キクチ・ヒサシ

文化と芸術を言祝ぐ『コトバの塔』

コトバの塔

文明と自然「常識を掘り起こす」

2016/07/09

公園のベンチに腰掛けていた。陽射しが強い、午後の二時過ぎ。風が吹き、木々の葉を揺らす。光が強く当たったところは、黄緑色をしている。弱いところは深緑色をしている。

文明と自然

震災について、多くの言葉が費やされてきた。それらは、感情に訴える、テレビ的な、感動を生むための公式を採用した、綺麗な話である。それらは、一定の需要があり、意味もあり、入り口として必要かもしれないが、同時に綺麗にお涙をして、真実から目をそらすことができるところが、現代社会のある傾向に対して適応的に働く、とも言える。あるいは、政府を非難し、放射能や原発の是非、環境問題、それに対する怠慢についての断罪を語るものも多い。それらは、光に対して影が存在することを声高に語る点において一定の意味があり、テレビで語られない、真実を語ろう、断罪しようという傾向で、我こそは正しいのだ、と敵将の頭を取ったと言わんばかりだが、それらは大学生の理想主義にも似た、ロマンティックさを内包し、到底、大人に受け入れられる域に達していないとも言える。我々は、我々の一人一人は、弱く、小さいものである。ニーチェが言うように、高く天上に投げた石は、やがて落下してくるのである。高く掲げた正義の文句はやがて彼の頭上に落下するだろう。光あるところに影あり。このような「常識」を忘れた時代、これが我々の時代である。わたしは岩手県出身である。日本を一つの生命と見るならば、地震によって、肺がやられた状態である。肺がやられて、全身に影響がないということは考えられない。縁起という言葉を我々は持っている。縁りて起こるということである。全ては縁りて起こっていると見るのは面白い。全体の布置を見るということだ。放射能が福島県で漏れたのであれば、日本全土がその影響を受ける。なぜなら水は、万物は、流転しているのであり、水に名前はないのである。別の言い方をすれば、水という名前があり、それらは偏在していて、どの水もつながっているのである。キーボード、モニター、デスク、本棚、本、編集者、著者、プロバイダ、電気、先祖、こうして書いている間にも、他者の愛に囲まれ、繋がっていることを感じないことはむずかしい。皆さん、いつもありがとう。こういう想いが、静かに胸に湧き上がってくる。おそらく人は、全員でひとつであり、手の平に青い球を思い浮かべて眺めるにつけ、この世のものは全て集まって、一つの青い星なのである。こういう当たり前のことを、言うと、わかったような顔をする人もいるのだが、それらも含めて、一つの青い星でしかない、一つの青い星の一部である、という奇跡を思い浮かべている。そのように思い浮かべるのに、一体何の意味があるのか?と問う者には、その問い自体が間違っているとお伝えしたいが、それも同時に正しいと言わざるを得ない。つまり全ては正しく間違っているし、間違っていて正しい。言葉遊びではなく、このような境地にある。自分がAと言うことができるとおもうのなら、他者がBと言えることに同意していることになる。Aと言うことで、Aと言える自分を承認し、同じように他者がBと言えることに承認することになる。(これはアリストテレスだったか、うろおぼえなり)こうして、議論というものは、表面の形を変えて、あなたがAと言うことが可能なように、わたしもBと言わせていただきます、といった次元のものになり、結局のところ、表面上、何をもっともらしく理屈をこねたところで、同じことをしているのだ。そして、そのAとBの対立は、個人の内面に存在する対立が外在化したものとも言えるから、それはそれで意味深い。このような矛盾と葛藤の境界線上を歩む、その葛藤に耐える力が、我々に要求されており、それに耐える者を大なる人、大人と言うのである。と言いたい気持ちがする。全ての文明人は神経症である。神経症とは何か。野蛮人と文明人の葛藤、相克を我々は避けられない、ということである。そして、その葛藤解消への試みの失敗が、神経症なのである。仕事に行かなければならない、と文明人は言う、内なる野蛮人は、眠たい、怠けたいと反逆してくる。どうするか?野蛮人をかみ殺し、抑えつけて、我々は仕事に行く。これが神経症の傾向である。この葛藤を意識化できないとき、我々は身体のどこかが変に痛むな、などと感じる。我々はこれを避けられない。野蛮人のおもうままにすれば、その素朴さと共に、強烈な悪もまたはびこってしまう。これは精神病の傾向である。別の言い方をすれば、現実原則に従いすぎれば神経症となり、快楽原則に従いすぎれば精神病となる。東洋には古から伝わる知がある。我々はそれを実践することができる。中庸である。内なる野蛮人に任せず、文明人にまい進せず、中庸を為すことである。これが我々が持っていた「常識」である。これらの東洋人にとっては自然なものが、我々の無意識に沈んでしまった。これらは黄金である。今後は、この黄金を再び、探り当て、引き上げることが重要なこととなってくる。「文明と自然は、どちらか一方ではなく、多すぎるか、少なすぎるかの問題である」カール・グスタフ・ユングがこのように言うとき、わたしは文明生活における公園のことをおもう。木々が、空白が、欲しくなり、わたしは公園に向かう。自然を求めて。一方、わたしの父親の実家は岩手の深い田舎にあり、夜には本物の闇が訪れる、神聖な地であるが、そうした自然に囲まれていると文明が恋しくおもわれ、少し離れた道路にたった一つある自動販売機が本当に愛しく、欠かせないものにおもわれる。文明と自然の相克は、そのまま、我々の意識と無意識の相克である。文明人と野蛮人の相克である。精神病というのは、大きな津波がやってきて、意識という灯台を粉々にするのに似ている。福島原子力発電所という文明は、自然の強大な力に襲われたのである。文明という石を高く天上に投げれば、いずれは我々の頭上に落下してくる。自然災害からの復興は大変重要なことである、そして、自然が多すぎれば災難となるように、文明もまた多すぎれば、心の病や困難を生じさせる。1998年から毎年3万人以上の自殺者が出ている、10年で見ても、30万人が自殺していることになる。うつ病は20年で4倍と言われる。自然災害からの復興同様、文明被害からの復興という意識が必要である。今はおそらく過渡期であり、未来から見れば、当たり前に思えることも、我々の時代ではこのように右往左往するのである、そしてこの右往左往が歴史を動かしていく。こうしたことを、わたしはわたしのために書いていることを知っている。真に個人的なことが普遍に繋がるという逆説を語るのも面白い。わたしは、わたしの胸に、上でもなく下でもない輪があるのを感じる。

「人間はその人生に意味を与え、世界の中に自分自身の位置づけを見出せるような、普遍的な観念や確信を明らかに必要としている。それらに意味があると確信すると、人間は信じられないような堅固さを確立することができる。あらゆる不幸に加えて、自分は『愚者によって語られた話』に参加していると認めざるを得なくなったとき、人間は、まったくくじけてしまうのである」ユング「人間と象徴」

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