キクチ・ヒサシ

文化と芸術を言祝ぐ『コトバの塔』

夢分析

現代民話考4「夢の知らせ、火の玉、抜け出した魂」口承集積によるリアル、説明不可能な偶然の一致。

2016/09/30

現代民話考 4 夢の知らせ・火の玉・ぬけ出した魂」なるタイトルをみて、心惹かれて読んだのだが、リアルだった。特にわたしが関心があるのは、「夢の知らせ」の部分なのだが、夢の知らせの不可思議な体験をした人々が実際に語った話を、短くまとめ、それが次から次へと飛び出してくる。夢を見た人間は、多数の異なる人間で、場所も時も境遇も、色々が異なっている。そういう異なる多数の人間の語る「夢の知らせ」の集積を読んでいくと、それがあまりにも似ているのに驚く。一番多かったのは、夢に親しい者があらわれて、挨拶したり、何か印象的なことを話したりする。そうして、翌日などに、その夢で不可思議な挨拶をした者が亡くなったことがわかる、という構造である。偶然にしてはあまりにも出来過ぎていて「夢の知らせ」だったのだと当人も驚きを覚えるので、その体験が強い記憶となるのだと思う。こういう夢の知らせ、虫の知らせについては、日本人は古来から馴染んでいて、よく語られることでもあるので、目新しくはないのだが、こうも色々な状況で、色々な人が、「夢の知らせ」と言える体験をしたことを淡々と語ったものを並べられると、異様なリアル感があって、覆すことの出来ない何かがあるのを感じ取る。

夢の知らせ

夢は無意識への王道であるとして、フロイトやユングは、夢分析を行ったが、その中で、説明の出来ない偶然の一致が起こることを、ユングは観察し、それにシンクロニシティと名付けた。夢は、意識を補償するもので、要するに無意識は当人の意識よりもよく知っているということで、それについては、何となく夢を見てきたふつうの感覚でなるほどと理解できるものだが、時々、説明のつかない夢というものがある。その謎は、現在人類が手にしているものでは、うまく説明がつかない。脳の分野で夢を説明するものがあって、それは一理はあるのだが、夢の全体には届いていない。各人のバリエーションで差異がありながらも、遠く離れたところの人の死を、夢で知るというのが、不可思議だ。夢に現れる精神エネルギーの世界では、時間と距離という概念が通用しないかのようだ。よくわからない。しかし、よく考えてみると、ラジオやテレビやメールや電話やインターネットというのも、距離を超えて一瞬にして人をつなげる。そもそも、声や文字やテレビ電話ならライブ動画を、離れた距離で、同時に送受信出来るということが、不可思議である。脳の中で、シナプスか何か知りませんが、電気信号を送受信して、こうして書いたり読んだりしているみたいな説明を聞いたことがある気がするが、それぞれの脳の電気信号を、端末に入力して焼き付け、電気変換して、別の脳で受信するということが、連絡を取るということなのだとしたら、壮大すぎて、この星で可能となっていることが、どうもわけがわからない。ラジオの電波受信みたいなことは、人間が自然生得的に与えられている送受信能力を、自然物質の操作加工によって強めたものだとしたら、夢は、離れた人の電波を受信し、映像によって知らせる役目も持っているというのか。全ての人間の頬の横に、常時携帯電話を張り付けて、常時ライブにしておくということを行ったとしたら、誰でもその人の息遣いをリアルタイムで聞くことが出来たとしたら、ちょっとチャンネルが多すぎて困るから、大事な局面だけ、電波が合うような感じになっていると便利だとしたら、夢の知らせがそれだとでもいうのか。というよりも、これは、携帯電話一人一台の意味になってしまった。夢の知らせは、もう既に、外部装置に委託されて、不要となってきたということかもしれない。ラジオ電波のチューニング受信に適した個体が、シャーマンのような仕事をしてきたのかもしれない。その意味で平均的な個体も、重要な局面では、それを受信するのかもしれない。現在では、それよりも携帯電話に連絡が飛んでくることで平均的に補うことが可能になり、不要となるが、イメージ像が夢に生じるということ、そのエネルギーを感受する体験、この星の神秘に開かれるには、この外部装置では果たせないのかもしれないが。インターネットを可能にしている原理というのは、一体どんなものなのだろうか。単に知識や技術の側面ではなく、その原理の構造が、この星で可能となっていることの比喩となっていそうで気になる。

2014-03-27 17.23.17

ところで、この本には、「火の玉」と「抜け出した魂」という章もある。これらは、亡くなる前に光の玉が抜け出たのを見た、あるいは、死期が近くになると火の玉がその家から抜け出して飛んで行く、死期が近いと火の玉がやってくる、墓場で火の玉を飛んでいるのを見た、などの目撃談、伝承、その他から成り立っているのだが、ひとつ驚愕の伝承が遺っていて、細部は実際に本にあたって読んでほしいが、もはや落城間近で、死を覚悟した人々の城から、最後の決戦前に、無数の火の玉が城から立ち昇っていくのを見たという伝承である。結局、その城が降伏することで人々が死を免れることになると、再び、無数の火の玉が城に戻ってきたというのである。イメージとしても美しく、惹きつけられる。肉体の死の前に、魂が先に逃げていくというところが、驚きのイメージであり、実際にそういうことがあったのかどうか、しかし、どうも変な真実味があって困る。精神と肉体という風に人々は分けてきた。魂と物に分ける。それは太陽の光と大地という身体に分けられる。

