キクチ・ヒサシ

文化と芸術を言祝ぐ『コトバの塔』

コトバの塔

机の中の記憶

2016/07/09

机を整理している。右側に四つの引出しが付いた、黒色の机。これらは、わたしの地層である。およそ10年の間に、わたしというパーソナリティの古い層から積み重なった歴史である。小さな整理は何度かあった。ある地層が別の地層とそっくり入れかわることはあった。しかし地殻変動や地層の断裂が起こることはなかった。この地層は、内的な生活、精神生活の層を外在化している。このことをわたしは考えている、書いている。精神がもし存在するならば、それは外的な形に現れる。と言ったのは、青山二郎らしい。内的な態度を変化させることは、外的な態度、人々との交感における態度が変化することを意味する。ということを考えている。机を整理している為だ。引出しに積もった書類、メモ、原稿を全て取り出し、眺める内に、これらが、わたしのこころの層を示していることに、打たれた。この単純な事実に打たれるのはなぜなのか。

 

机記憶

一つには、後生大事にしまっているメモや原稿や写真を眺める時間などない。次のこころの動きがあり、次のメモや原稿を引き出す、次の現実がある。わたしはこころの層が、物的に積み重なっているのを目にする。重層的な時間がそこにはある。わたしはそれを手に取る。そこには重みがある。それらを眺めて、ゆっくり味わうことはできない。こころの層がそこにある。それらの外側を、層と層のつなぎ目を、色の微妙な違い、変化、変遷の流れを見ることはできる。素晴らしいと思う、同時にこんなものを眺めている時間はほとんどない。ずっと眺めていたいと思う。しかし眺めている時間などない。仮の生活、仮の机、仮の生でしかないというのに、まるで永劫生きる気でいるかのように、蓄えている気さえしてくる。お前は、次の世に、死後の世界にまでこれらのものを持っていけるとでも思っているのか?文章を書くことに酔って、実際には何も書いていないに等しい10年前のノート。観察がメモとなり、インスピレーションがメモとなって、積み重なり、それらがノートを埋め、原稿を埋めている。はっとすることがある。忘れていたアイデア、インスピレーション、他人が書いたとしか思えない文章の束、大事なことであると認識していたはずなのに、無意識となっていた事柄や視点。それを読んだところで、もはや意識という限定的な仕様に常時置いておくことはできず、それは無意識に格納される。何かがひっかかる!うまく書けない。捨てることが必要なのは間違いない。32年生きたことになっている。傲慢に、残り32年は生きると計算しても、今のやり方では何かが間違っている、と直観する。主に心理の学びと経験を積んだ。それらの残骸がある。そして、仕事に使用した資料がある。そして外的な観察を記録したものと内的な生活を記録したものがある。本棚にも同じことが言える。それらはわたしの歴史を物語ってくる。しかし、そんなものを眺めて悦に入る時間は与えられていない。無意識となっている記憶を意識に浮かび上がらせるのを援助するメモやノート。単純に人の世で生きるのであるから、いくつかのものは手元に置く必要はある。同時に、必要を超えたものが美しく、手元に置きたいというのもある。常に相反する概念が、葛藤が存在する。そんなことはどうでもいい。子供のように、まるで子供のように、たかだがわたしの観察やら人生を現すものを集めて悦に入る時期は過ぎた。捨てる、というのとは違うかもしれない。わたしは、わたしの経験や変遷を、伸ばした可能性や、捨てた可能性を、つまりはここに存在する全的なわたしを統合する何かを必要としている。過去を回想する老人のような時間はない。今はこころの層が、がらくたのように積み重なっている。これらを統合し、新たな形とし、宝石だと思えるような作業が要る。もしわたしが彫刻家ならば、一つの像を作る必要がある。それらは、一つでありながら、多様で重層的な時間を表現したものであり、変化の苦しみと自信、今後の変遷を予期するものであるはずだ。わたしでありながら、宇宙につながるようなものでなければならない。職場の机の中も、あっという間にがらくたでいっぱいになる。それらを整理することで実際的に身軽になり、次の現実へ、後ろ髪引かれることなく望んでいける。今、わたしは身軽ではない。最も重要な机の中に、未整理なものが詰まっており、これらを整理し、統合しなければ、次の変化へ、次の現実へ望んでいくことができないのであろう。最終的には、常にそうであるにしても、目の前にいるわたし自身が、自らの経験と知恵と敗北と自信を体現する、重層的な時間と空間を所持する、一つの彫刻であるように、人々の前に現れ、交感し、何の説明もいらない、そういう風に、生の現実の中を潜り抜けていきたい、と思っている気がする。新しいヴィジョンがある。これまでの内的な観察を(結局は外的な現実によってもたらされた)整理し、統合して、新たな経験の中へ風のように突っ込んでいく。

-コトバの塔