キクチ・ヒサシ

文化と芸術を言祝ぐ『コトバの塔』

コトバの塔

行為の超越について考えたこと。行為の結果に縛られないからこそ行為が鳴る。

2016/10/31

1 人間は行為するように出来ている。生命エネルギーは、使われることを待っている。

2 無為であるという事は、結果を考えて行動する、結果の為に行動するという事ではなく、無為になることで、結果を考えないことで、生命の本体WANTの光明によって行為が発生する方向に導くことに意味がある。

3 結果を考えて行為することは世俗的であり、一般的であり、そこに患いが生じる。結果は、必ず、良いと悪い、成功と失敗という二つに分かれてしまう。二つに分かれてしまう以上、その結果に捉われる。葛藤になり矛盾になり、患いとなる。

4 結果を考えて行為することは、対立を生む。yesとnoに分かれてしまう。それに捉われてしまう。それを嫌うあまり、自然本能に反する直観から、多くの人が山にこもり、世俗を捨てようとした。

5 対立の世界、結果が二つに分かれてしまう世界を超えて生きようとしたとき、山にこもるわけにいかない者はどのように生きることが出来るのか、ということが、わたしのひとつの問いであった。

6 負けではなく勝つこと、貧しいではなく富めること、批判ではなく賞賛されること、その結果を求めたところで何になるのか、そのような一般に常識とされている結果の良い方とされているものに心が動かない場合、どのように生きる方向があるのか、行為の結果がどちらに転んでもつまらないものに感じられ、結果を餌にはもはや動かない心を見出した人間がどう歩めばいいのかという疑問だった。

7 行為の結果は、二つに分かれる。それを超えるために、無為を選択する。しかし、無為のはずが、無為を為すことになり、そこでも窮屈な二元に挟まれてしまう。→無為を為すのではなく、→無為によって目覚めた生命WANTのハタラキによって自然に行為が生じる。この大文字のYES、WANTの生命エネルギーと共に在ることで、結果から自由になる。無為のつもりが行為の抑圧となる危険に陥った時期があった。無為の真の意味は、生命本源由来の行為を引き出すために、人工的、自我的な行為を捨て去ることにある。

8 行為が二つの結果に分かれてしまう。結果の二つに挟まれて不自由を感じる。→結果のために行為するという構造がばかばかしくて心がついてこれなくなる。→無為となる。→無為のつもりが行為の抑圧となる。→生命は行為するように出来ているので、自然の法則に反してしまう。→無為によって内なる龍動する生命エネルギーが顕れ、それがWANTでありYESであり、その光の示すままに、行為する。

9 世俗とは、集団的な意識レベルに留まる。その意識レベルに合わせることが、己の生命に反する場合、どのようにその中で生き抜くのか、一般に流行するような結果に捉われる生き方を、わたしのこころがはねつける以上、それはわたしによって大切にされなければならない。生命のハタラキは、個人を超えている。

10 行為の結果を顧みず、生命のハタラキからくるWANTで行為する。行為に専心することは、傍目には、結果を求めて行為していることと同じに見える。→勝ち負けや、yesとnoの結果の二元がどうでもいいからこそ、真に生命WANTの力を発揮することが出来る。買わせようとする営業マンが売れず、勝とうと力む者が負け、口説こうとする者が口説けない。行為の結果を超える視座を得るからこそ、世俗で生き抜いていく糧を得ることが簡単である。結果の二元に縛られないからこそ、行為が鳴る。

11 全て文化は、結果を超えている。生命の創造エネルギーが、かたちとなって現れる。そこに、売れる売れない、人気があるない、などという結果の二元が入り込む余地はない。結果を超えた行為の現れである。歌、踊り、物語、祭祀、行為することが可能な人間が、行為そのもの、結果ではなく行為そのものに専心することは神聖である。行為自体が、可能であることが、生命の本源YESの大いなる恩恵である。結果ではなく、行為自体が既にして奇跡である。

12 ×無為、無心によって、行為を捨ててしまう。→○無心無為によって、WANTの光明が現れ、それによって行為する。→行為によって疲れる。→自然休む。→再び行為する。昼と夜のように、それは回っていく。

13 まとめる。地位を得ようが、お金持ちになろうが、専門家になろうが、その結果に興味が持てない。結果を求めて行為するという事がばかばかしい。窮屈だ。それじゃあどうしようか?というところにかつて居た。そういう退屈を感じる人間こそが、神聖に至る。結果を超えて、行為に専心する。その行為は、祈りになったり、美になったり、遊びになったり、踊りになったりする。腹を満たす糧を得ることにも自然となる。現在を生きること、行為に専心することが即、二つに分かれる結果という牢獄を超えていく。結果を超えることが即、行為に専心することとなる。

-コトバの塔