キクチ・ヒサシ

文化と芸術を言祝ぐ『コトバの塔』

コトバの塔

無限の水

2016/07/12

科学的真理は、後代に伝達することができる、再現性がある。人格の発展、個性化、体験知、身体知は、伝達不可能である。伝えるのが可能なのは、人格発展の痕跡、指標に留まり、それは、一から体験し、個人において獲得しなければならない。

無限の水

心的発展は、教えることができない。その個人が、自ら獲得し、発展していくのを、横に在り、待つことが、援助者に可能なことである。不可解な自然の力でありながら、実際に起こるので、現実的に認めながら疑問にも我々が思わないような不思議な一致が生じるのを、畏れ、共にある態度が、最大である。

人間を教科書で知っても、実際に知ったことにはならない。教科書で、人間を知ることはできない。人間を知るには、人間に触れる体験を重ねる他ない。人間のこころをレッテルやカテゴリー分けで理解することはできない。それは名づけたのであり、理解の全てではない。こころは、無限の水であり、手ですくったと思ったときには、既に指から零れ落ちていくようなものである。図式をあてはめることはできず、それは一度限りの個別的なものであるため、定式化することができない。図式は、個人を理解するための地図であり、実地に赴くこととは異なる。地図がなければ、実地に赴くのが困難であり、赴かなければ実地の様子はわからない。

深層心理学は、客観科学とは異なる、まだ新しい知の体系である。自然科学のように、理論をあてはめて、常に同じ結果を期待できるものではなく、理論からはみ出る、個別性、主観性を基礎とした学問である。こころを見るものが、こころを持った人間であるという矛盾、主観性を出発点としている為、自然科学の理論をあてはめるように、人間に深層心理学の「あるやり方」を個人にあてはめれば、失敗する。常に流動し、変転する生命を、マニュアルにあてはめ、コントロールすることはできない。あてはめた途端に零れ落ちるのがこころであり、生命である。

あるやり方が、ある人に対して有効であっても、別の人間に有効であるとは限らない。客観科学から零れ落ちている偶然がそこに働くことが多い。偶然性が存在することを、そのまま認める他なく、客観的な説明を与えようとすれば、偶然とは零れ落ちるものである。偶然は、「起こる」のであって、「起こる」他ないものである。「起こす」ことはできない。「起こる」のを待つことはできる。故に、「あるやり方」が常に有効とは限らない。

われわれの存在とは、まさに起こっているのであり、不可解な偶然の産物である。このような主観的な体験が、存在を基礎付ける。人間の知は、客観の知と主観の知とに分かれた。前者は科学の知であり、後者は神話の知である。客観は言い難いものを、零れ落ちるものを切り捨てることで成り立っている。主観の知は、言い難いものを、明確にしようとすれば零れ落ちるものを、物語ることによって包含する。客観は明確であるが故に生命力を失い、主観は曖昧であるが、イメージ豊かで、多価的であり、生命力に満ちている。

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