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黒澤明

黒澤明「白痴」(1951)傑作。深い次元の意識、魂とでも呼ぶ他ない領域の解放

2024/08/13

黒澤明「白痴」は特別な魅力がある。「白痴」には四時間バージョンの完全版があると言う。会社の意向で、三時間バージョンをつくり、更に二時間バージョンに切ることを余儀なくされた黒澤明の怒りはもっともなことだと思う。四時間の映画を撮るというのは、黒澤明の並々ならぬ意欲を現していて、撮影中、重圧のあまり手首を切ろうとしたのを三船敏郎が止めた、という逸話があるそうな、それもそうかもしれない、というほどの緊迫感、作品の深さが、この二時間バージョンでも充分うかがえる。ふつう、四時間の映画というと長すぎて、退屈な場面が多いのではないかと思ってしまうのだが、「白痴」の完全版を観たくて仕方がない気持ちになっている。編集経緯など、そういうことはあまり知らず、黒澤明映画全30作品に取り組む過程で、この「白痴」は、最後の方までなぜか手をつけなかったのは、なんとなく他の黒澤作品に比べて期待値が低くなっていたのだと思うが、ところがどっこい、黒澤明映画の中でも、異質で、特別な力を持っていて、強く惹きつけられて、観終わった後に、傑作の香りが漂い、当初の四時間バージョン、完全版は、相当な映画になっているのではないか、と思わせるのである。この映画は二部構成になっており、一部、二部とも一時間程度ずつ削られているものと思われるが、とにかく二部を観てほしい、神がかっている映像、物語空間となっていて、寒気がするほどである。それも、人間というものの不思議、魅力、恐ろしさが、イメージ(魂)で描かれており、わたしたちの心を強く惹きつける、何か本物がある。ドストエフスキー文学の面白すぎる魅力が、黒澤映画の中で、演じられたとき、ここまで圧倒的な魅力を持つものなのか、と衝撃的であった。わたしは、現時点で、「デルスウザーラ」をのこすのみで、黒澤全作品をほぼ網羅した状態で、黒澤明映画に新味を感じるような状態ではないと自負していたのだが、脆くもそれは崩れ去り、こんな映画を撮っていたのかと驚き、ラストまで観てから、最初からすぐにもう一度観たほどである。人を惹きつける映画なのである。現代人が抑圧している聖なる力と暴力の二つがあぶり出されているのである。そして、ラストシーンが魅力的すぎて、忘れられない。

黒澤明「白痴」のあらすじ:深い次元の意識、魂とでも呼ぶ他ない領域の解放

「白痴」は舞台を北海道に、ドストエフスキーの原作を忠実に描いている。その心理劇、魂を描くドストエフスキーの世界を、素晴らしい映像美と音と空間で魅せている。あらすじは、「白痴」である主人公(森雅之)が、暴れ馬である三船敏郎と出会う。そこに影のある美女役の原節子が絡み、お嬢様である久我美子が出てきて、四人を中心に展開される。てんかんを持ち、戦犯として間違えられて死刑となるところを生き残った主人公は、純粋で魂を見抜き、人を惹きつけてしまうカリスマを持っている。原節子も久我美子も、二人の女が、この一見阿呆に見える主人公に惹きつけられてしまう。そうして、ドタバタ劇が始まり、友人となる三船敏郎と主人公は、恋敵でもありながら、ここにも不思議な関係が生じ、運命を共にする。女同士の心理的対決が演じられ、最後には、原節子は、三船敏郎演じる男によって殺害されてしまう。

白痴、原節子

見所は、変に力の抜けた阿呆にしか周囲には見えない主人公が、圧倒的に人の魂を観察することが出来て、力を持っていくところである。そして、暗い部屋に、原節子と三船敏郎がいる場面は、魔女と魔王のような雰囲気、イメージがはりつけられているのを見逃すこともできない。ドストエフスキーが光と闇の対照を現そうとしたものなのだろう、とわかる。それを忠実に受け取って黒澤明が、人物にイメージ(魂)をまとわせているのだ。この映像の圧倒的な神話的雰囲気が素晴らしい。美しい。数々のビジョナリティが見てきたであろう幻視を、ここに映像として捉えている迫力があるのだ。葉巻を取り出す三船敏郎、その箱はオルゴールで、その音色が、暗い闇の世界に響き渡り、魅力的な会話が為される。そうして、女同士の対決の後、同じ部屋で、死んだ女が寝ている部屋で、三船と主人公は、子供のように毛布を被り、色々な話をする。その無邪気さ、そして朝方になって、三船の母親が仏間で鳴らしている鐘の音が、ちーん、と繰り返し聞こえてくる雰囲気の中、三船は、雲に乗ってやってくる原節子の幻像を視る。同じような幻視を、聖徳太子の息子や明恵の伝承で描かれているものをわたしは知っている。死んだ者が天に昇っていく幻視である。それは、死に瀕したものが視たと報告する臨死体験にも似ている。人の意識は、肉体を失ってなお別次元へと旅立つという神話。そのイメージの実在のリアルが、こちらにも響いてくる。このような映画、このような演技をするということ、これらは、神聖な行為であり、「映画」を超えている。「文学」を超えている。魂の観察であり接触であり、生きることの根源とつながる営為なのだと思う。このような本物の表現こそが、ドストエフスキーの小説であり、黒澤明の映画であり、共通しているのは、人間の思考や心などというものよりも、より深い次元の意識、魂とでも呼ぶ他ない領域に、二人の芸術家が開かれていることだろう。

