キクチ・ヒサシ

文化と芸術を言祝ぐ『コトバの塔』

黒澤明

黒澤明「デルス・ウザーラ」(1975)自然と文明の相克。大地の精霊として生きる美しい人。

2016/10/14

黒澤明「デルス・ウザーラ」が、黒澤映画全30作品を観る中で、一番最後にやってきた。選んでそうしたわけではなかったが、なんとなく最後に、この映画が来た。後期の黒澤明映画の中でも、自然の描写が、もっとも美しい映画である。文句なしの、映画として退屈なところのひとつもない傑作であり、芸術として高く聳え立つ、テレビドラマに辟易しお涙ちょうだいものに毒舌が止まらないわたしが、子供のように涙を流して、感動して鳥肌が止まらない、そういう映画である。

黒澤明、デルスウザーラ

「七人の侍」で農民役をして、火に包まれた小屋に突っ込んでいく俳優がいたが、彼は「七人の侍」の時期に、黒澤明の家に泊まりこんでいたそうで、その時のことを記した書籍を読んだが、黒澤明は、その当時から「デルス・ウザーラ」を映画化する夢想をしていたそうである。20年後に、ロシアの地で、それを実現した黒澤明は感無量だったに違いない。ロシアの雪山で、俳優も見慣れない外国人たち、それでも、いやそのためなのか、信じがたいほどの素晴らしい作品となっている。シンプルなストーリー、自然の捉え方、こころに長く遺るラスト場面、無造作に盛られた土の墓の上に、木を一本差して、墓標とする主人公、生死の荘厳さが静かな美を湛えて、そこに音楽が響き始める瞬間。お話は、先住民の猟師と軍の地図を創るために山に入っている隊長が出会い、自然と共に生きる先住民と文明人の生活が対照されて、人類の現在地が見えてくるようになっている。日本列島で言えば、アイヌの猟師と山で出会い、共に過ごした時間を記録した、というような感じである。先住民のデルスは、自然の少しの変化から、獣の足跡、天候、様々なことを見抜く。軍隊員たちは、はじめ、先住民が愚かなことを言っている、そんなことはわかるはずはないと笑っている。ところが、デルスの言うとおりになっていく。自然の中で生き抜いている人間というのは、見事な智慧と洞察力を持っているのである。よくよく考えれば、日本列島のアイヌもまた、熊送りの儀式などをして、全て生命は、天に還ってまた戻ってくると考えていたが、現代思考に侵された人は、それが馬鹿げたものと考えてしまう。しかしながら、物質は燃やそうと捨てようと変質しようと、その質量は変わらない。質量保存の法則が、わたしたち人間の表層では、まだまだ十分な説得力を持った科学知識であるが、まさにこれこそが、アイヌの言っていることではないか。輪廻転生と聞くと、つい夢のお話と思ってしまうが、全て物質は、動物であれ、人間であれ、植物であれ、すべての肉体は、灰と気体になろうとも、その質量は全体として変わらない。その灰からまた生命が生まれてくるだろう。輪廻転生やすべての生命が天に還ってまた戻ってくるという哲学は、迷信どころか、科学文明よりも先に、その真理に到達していたのである。なぜ、そんなことが可能であったか。無防備な人間が、山の中で生きるということは、身の回りの植物、大地、水、火、陽、風、獣、それらの複合としての自然と共に生きるということであり、極めて高い智慧がなければ実現できない。現代人など、自然の中で生き抜く力を持った先住民の智慧と比べて、はるかに劣っている。この自然世界の本質を知らず、生きる哲学、心身共に弱体化してしまっている。ある側面では、明らかに人類は退化してしまっている。デルスを見ていると、森の精霊のように、大地の精霊のように生きていた人類の姿が見えてくる。大いなる生命の一部が、虎のかたちを取ったり、植物や水のかたちをとっているという風に彼は見ている。それが恩恵への感謝の念となっており、それはアイヌやネイティブアメリカンの哲学とあまりにも似ていた。

デルス・ウザーラ

デルスが、隊長と心を通わせ、太陽を指差して、あれが一番偉い人だと言い、月を指して、あれが二番目に偉い人だというシーンが好きだ。隊長とデルスが、猛吹雪の中で道に迷ってしまったときに、一面の草を必死で夜になる前に刈り取って、草のかまくらのようなものを創って、一夜をしのぐシーンが凄かった。川に流されたデルスが、隊員たちに見事な指示をして、間一髪助かるシーンも凄かった。虎を、山の精霊と見て、尊重している態度が、逆に迷信ではなく、真実を映しているようにしか見えなかった。隊長とデルスが、一部の最後で別れるシーン。デルスは、山に登って振り返って、「かぴたーん(隊長)」と叫ぶ。そして隊長が、「デルスー!」と大声で応えるシーンが美しかった。二人が再会するシーンもしびれた。デルスは、目が悪くなって、山に恐れを感じるようになって、隊長の家に住むことになる。しかし、山で自然と共に生きてきたデルスは、その狭さに息苦しくなっていく。ここからの展開に涙が止まらないのだ。「どうしてこんな狭い箱の中で生きれるんだ」とデルスは言う。公園の木を切ろうとして捕まってしまう。道路で火を焚いて寝たいと言い出して止められる。文明世界の狭さの中で、デルスは、生きることが出来ない。狭い箱の中で、窒息しそうになっていく。デルスは、することがなくて、暖炉の火を見つめて過ごす。まるで、現代人がすることがなくて、テレビを見つめて時間を過ごすように。獣も植物も山も火もない。デルスは、目が悪くて、危険なのに、山に戻ると言い出す。そして、隊長は最新の銃をプレゼントして送り出す。そしてデルスは間もなく、最新の銃を狙われて山で殺される。そして、土にそっけなく埋められる。隊長は、デルスが長年、共に生きてきた木の杖を、その盛り土に差す。そこには大地と共に生きた偉大な人間が埋まっているのだ。やがて、開発のために、デルスが埋められたあたり一帯の木は伐採されてしまい、デルスが埋まっている場所の目印はなくなってしまう。一体、人間は何をやっているのか。森の中で生きる智慧を保存したまま、人類は発展することが可能なはずなのに。わかるよデルス、わたしも一緒だよ、狭い箱の中で息苦しくて、川や山に行って、自然に触れようと奮闘しているんだよ、火を焚きたくて、新鮮な水を飲みたくて、木々の中で素敵な空気を吸いたくて、こんな狭苦しい生活に、時に嫌になってしまって、己の中の原始人と文明人の相克の中で葛藤してきたんだよ。それらに橋を渡して、デルスを蘇らせて生きることをわたしたちは今おもっているんだよ。大地の精霊として生きる哲学を、再び、身にまといたいと願っているんだよ。自然か文明かではなく、その両方を円環する哲学の創造によって、たましいの衣をまとって生きたいのだよ。

-黒澤明