キクチ・ヒサシ

文化と芸術を言祝ぐ『コトバの塔』

アルベール・カミュ

アルベール・カミュの文学「ペスト」と「追放と王国」と「転落」

2016/07/09

アルベール・カミュの「ペスト」と「追放と王国」と「転落」の読後記録をまとめた。

目次

「ペスト」(1947)
「追放と王国」(1957)
「転落」(1956)

1「ペスト」(1947)アルベール・カミュ

カミュの「ペスト」を読了して、どうも言葉が出てこなかった。この小説に付き合いながら、私は、章を読み終わるごとに、覚書をして、また読み進めるという形をとった。だが、4章と5章を読み進めるうちに、覚書をする意味は失われて、書く気がしなくなった。読み終わった空白の中で、新たな読書に向かい始めて、どうも進まない中、アイスコーヒーを飲んでいるときに、突然ひらめいた。どうしてこういうことになるのか、突然やってくる。それは、唐突に、この「ペスト」が大衆小説でないのは明らかにしても、その意味ともまた違って、これは小説ではない、という言葉となってやってきた。「小説ではない」というのはどういうことなのか、よくわからなかったが、最も近いのは、この「ペスト」は「信仰の書」なのだ、ということだった。ちょうど、この「ペスト」の中で、グランが物語を書き続けているのと同じように、これはひとつの、神とは無関係な、カミュの「信仰の書」ということだった。だから、これは小説を評価するように、評価はできない。信仰の書とは、評価や批判を受け付けるものではない。これはある一人の人間の「信仰の書」であり、長い年月、机に向かって書き進められた、その不断の努力が胸を打つと私は考えたのかもしれない。良い小説は全て、そういうものだという人もいるかもしれない。「異邦人」「転落」「追放と王国」、そして「ペスト」という私の読む順番が悪かったから、こういう点に注視するのかもしれない。

ネットで「ペスト」のレビューを読みまくってみたが、この「ペスト」が、一人称で書かれているのに、最後にリウーが筆者として名乗る意味がわからない、という方がいた。この小説は明らかに、三人称で書かれている。そして筆者と名乗る人物が、三人称の物語風の記録を書いている。だから読んでいる間、読者は、一体誰がこの記録を書いているのか?と考えることになる。自在に引用と語りを駆使できる位置にいるのは誰なのか?と。すると、ペストという記録を書いているのは誰なのか、という視点があることで、カミュが書いた小説ということを忘れさせる効果があると思う。しかし不思議なのは、筆者がリウーであると明かした後も、場面を描くときには、「私は」とは書かずに「リウーは」と書く不思議。そして、筆者は相変わらず、「彼は」とリウーのことを書く。これはとても不思議で、明かした後でも、「彼は」と自分のことを書く。ここのところで、リウーという登場人物を書く筆者とは別の語り、カミュの、小説家の語りが判別し難い形で混ぜられているように感じる。「彼は」「彼のつもりでは」と自分自身のことを書くのは不自然すぎる、それとも日本語に翻訳するときに失われたニュアンスというか、私の知らないフランス語の語法があるのか?「彼は」と書くとき、ここはカミュの、小説家の語りなのか。あえて境界をぐらぐらさせているのか。こういうのは、これくらいにしておこう。どっちにしても全て、カミュが書いたのだ。

