キクチ・ヒサシ

文化と芸術を言祝ぐ『コトバの塔』

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短編小説「前田龍のはなし」note公開

2018/03/27

「喜びにも悲しみにも、花はわれらの不断の友である。花と共に飲み、共に食らい、共に歌い、共に踊り、共に戯れる。花を飾って結婚式をあげ、花をもって命名の式を行う。花がなくては死んでも行けぬ。百合の花をもって礼拝し、蓮の花をもって冥想に入り、ばらや菊花をつけ、戦列を作って突撃した。さらに花言葉で話そうとまで企てた。花なくてどうして生きて行かれよう」(岡倉天心「茶の本」)

前田龍と出会った日のことを今でも覚えている、二〇〇九年の六月で、ちょうど七年前になる。彼は当時、五十八歳で、わたしは三十一歳だった。

わたしは、長編「話の途中」(二〇〇八)を完成し、中編「かぜのかたち」(二〇〇九)を書き終えた三ヶ月後に、彼と出会った。社会から離れて、孤独な時間を芸術に捧げてきた男と、社会の第一線、人の間で生き抜いてきた男が出会い、同じ仕事のパートナーとなったのだ。対照的な二人の接近は、内面世界と外面世界の、女性原理と男性原理の出会いでもあった。共に過ごした日々は、双方に融合と新生という心理的錬金術を経験させ、それは忘れ得ぬ時間となった、とわたしは信じている。

西成区の天下茶屋で、二人は、週六日コンビを組み、約二年、延べ三千人ほどの人々と対話した。人生の途上で迷っている人々。酔っ払い、生活保護、罵詈雑言、ホームレス、脅しの文句、心の病。職場内の空気の動き。わたしたちは、ユング分析心理学にのめり込み、共通の言語を手にし、夢を分析し合い、ビールを飲み、語り合った。

「キクっちゃん、ここはな、寺のようなものだな」と龍ちゃんは言った。

「じゃあ、僕達は寺の僧というところですね」

「キクっちゃんは、破戒僧」

「龍ちゃんは、落ち武者」

「こら、誰が落ち武者じゃ!」

ある時、龍ちゃんは言った。「キクっちゃん、生きてる意味をわかりたいんだ。六十歳になるまでに。そのために、俺は本気で勉強してるんだよ。そして、あのとき、弟がなぜ自殺したのか、それをわかりたいんだ。どうしてそうなったのか、助けることができなかったのか、今でも、俺は考えているんだよ」

人は、自分の道を歩む。龍ちゃんとわたしも、それぞれの道を歩み、時々、坂の途中で待ち合わせては居酒屋でビールを飲み、夢を語り、お互いの顔を確認し合ってきた。

この物語は、そういう風に待ち合わせて、六月にしては暑い真昼に、冷えた瓶ビールを酌み交わしながら、龍ちゃんが語った内容を基にしている。わたしは三十八歳になっている。龍ちゃんは、六十四歳で、この二年の間は、忙しかったと言う。この間に、龍ちゃんは父親を看取り、学生時代からの親友を亡くしていた。

龍ちゃんの略歴を書いておく。前田龍は、大阪生まれ、食品製造会社に就職し、工場長を務めた。数社転職後、現在は、キャリアカウンセラーとして、相談業務を行い、若者を啓発するセミナーを年間三十から四十ほど実施している。

場所は、通天閣の近く、ジャンジャン横丁。ビールを飲みながら、彼と対話した内容は、当然だが録音はしていない、メモもない。わたしの内面に沁み込んだものを、今取り出して、再構成したいと思っている。それこそが、事実以上の真実を浮かび上がらせる方法だと、わたしは多くの芸術家から学んで知っている。

前田龍のはなし

書き下ろし短編小説(11000字)
「花咲かじいさんの話が前よりわかってきたよ」
陽射しの強い六月の午後。動物園前駅で待ち合わせた二人の男は、七年前コンビを組んでいた。
社会から離れてきた男と社会で生き抜いてきた男の対照と融合と、新生。
通天閣の下、串カツ屋で、龍が語った本当のはなしとわたしが視た鳥。
灰が花になるとは、どういうことなのか。
大阪の新世界を舞台に、再生を探求するリアルストーリー。

「しあわせだなあ、こうして味わうのは」

目次
1龍と花と天子の職業
2通天閣と鳥
3大阪の心臓部と黒い鎖
4黄金の火と花咲かじいさん

 

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