キクチ・ヒサシ

文化と芸術を言祝ぐ『コトバの塔』

夏目漱石

夏目漱石「坊っちゃん」(1906)

2016/07/09

夏目漱石の「坊っちゃん」を読んだのは、中学の頃だった、と思う。よくは覚えていないが、夏目漱石の小説を片っ端から読んだ。とにかく面白かった。そして、どうしてこんなことを知っているのだろう、と胸をときめかせた。日々は過ぎる。漫画や別の小説や、ドラゴンクエストがやってきて、夏目漱石は、千円札の上に目を落としたときに、心を射抜いてくる顔、というだけになる。読み返しもしない。身体が大きくなり、子供の純真が離れていく、受験があり、就職があり、生活がある。夏目漱石から、ずいぶん離れた。でもなぜか、ずっとこころに残っていた。何かわからない。しかし、同時に、夏目漱石という名前が喚起するものが古臭くも感じられる。気難しい、面倒なものにさえ感じられる。日々は素早く過ぎていく、古い物に目をやるのが億劫に思える。一度読んだものをわざわざ読み返すのには及ばない、と考えるのは、たやすいし、論理的にも思える。でも、少しは大人になった自分が、果たして夏目漱石の創作をどう読むだろうか、と考える。十二、三の小僧に、夏目漱石を読み込むことはできない。表面の話に引きつけられて、先を急いでいたに違いないし、所詮、勝負にならなかったことは明白だ。そうなると、再読の必要は、決定的に思えてくる。それで、「坊っちゃん」を再読して、これを書いている。1906年発表だから、百年以上経っているのだが、たぶん今月に出版されたどの小説よりも面白いかもしれない。衝撃的だった。今の目で、新人作家を見るように、夏目漱石を見ると、これはちょっと、参った。段違いだ。小説の進歩だとか、そういうのは嘘かもしれない。人間がいて、座るなりして机に向かって、書く、それだけだ。ボール球がほとんどない、ストレートばかり投げてくる。面白おかしい活劇で、ほとんど淀みなく書いている。淀みは少しある。それについては後に話そう。夏目漱石の「坊っちゃん」に受けた感銘を書いてみよう。

この小説の読み所は、主人公の語りだ。文体の密度が高く、自由自在に省略して、ストーリーを進める。この文体がすごくいい。生命の線が走っている。たとえば、ドストエフスキーの激烈な主題も面白いと思う。でもドストエフスキーの小説の一番面白いところは文体だと思う。エネルギーに満ち、隙間なく語り続ける、あのパワー。それと同じものが、「坊っちゃん」にもある。

「おれなんぞは、いくら、いたずらをしたって潔白なものだ。嘘をついて罰を逃げるくらいなら、はじめからいたずらなんかやるものか。いたずらと罰はつきもんだ。罰があるからいたずらも心持ちよくできる。いたずらだけで罰はごめんこうむるなんて下劣な根性がどこに国にはやると思ってるんだ。金は借りるが、返すことはごめんだという連中はみんな、こんなやつらが卒業してやる仕事に相違ない。ぜんたい中学校へ何しにはいってるんだ。学校へはいって、嘘をついて、ごまかして、陰でこそこそ生意気なわるいたずらをして、そうして大きな面で卒業すれば教育を受けたもんだと勘違いしていやがる。話せない雑兵だ」
「赤シャツはホホホホと笑った。べつだんおれは笑われるようなことを言ったおぼえはない。今日ただいまに到るまでこれでいいと堅く信じている。考えてみると世間の大部分の人はわるくなることを奨励しているように思う。わるくならなければ社会に成功しないものと信じているらしい。たまに正直な純粋な人を見ると、坊っちゃんだの小僧だのとなんくせをつけて軽蔑する。それじゃ小学校や中学校で嘘をつくな、正直にしろと倫理の先生が教えないほうがいい。いっそ思い切って学校で嘘をつく法とか、人を信じない術とか、人を乗せる策を教授するほうが、世のためにも当人のためにもなるだろう。赤シャツがホホホホと笑ったのは、おれの単純なのを笑ったのだ。単純や真率が笑われる世の中じゃしようがない」