1章

アルベール・カミュの「ペスト」の1章にあたる部分は、四百字詰め原稿用紙換算、141枚ほどある。物語に入る前に、前置きがある。これはドストエフスキーを思い起こさせる語りだ。そして、この「ペスト」が事件の記録であり、様々な資料の引用があることを告げる。これがあるので物語内で時間や事柄を並列される自由な語りに、留保がつくし、その自在さがとてもいい。あまりに「ペスト」は面白く読めるので、下手すれば大衆小説的な、仕掛けを楽しむ小説になりかねないが、あくまで「ペスト」の進行がありながらも、一見雑多な、ペストには関係なく思われるような人々の描写が中心だ。タルーの手帳が示す、不条理な観察、これは「異邦人」の主人公を思い起こさせて心地良い。医師、ベルナール・リウーに主に視点がある。ここまでは、筆者が誰かは明らかではない。タルーは「異邦人」のような感性を持った、若い男。新聞記者のレイモン・ランベール、これも若い男。自殺未遂をしたコタールは、これまた「異邦人」を想起させる事件(まあこれは訳者註まであったが)に過度の緊張を示す、そして、奇妙なのは、彼は、小説の話だと断って、ある朝起きたら逮捕された男の話をする、これはフランツ・カフカの「審判」の話としか思えない。ペストにはじめにかかった男が、門番であったことも、気にかかった。門といえば、カフカが思い浮かぶし、タルーが、「しかし、要するにですな、こいつは何よりも門番の問題というわけです」というので、そこに別の意を汲める、ように思った。(勝手に私が汲んだとも言える)門番の死が契機になった訳で、やはりこれが銀行員では話が違う、気がして。また、自殺未遂するコタールを助けた隣人、グランは、市の臨時職員のようなものを二十二年勤めている男で、夜に、一人で本を書いている。なんかこの感じは、フランツ・カフカを思い浮かべてしまった。役所の仕事が終われば、夜はたった一人で、誰の誘いにも乗らずに、机に向かって書いている。カフカを思い浮かべるな、という方が難しい。いや、世界中にこういう書き物をして、ひっそり暮らしている人は大勢いるだろう。全体として、「シーシュポスの神話」を読んだ人なら納得すると思うが、ドストエフスキーとカフカの影響が感じられる。これは「神話」の中で、具体例と共に紙面を割かれた作家二人である。ペストかどうか微妙な線で、医師の有力者や知事が、法律だの、命令だの、権力だの言って、実際的に必要なことが迅速に進まない感じ、これはカフカの、万里の長城や、その他の短篇、いや、あらゆるカフカの著作に見られる不条理を具体例として肉付けしていると感じる。いや、肉付けというよりは、そのまんまだ。カフカより前に、こういう風に書く作家はいなかったと言っても、それほど過言ではない。(官僚機構のまわりくどさ。王のお触れが、遅れて到着する)

この世には、戦争と同じくらいの数のペストがあった。しかも、ペストや戦争がやってきたとき、人々はいつも同じくらい無用意な状態にあった。医師リウーは、わが市民達が無用意であったように、無用意であったわけであり、彼の躊躇はつまりそういうふうに解すべきである。戦争が勃発すると、人々はいう「こいつは長く続かないだろう、あまりにもばかげたことだから」そしていかにも、戦争というものはたしかにあまりにばかげたことであるが。しかし、そのことは、そいつが長続きする妨げにはならない。愚考はつねにしつこく続けられるものであり、人々もしょっちゅう自分のことばかり考えてさえいなければ、そのことに気がつくはずである。わが市民諸君は、この点、世間一般と同様であり、みんな自分のことばかり考えていたわけで、別のいいかたをすれば、彼らは人間中心主義であった。つまり天災などというものを信じなかったのである。天災というものは人間の尺度とは一致しない、したがって天災は非現実的なもの、やがて過ぎ去る悪夢だと考えられる。ところが、天災は必ずしも過ぎ去らないし、悪夢から悪夢へ、人間のほうが過ぎ去っていくことになり、

