている。更には、アイヌの血を持つ熊猟師には、当然アイヌの伝統が流れており、その文化を彼の語りから窺われるところも面白い。日本列島の縄文時代からの文化を最後まで保存し続けたアイヌに触れることが出来るのだ。更には、共生ということの意味を新たにさせる視点が提示され、人間と自然の関係、熊が人里に現れるようになった理由などが説得力高く語られる。

アイヌ民族最後の狩人は、65年に及ぶハンター経験を持っている。彼は熊も、人間を恐れていると言う。彼は夜中に山菜を取りに山に入っているときなど、何度も近くにいる熊を目撃している。その経験からも、熊は人間を恐れていて、出来たら会いたくない、近くにいると嫌だな、と思っていると言う。熊の方も人間を避けようとしているのである。しかし、熊の主食はドングリ等であり、昔から人間と生活圏が重なる所がある。縄文人の主食はドングリであり、熊と人間はとても似ているところがあるようだ。最近の問題は、山に入った人間が、カップラーメンの残りかすや美味しいお菓子などの袋やジュースを捨てて帰ってくることだと言う。そのせいで、熊は、その味を覚えてしまう。熊は、雑食であり、好んで肉食をしないので、滅多なことでは人間を襲って食べようとは考えていない。しかし、稀に、人間を一度襲って、その味を覚えてしまった熊は、もはや処分しなければならないのだと言う。アイヌでも、そのような熊は、イオマンテの儀式で天に送り返すのではなく、二度と蘇らないように逆さにして土に埋めるなどしていたそうだ。大抵の熊は、自分から襲って人間を食べようなどと思っておらず、人間の味を知ってしまった熊が危険なのである。そして、人間が虫駆除などで山に薬を散布などした為、山は生き生きとしておらず、生態系が壊れてしまって、熊も食べるものがなく、美味しい人間の食べかすを覚えると、人里に下りてくるようになった。猟師は、山に入ると、その山が死んでいるとすぐわかると言う。それは、ひとつの生き物の悪い部分だけを見て、全体の生態系を考慮せずに、駆除などをしてきた人間の仕業であり、なぜか実をつけなくなった木があったり、以前の山とは異なっているのだと語る。熊は人間を避けて、恐れて生きている一方、人間の方はルールを守れないのだと言う。まさしく「もののけ姫」の世界であった。アイヌの狩人は、山で何度も熊と戦い、そして時に戦わず、熊と何度も接触しており、熊は自分の師匠と考えている。そういう彼は、山で熊にもし出会ったら、対面して立ち、目を反らさないのが大事な態度だと言う。逃げたり、背中を見せることは、命をあげることだと彼は語る。非常に説得力があった。熊は昔から人間が木を切り倒したり、不思議な力を持っていることを観察していて、人間を恐れていると言う。熊から見ると、人間は強いのだ。一般に死んだふりをするのがいいと言われているのは、こちらに敵意がないことを示すことに意味があるが、出来たら、腰を下ろして目を反らさずに座っているのがいいと言う。もし更に出来るのならば、立って相手と向き合い、目を反らさずにいるのが良い。更には、自信を持った大声を出すのが良いと言う。抵抗しない、弱いという風に熊に見せることが危険なのである。このような熊という本能と対峙する姿勢は、本能が強くなっている人間に対峙するときと全く同じ態度であることにわたしは気付いた。もし、真剣な対話が誘発される自体では、相手よりもこちらが強いから、信頼となり、そして相手の力を暴発させずに壁となり、本能的な状態から人間へと成長させることが出来る。若年と対話する人、困難な問題を抱えた人と対話する心理療法家にとっても勉強になる態度である。相手を止める強さを持っていないと、その火は燃え盛り、とんでもないことが起こる。また、相手自身が自分を止める強さがないために困っているので、大体びしっと止めてみせると、相手は、むしろ喜んでいることが多いものである。本能とがっちり向き合って逃げない姿勢が、重要な態度である。わたしは、この態度を、仏像で言えば、四天王の多聞天の像に投影されていると考え、模範的な型だと考えてきたが、この熊に対峙するハンターの態度も同様のものだと思う。死ぬか生きるかの対面というのは、そういうものだと思う。日常では、そのような疲労する態度を披露する場面は少ないけれど。狩人は、熊が自分から襲ってこないことを何度も確認している。そして、子連れの場合は、近づいてくるなという熊のメッセージとして荒い息遣い、次には、地面をバーンと叩くのだそうである。もし、それでも熊が馬乗りになってくるような事態となったら、開けた口に腕を突っ込み、舌を引っ張ると良いのだそうだ。そうすると、熊は、意外と弱い人間に調子に乗っていたときに、反撃を食らうので、驚いて逃げて行く。また、熊は蛇を嫌がる。それなので、ベルトなどを蛇のように振り回すと嫌がる。また長いものを目の前に突きつけられると、それを越えてはこないそうだ。とにかく、目を反らさずに、立って対応し、大声を出す。とにかく抵抗することが重要な態度である。人間が逃げても逃げ切れないスピードを熊は持っている。精神的な対峙だけが、人間が熊に勝てるところなのだと思う。狩人が、熊と実際に戦ったときの話は、迫力があり面白い。写真で見ることのできる狩人の姿勢、佇まいがすごくいい。ただのじいさんのようで、ああ、これはスターウォーズのマスター、ヨーダだなっていう雰囲気がある。熟練した師匠の雰囲気を持っている。熊は、人間が近くにいるとちょっと嫌だな、と思っている。そして人間にとっても熊が近くにいると嫌だ。それだから、お互いに距離を保って共に生きて行く。共生とは、熊と仲良くなることでも、手なづけることでもなく、熊を尊重して、その生きる場所を尊重することである、という視点が語られて、唸らされる。それは、「もののけ姫」でアシタカと山にいるサンが、里で共には暮らせない。山で共には暮らせない。けれども、アシタカは、ヤックルに乗って会いに来ると言う。「サンは山で、わたしは里で、共に暮らそう。会いに行くよ、ヤックルに乗って」だったかな。ここにも、静かに共生の原理を歌う物語があった。人間中心ではなく、山や大地を中心に物事を考え、野生の熊たちが生きる場所を人間の欲望で奪うことのないような文化を創っていくこと。アイヌの高い精神文化を見習い、この列島に定着させていくことが、わたしたちの時代の仕事だと思う。日本列島から一匹も熊がいなくなるようなときがくれば、それは、この列島の民の終わりと重なると思う。列島の生命は山から流れてくる。山の王である心優しい熊たちが滅びたときが、この列島の滅びを現すシグナルになるだろう。

アイヌ、イオマンテ

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