精神と肉体

魂と物

太陽の光と大地という身体

区別意識によって、人類は、二つの相反する組み合わせを把握してきた。(日本では物と魂の区別なく把握してきた伝統があるが)それは、よりシンプルにすると、光と物質という分け方に帰結する。

光と物質

太陽と地球

魂と物

精神と肉体

上記は、すべて同じものをそれぞれの次元で分けたもので、結局はすべて、光と物質と総称出来る。そうであれば、人に宿った光が、肉体の消滅に合わせて、飛び立つ、人の肉眼に把握可能な光として現れる、ということはありうることかもしれない。今、わたしは、全ての物質は光である、という現代科学を扱った本を読み始めたところであるが、この本では、光と物質という二元が超えられて、全ての物質は光である、ということを語ろうとしている。相対性理論、量子力学によって、物理の世界でも大きな世界把握の変化、インパクトが起こっている模様であり、まだ読みかけなのだが、もし、光と物質、という分け方を超えて、全てが光だとしたら、それは、光の仏様の名前が延々と書かれていて眠くなるような、妙に心地よいような華厳経の経典などにも相似しており、仏教的世界観における真理は、科学原理よりも早くに、この世界の真理に肉薄していたものと見なければならないかもしれない。そして、夢の映像も、もちろん見れる以上、それは光の像である。そこにはエネルギーがある。エネルギーは、かたちを取る。それは、わたしのかたちになり、あなたのかたちになり、夢でかたちを取る、それぞれのエネルギーの性質がかたちに現れる。それは、物の質量の背後に、光のエネルギーがあるという捉え方だと思われるが、それは、まさしくわたしが知る仏教の世界観と酷似する。大日如来、阿弥陀様、そのような仏様は、黄金に輝いた光のエネルギーを、人格化したものと捉えるとわかりやすい。わたしは深層心理学と東洋の学問と芸術に接近してきた個体である。わたしが、このブログで、どのような題であれ、常に模索して探究してきた真の隠れた題は、このことに関わっている。現代で一般的となっている区別原理は葛藤と矛盾を生み出す。自然物質の操作に関して、二つに区別することは便利であり可能であり、もはや人類は、この科学原理を手放すことは出来ない。しかし、生活者として、精神、あるいは心、あるいは魂を持つ一人の人間としては、この区別意識をデフォルトにして生活することは、その個人に対して矛盾と葛藤を負わせる。いい人と悪い人、嘘と真実、きれいときたない、北と南、天と地、男と女、意識と無意識、金持ちと貧乏、思考と感情、西と東、左と右、味方と敵、身内とよそ者、精神と身体、わたしたちは、あらゆるものを二つに分けて把握している。それは、必ず、左右の間に壁をつくり、葛藤と矛盾を生み出す。仏教では、このような二元は越えられて、一元に至ることを悟りとしているのだとわたしはおもう。このような二つのものに、わたし個人が常に挟まれている。そして、誰もが挟まれている。個人の内で、いい人と悪い人が、きれいときたないが、男と女が、意識と無意識が、常に葛藤している。その矛盾を意識化できない場合は、それは夢において現れることになる。夢を見なければ、同じことであるが病や問題となって現れてくる。そして、個人においての葛藤は、そのまま集団、集合がつくる世界の現れの葛藤とまったく相似形である。世界が西と東に分かれて争う、先進国と発展途上国、領土や領空の線が国を分ければ、その二国の葛藤は強くなる。それは、戦争に帰結してきた。個人においての、精神と身体の葛藤は、そのまま国レベルでの葛藤と同構造をしている。更には、この大地という肉体と、太陽の光という精神の対比が、わたしたち人間のメガネで把握される現実における象徴となっている。このような二元を把握する一般に流行している人間のメガネは、葛藤と矛盾を避けることはできない。ユングは相反する概念が結婚する、結合する神秘について書いた。河合隼雄は、中空構造を想定した。わたしは、このような二元を超えるために苦しみ、やがて円環意識について、書いた。北と南は固定できず、ずっと北にいけば南になる。昼は、やがて夜になり、また昼になる。このようなこの星の円環、そしてわたしたちもまた自然の一部であり、全体をもっており、それは円環している。それは、夢と東洋学に接した結果、わたしに浮かび上がってきた。その意識の在り方は、葛藤と矛盾、二つに分けた対立を超える意識に至る方向性を示していた。それを、あらゆるこの星の物事の中で現実的に試してみること、これがテーマとしてやってきて、このブログの全てに響いている通底音になっているものとおもう。いずれ、自分がどのような経緯で、このような一元的な円環意識について志向するようになったのか、振り返ってみたいが、ともかく芸術と信仰、人文学問の方向性での探究から産まれてきたものであるが、それが最先端の科学の智と重なりあってくるとしたら、それは、はなはだ興味深いことである。東洋学からの一元と、科学原理からの光と物質を超えた一元に至る道は、おそらく重なり合うに違いない。人文学の智と最先端科学の智を両方理解した上でどのような全体が見えてくるかが楽しみである。

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