2章
236枚ほどある。ここまでで、377枚。ペストが引き起こした街の様子、追放された有様を凝縮して、筆者が語る。語りが長く続くと、さすがに頭が疲れる。身体で感じられないからだろう。コタールが、ペストを歓迎するそぶりを見せて、ペストがすぐに去るとは限らない、と言うところが、筆者が地の文で既に語っているのと同じ内容なので、少し狭く感じた。タルーの手帳や言動も、リウーと同一人物的に感じ始めて、首をひねっていると、二人が暗い部屋で順番に光が当たったりして、兄弟のように感じる人物だとリウーの視点でタルーへの説明があった。新聞記者のランベールは、壁から脱出しようと非合法な手段に訴えるが、肝心なところでうまくいかず、また最初から繰り返さなければならない。タルーが言いだしっぺで、市民で保健隊を組織し、行動をする。タルーの手帳とランベールの逃亡未遂劇、それからグランの執筆。このペストの中で、保健隊にも入って仕事しながらも、グランは、毎夜、小説を書くのに没頭している。その困難な仕事に取り組んでいる姿が、美しく描かれ、それは他者にも光を与える。ペストの中で、どう生きるか、とういうところで、仕事の美しさがあげられている。困難の中で、夜に言葉の彫刻に励んでいるグランの姿が、習慣の中に埋没せずに創造的に生きる、ひとつのやり方として、確かに美しく感じられた。習慣。これが、この作品の中で目立つ、言葉だ。

3章
この章は短い。42枚しかない。ここまでで、419枚。ここは、筆者によって、埋葬の様子や、暴動などが語られる。筆者は、芸術的感興を高めようと嘘を書いたりすることなく、客観性に徹していることを言い訳する。個人的には、語りでもって示される現実は、どうも身に迫らない。小説ではない、と言ったほうがいい。これは確かに「ペスト」の記録なのだとも言える。ある人にとっては必要な記述も、私には不必要だということはよくある。逆もあるだろう。

4章、5章
284枚。合計で、703枚。原稿用紙で703枚書くのが、どれだけ大変かと思うと、本当に頭が下がる。これを書くのには、ルーティーンワークでは無理だから、習慣を破って、まさしくこの「ペスト」の中にもあるように、意志を持って書き続けるという以外にはないだろう。内容としては、ペストという不可避な力に、挑む人々の姿が描かれる。それは敗北を約束された戦いだが、絶望に慣れてしまうよりも、意志すること、行動することを推奨しているようにも見える。タルーが、リウーに友情について語る部分は、作為がすぎるようで、恥ずかしかったが、その語りは、「異邦人」に繋がるものだ。人類の肯定的な部分、について語る所は力強いが、わざわざそれを語らねばならないことが悲劇的に思えた。いや、語るということが、語るにおちてしまうようで、私が個人的に恥ずかしいのだろう。テレビドラマが全く見れないのと同じ理由で恥ずかしい感じがした。それと会話が、観念的であることも気になる。これは、個人的な関心によるかもしれないが、「異邦人」のようには、人物が肉体化されていないという感じ、身体にこない感じ、これが気にはなった。

「誰でもめいめいのうちにペストをもっているんだ。そうして、ひっきりなしに、自分で警戒していなければ、ちょっとうっかりした瞬間に、ほかのものの顔に息を吹きかけて、病毒をくっつけちまうようなことになる。自然なものというのは病菌なのだ」とタルーが語る部分は、そうだ、そのとおりなのだ、と思う人は多いかもしれない。誠実であろうとすることが、不断の努力と意志を緩めない緊張の中にあるとしたら、これは人間には相当な試練だ。だから人々は疲れているとタルーは言う。海の穏やかさと残酷さ。自然の光と影。意志と緊張をもって誠実でいることは、非常に疲れる、すり減らすことでもある。人はそんなに強くない。聖人であることは不可能といっていい。仏になってしまっては、生きているとは言いがたい。生きながら死んでいるとさえ言える。人間の身体性を開放することは、無意識の開放に通じている。心や魂の開放なく生きていくのは、辛すぎる。しかし気を緩めれば、すぐに汚物にまみれてしまうし、ほんの少しの努力を怠っただけで、埃がつもり、カビが発生し、清潔は失われる。不断の努力のきつさ。ときには、逃げ道が必要だ。その逃げ道がどこにあるのか?人は頭だけで、意志だけで生きるわけにもいかない。たいていの人は習慣の中に生きている。良くも悪くも。そして、その社会や文化なりが要請する中に適応し、ある意味では抑圧されてもいる。普通に生活をする才能のある人達は、タガが外せない。タガを外すということは、人間の桁違いの力を解放するということだが、そのパワーを生じさせる場所次第では、社会の枠の外になることもあるだろう。危険と隣り合わせの場所にしか、生命は流れない。普通の生活、習慣の中に埋没するのは、ある意味では、生きないということだ。テキストは、うまくいけば、生命を流し込むことができる。