時々、坊っちゃんがこういう風に熱くなるところの、この文体の流れが美しくて好きだ。人間の社会、世間のおかしさ、不条理に視点がある。北野武の毒舌のリズムにも、よく似ている。

「議論のいい人が善人とはきまらない。やりこめられるほうが悪人とはかぎらない。表向きは赤シャツのほうが重々もっともだが、表向きがいくらりっぱだって、腹の中までほれさせるわけにはゆかない。金や威力や理屈で人間の心が買えるものなら、高利貸でも巡査でも大学教授でもいちばん人に好かれなくてはならない。中学の教頭ぐらいな論法でおれの心がどう動くものか。人間は好ききらいで働くものだ。論法で働くものじゃない」

どこの部分をとっても、ストーリーなしでも読めるだけの文章の密度がある。個人的に好きな部分は、主人公が下女の清のことを考えている件だ。

「おれは筆と巻紙をほうり出して、ごろりところがって肘枕をして庭の方をながめて見たが、やっぱり清のことが気にかかる。その時おれはこう思った。こうして遠くへ来てまで、清の身の上を案じていてやりさえすれば、おれの真心は通じるに違いない。通じさえすれば手紙なんぞやる必要はない。やらなければ無事に暮らしてると思ってるだろう。たよりは死んだ時か病気の時か、何か事の起こった時にやりさえすればいいわけだ」

「坊っちゃん」という小説は、「ほんとうに人間ほどあてにならないものはない。あの顔を見ると、どうしたって、そんな不人情なことをしそうには思えないんだが、うつくしい人が不人情で、冬瓜の水膨れのような古賀さんが善良な君子なのだから、油断ができない。淡白だと思った山嵐は生徒を扇動したと言うし。生徒を扇動したのかと思うと、生徒の処分を校長にせまるし。厭味で練りかためたような赤シャツが存外親切で、おれによそながら注意をしてくれるかと思うと、マドンナをごまかしたり。ごまかしたのかと思うと、古賀のほうが破談にならなければ結婚は望まないんだと言うし。いか銀が難癖をつけて、おれを追い出すかと思うと、すぐ野だ公が入れ替わったり、どう考えてもあてにならない。こんなことを清にかいてやったらさだめて驚くことだろう。箱根の向こうだから化物が寄り合ってるんだと言うかもしれない」ここに骨がある。これを物語として肉付けたのが「坊っちゃん」だと思う。リアリズム小説ではないから、作者の筆の勢い、生命の線が全てだ。これは天性のもので、まねできるものじゃない。自然に発生した筆の勢いが、美しいのだろう。夏目漱石の生命が封じ込められている、と言ってもいい。こわいくらいだ。淀みが少しあると先に書いた部分は、生命から汲むのではなくて、体験そのものから汲んだ部分のことだ。この部分だけは、作品の勢いが落ち、冥府をさまよう感じになった。一度、内にいれたものを、再度、別の形で汲んだ部分が淀みなく、頭で体験を再現した部分が作品全体としては淀むのだと思われた。いや、写実がほとんどなく来て、突然写実が入る部分が淀むという言い方のほうがいい。写実自体は明確だが、この作品の流れとしては淀むように思われる。具体的には、祭りだか踊りだかを描写するところだけ、作品の中で馴染まない。ここまでの流れからいくと省略するのがこの小説の流れだったように思う。終盤まできて、リアリズムではないことは明らかな流れで、突然の写実的な描写が、淀むということか。それが明確で短い描写であっても淀む、というのが不思議だ。しかし、読者は遠慮なくここを読み飛ばすと思うし、ここの部分だけとれば、興味深いところでもある。わずか二ページほどの話だから、淀みというほどじゃない、とも言える。

これから夏目漱石を再読していこうと思う。一冊の作品を読むというのは、気持ちいい。山に登った感じだ。その作品が、作者の生命から汲まれている場合には、その頂上で、思わず震えが走る。一体何なんだ、この震えは。

-夏目漱石