黒澤明、白痴

ドストエフスキーと黒澤明「白痴」で表出される聖なる力

黒澤明映画「白痴」は、ドストエフスキーが原作であり、黒澤明がドストエフスキーに傾倒していたことは有名であり、彼が最も心酔していた芸術家のひとりだと思う。ドストエフスキーというと、なんとなく寒いロシアで、冬に読まれる暗い文学のイメージを持つ、と言った者がいたが、読んでみると驚くべきは、ドストエフスキーの小説は、圧倒的に面白いのである。思想的な深さは、現代的な射程を持ち、全く古びていないばかりか、読んでいてとにかく面白い。日本の小説家で言えば、夏目漱石のような存在であるが、文体自体に爆発的な魅力を持ち、世界文学の代表的作家であり、ドストエフスキーは現在でも圧倒的な力を持っていることを、わたしは黒澤明「白痴」で再確認する想いである。その主題が、恐ろしく魅力的であり、文学とはこれであったか、という想いさえするのだ。黒澤明の映像表現とドストエフスキーの組み合わせは、危険なほどの魅力を湛えている。特に、純粋な男であり「白痴」として描かれる男は、ドストエフスキーの面影を宿していて、こういう人間は、現代では発達障害であるとか、てんかんであるとか、精神障害に分類されることも多くなる。そういう人間の不思議な魅力と、魂を見抜いてしまう個性は一体何なのか、そして、そういう人間がいると集団は乱れてしまう。なぜなら、一般の普通の社会的地平とは、聖なるものと暴力を排除して、安全な人工空間を創ったものであり、聖なる力と暴力は社会の中では危険なものなので、表舞台には出てこないように処理される。強力なシャーマンや戦士が、社会の表に出てくれば、その力は、社会を転覆させかねないからである。その為、聖なる力は、「宗教」あるいは「伝統」という枠の中に入れて、表舞台で強い力を持たないように隔離される。そういう裏舞台の力を、ドストエフスキーはありありと諧謔とユーモアの中で描いてしまう。簡単に言えば、ある組織には、社長や部長や課長という役職があり、そこに序列をつけることで、組織構造が安定するのだが、そこに平社員がやってきて、圧倒的なカリスマと聖なる力を持っていたらどうなるか想像してみると良い。ある意味では、社会とは、楽しい歌を歌うところであり、良い気分でいるためには楽しい歌を歌い続けなければならない。それは、当然、世界の半分でしかない。その社会で力を持つ者にとって、残りの半分を知り尽くしているシャーマンが危険な存在になるのは、当然である。そしてドストエフスキーのような作家が、黒澤明のような映画監督が、そのような半分を描くのも当然であろう。自然が人に与える力に直接アクセスできること、これが発達障害やてんかんなどの精神障害に分類される者たちに共通のものであることも注意がいる。彼らは、直接アクセスし、直接触れ合うために、現今の社会で少数派になるということなのだから。一般人には見えないように、巧妙に閉められた扉が、黒澤明とドストエフスキーによって開けられてしまうのだ。

白痴、黒澤明

黒澤明映画「白痴」完全版

「白痴」の完全版をどうにかして世に出さなければならないものと思う。黒澤明ほどの芸術家の作品は、もはや人類の遺産であり、その完全版は、黒澤明個人や会社の権利問題などを超えて、開放されなければならないものと信じる。人の魂を描いた芸術作品は、現代でこそより深く理解されるだろう。商業ベースから外れていることは、問題にはならない。本物の芸術は、人間の魂を育むものであり、そのような表現こそが、人々を啓発し、時代を教育し、人類を進化させる。世界に芸術家として認められている黒澤明は、日本を代表する一人であり、世界との関わりの中で、彼は友好の橋であり、日本列島の大地に産まれた人類の良心であり、そのことは、映画という共通言語で世界中に伝わっている。海外に渡航する日本人が、日本文化の説明を求められたとき、黒澤明映画全30作品を説明することで、ほぼ大事なことを伝えることが出来る。そのような芸術家の未発表となっている完全版は、国家レベルで介入してさえも公開に尽力するべきである。ロシアでは、黒澤明「白痴」は著名な映画監督たちによって、ドストエフスキー映画の傑作として認知されている。芸術の力を使うべきである。政治よりも芸術の力こそが、詩の力こそが、世界をより良き場所としていくと信じる。

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