頭の中で、誠実と思ってしたことが、結果的に不誠実になることだってある。あるいは、身体にとっては不誠実な行動が、頭では誠実と思っているかもしれない。ペンをとるとき、そこには音楽性が重要になってくる。一見無意味に見えることが、身体に効いてくる、身体性の開放に繋がる。音楽の説明なんていらない、音楽自体が人を惹きつける。私にとっては、小説を読み書きするということは、身体の開放ということが重要である。頭の方は、もう矛盾の中でやっていくしかない。それよりも、がんじがらめの身体の開放だ。

2「追放と王国」(1957)アルベール・カミュ

カミュの「追放と王国」には、六つの短篇、すなわち、「不貞」「背教者」「亜者」「客」「ヨナ」「生い出ずる石」が収めてある。新潮文庫では、これに中篇の「転落」を加えて、一冊としてあるのだが、簡潔に圧縮した文体を読み進むのに難渋したおかげで、肌身離さず、付き合ったという感があり、愛好する一冊となってしまっている。
「不貞」「亜者」「客」「ヨナ」のことを、記しておこう。他二編、「背教者」「生い出ずる石」は読むことができなかった、一行目から終わりまで読んだが、おそらく読んでいないに等しいと思われる。キリスト教圏の前提がわからないせいであろう。現代の事柄に置き換えても、うまく感得することができずにいる。

「不貞」

痩せた蠅が一匹、窓ガラスは明けっ放しのバスのなかを、ひとしきり、飛びまわっていた。妙に、疲れきった飛び方で、音もなく、行ったり来たりする。ジャニーヌはその姿を見失った。が、まもなく、夫の動かぬ手の上にとまるのを見た。寒かった。砂まじりの風がふきつけてきて窓ガラスに軋るたびに、蠅は慄えていた。冬の朝の薄い光のなかで、鉄板と車軸を軋ませながら、車は横に揺れ縦に揺れ、思うように進まない。ジャニーヌは夫を眺めた。狭い額まで降りてきている半白の髪を立てて、鼻が大きく、口元の整わぬマルセルは、仏頂面の牧神みたいな風体である。車道の窪みをわたるたびに、寄り添った夫の身体がはねあがるのを感じた。が、すぐにまた、その重い胴体は開いた腿の上に納まってしまう。見据えた目は、ふたたび生気なく、うつけたままである。ただ、シャツの袖より長くて手首まである灰色のフラノの服のせいで、よけい短く見える、毛の生えていない大きな手だけが、いきいきしている。その手は、膝の間に置かれた小さな布鞄をあまり強く握り締めているので、ためらいがちな蠅の動きを感じていないようである。

バスの中で、蠅が飛びまわり、それが夫の手にとまる。夫はそれにも気付いていないという情景が、抽象性を持って、しかも具体的に見えるように書かれている、と思える。

突然、風のうなりがはっきりと聞こえ、バスを取り巻く砂粒の靄が一段と濃くなった。窓ガラスには、目に見えぬ手が投げつけるように、幾つかみも砂がぶつかってきた。蠅は寒そうな翼を動かし、足をかがめて、飛びたった。バスは速度を落とした。今にも止まるかと見えた。しばらくして、風はしずまったようで、霧も少し晴れ、車は速力を取り戻した。埃だらけの風景のなかに、幾つかの光の穴があいた。ひょろ長く、白っぽい棕櫚の木が二、三本、まるで金属を切り抜いたかと見えるのが、窓ガラスに現れては、一瞬の後に消え去った。

ジャニーヌは疲れている、人の生に疲れている、だが、ここには喚きや八つ当たりはない。夫は金集めに夢中になっている。夫に黙って、ジャニーヌは寝静まったホテルの一室を出る。そして星を眺め、世界に開かれる。そこから見えるのは、人の生の小ささとそれを超えた世界の、無慈悲さと美しさであろう。

「亜者」

この短編集の中でベストと思う。

真冬だった。それでも、もう働き出した街の上に、晴れやかな一日が昇っていた。突堤の端では、海と空は同じ一つの光のなかに溶け合っていた。イヴァールはしかしそれらを見ていない。港を見下ろす大通りに沿うてのろのろと車を走らせていた。自転車の固定ペダルの上で、利かないほうの脚はじっと休んでいて、動かない。もう一方の脚は、まだ夜露に濡れている舗石を乗り越えるのに苦労していた。頭を起こさず、サドルの上にかがみこんだまま、彼は昔の電車のレールを避けていった。急にハンドルを切って脇によけ、彼を追い抜く自動車を通過させる。時々、腰のところの、フェルナンドが昼飯を入れてくれた袋を、肘で押し戻す。そのとき彼は袋の中身のことを考えて情けなくなる。大きな二切れのパンに挟んであるのは、彼の好きなスペイン風オムレツとか油であげた牛肉ではなくて、チーズだけなのだ。

「不貞」の蠅と同じだが、ここでは、彼が片脚でしか自転車のペダルをこげないところに、抽象性がある。生を潜り抜けていく中で、誰もが無傷ではいられないのであろう。イヴァールは、樽工場で働いている。そのストライキの失敗と無益さがまずある、工場主もまた人であり、おそらくは決して腐敗している権力者というわけでもない。だが労働は美しい。ストライキが無為に終わり、仕方なく仕事に取り掛かりはじめたとき、工場内に音が聞こえ、汗が見えるような描写がされている。それが、生きながらえる為の、山に石を運び、山頂から石を転がす、また山頂まで石を運んでいき、繰り返すだけだとしても、やはり美しいように思われる。イヴァールは労働を終えて、家に戻り、酒を飲みながら、夕陽を、海を見る。彼は若くなりたかった。妻にもそうあってほしかった。手を取り合って海の向こう側へ行きたかった。老いがあり、不条理と情があり、人間にはかまいもしない、世界の豊穣が揺らめいている。カミュが偉大な作家に数えられるのは、人間の交わりのみならず、無関心で豊穣な世界をも描くからであろう。

「客」

簡潔さが心地良い。好ましく思う。

教師は自分のほうへ二人の男が登ってくるのを眺めていた。一人は馬に乗り、一人は徒歩である。丘の中腹に立てられた学校に通ずる、切り立った急坂には二人はまだかかっていない。砂漠の高原の広大なひろがりに、岩間を抜け雪を踏んで行き悩み、道ははかどらない。馬がつまづくのがはっきり見える。音はまだ聞こえないが、そのとき鼻づらから立ち昇る白い息が見える。男の一方は、少なくともこの土地を知っている。数日前から白く汚れた褥の下に消えている山径を二人はたどっているのだ。半時間でこの丘には達すまい、と教師は計算した。寒かったのでセーターを取りに校舎へ戻った。

教師は、丘の中腹の学校に一人でいる。知り合いが罪人を連れてくる。警察に引き渡すよう依頼される。教師は罪人と一晩過ごし、共に食事をし、コーヒーを飲む。彼は罪人を自らの意思で渡すことは好まない。罪人を山の上まで連れて行く。「これで二日はしのげる。ここに千フランもある」アラビア人は包みと金を受け取る。しかし、品物をのせた両手を胸の高さにひろげたままでいた。与えられたものをどうしていいかわからない様子だ。「さあ見ろ」と教師が言った。彼は東の方角を指し示した。「あれがタンギーへの道だ。歩いて二時間かかる。タンギーには役場と警察がある。彼らはお前を待っている」アラビア人は東を見た。教師は更に南を指す。「あれが高原を横切る山径だ。ここから一日歩けば、草原に出て、遊牧民にぶつかる。連中は、その掟に従って、お前を迎え、お前をかくまってくれるだろう」そして、あとは勝手に選べ、と突き放す。そこからの流れも、面白く思う。

「ヨナ」

芸術家の半生を書いている。語りは軽やかで、楽しい。

幸いなことに、仕事をしなくなればなるほど、彼の声望はいよいよあがった。どの展覧会も前々から期待され、賞賛された。事実アトリエの常連客二人をも含めて、少数の批評家は、若干の留保をつけて、自分の批評が熱狂に走ることを抑えていた。しかし、弟子どもの憤激は、このささやかな不幸を贖い、いや贖ってはるかにあまりあった。いうまでもなく、弟子達は強引に主張する。初期の画布を最上のものとなし、最近の探求を真の革命を準備するものと言うのである。初期の作品をほめそやされ、心情を吐露して感謝されるたびに、軽い苛立ちを覚えて、ヨナはみずから心を咎めた。

芸術家として名をなしてから、人々が集まり、弟子が増え、雑用が増えていく。妻、そして子供のこともある。芸術家は芸術から遠のいていく。やがてヨナは明かりもなしに、屋根裏部屋で仕事をするようになる。そこからは食器の触れ合う音や妻の笑い声がよく聞こえる。

カミュの短篇小説集「追放と王国」と中篇「転落」を展望すると、世俗から離れた目を好ましく思う。それでも人は世俗で生きていくしかなく、その眼差しがあわれみやおかしみを誘うように思われる。

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3「転落」(1956)アルベール・カミュ

アルベール・カミュの「転落」を読み終えたが、読み終えていない感覚がずっとしている。カミュは「シーシュポスの神話」でこう書いている。不条理な作品は、「汲み尽くしえない量を持つ宇宙からのたえざる呼びかけ」がのこる、と。こうも書いている。芸術作品によって精神ははじめて自己の外に出て他者と向き合うが、それは他者に溶け込むのではなく、万人が踏み入っている出口のない道を的確に指し示すのだ、と。「転落」を読み終えた後で、彼の作品がまさにその通りになっていると感じないわけにはいかない。読み終えた後に、いや読んでいる途中でさえ、何度ページを後戻りしたことか。何かを見逃したような、何か心が引っ張られているような、読み終わったのに、読み終わることが不可能なような、その圧倒的な豊穣を自分のものにしたくとも、手が届かない感じ。それはこの「転落」という小説を開かないことには手に入らない。汲み尽くしえない泉をわたしは感じたのだ。身近な人間が決して応えてはくれないこと、そして応えることができないことに、この作品は応えてくれる。万人が踏み入っている出口のない道。カミュの「転落」はわたしをまた一歩押し進めた気がする。正確には一歩も進めないことを確認したと書くべきかもしれないが。わたしが突き当たったもの。果たしてそれがどういう見方なのか、わたしにはわかりかねた。人間の悲しき前提条件、限界、本質を思えば、誰も責められずも誰も逃れられない真実だったのだ。ようやくわたしは辿り着いたと思えばよかったのだ。だから、わたしは突き当たってしまった以上、これからどのように生きていけばいいのか、「転落」の中の語り手のように生きていくのかどうかを自分に問いかけていた。ここまで辿り着いても、なお、この出口なき場所で生きていく。

「ペスト」と「追放と王国」と「転落」を読み、これらの記事を書いたのは、7、8年前である。今のわたしならば、入口も出口もない現在を生きている、こういう風に、カミュに伝えたい。あなた方のおかげで、人類の意識は深まり、そして高まりつつあります。ほんとうに、どうもありがとう。

-アルベール・カミュ