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大相撲

大相撲五月場所、遠藤復調:スー男の縦綱

2016/08/19

大相撲五月場所、やっております、二ヶ月に一度、熱い男たちの裸一貫のまわしの取り合い、遠藤関が幕の内に戻ってきて、琴勇輝が関脇に番付を上げるとともに、ホウッ!!という掛け声を封印し、一時期覇気を失った白鵬は若手を退ける意気込みに溢れ、琴バウワーこと琴奨菊が、イノシシのごとき猪突猛進、稀勢の里が先場所より安定感を見せ始める。楽しいな!スー男が、大相撲へ回帰したのは、四年ほど前である。東北大震災後に、古の知、この列島で地震と共に生きてきた先祖につながろうとする動きが、随所で起こり、大地との親和性、伝統とのつながり、祈りが、この列島を包んできた。その中で、わたしは自然と、大相撲を観るようになったのだが、土俵はいい。相撲はいい。スポーツとしても面白い上に、二ヶ月に一度、横綱が土俵入りすると、感動してしまう。琴奨菊が優勝したとき、日本に伝統が取り戻されつつある旗印が立った、とわたしは泣いたものである。笑。このblogでは、神社と相撲の構造について以前書いているので、この天才的行事についての洞察は、そちらをご覧いただくと幸い。この四年の大相撲に本気でコミットしてきたスー男的流れをBGMに、この五月場所の遠藤について、のこったのこった!

遠藤の復調は、嬉しい。わたしは、三月場所を大阪難波で二度観に行き、そのときは遠藤関は十両、去年も大阪場所は二度観に行きましたが、そのときは、遠藤は怪我で休場していたのでした。 数年の大相撲の流れを、大人になってから観察していると、幕の内に上がってくるときの力士というのは、勝ち続けて上がってくるので、良い流れで、自信を持って土俵に上がり、破竹の勢いを見せることがありますが、幕の内においては、気迫や勝気だけでは限界がある、なぜなら、この相撲という競技は、土俵という円から出るか出ないかの勝負な訳ですから、単に力だけで、単に勢いだけでは、自ら円の外に出てしまうようなことにもなってくる、この円は、心を現していて、一方向への強い意志は、当然円満から外れるわけです、勢いだけでは持続性に欠けてくる、柔よく剛を制す、まさに日本的精神を体現していかなければ、番付を上げ、幕の内に残り続けることは至難の業、照ノ富士の優勝までの怪力は見事なものでしたが、その無理は膝にかかり手術、今場所は、今後の照ノ富士の相撲スタイルが更なる向上のために必要な道となっています。遠藤も同様に、当初は、鶴竜に土をつけ、稀勢の里を破り、エジプト大砂嵐と熱戦を演じていましたが、怪我と共に、遠藤の組んでからのうまさ、センスを認めると共に、前への推進力が弱い所を見抜かれ、技を出させる前に、遠藤はぶつかっていって潰せばいい、という流れになっていき、しかも、長年モンゴル出身力士に最高位横綱を任せ、低迷していた日本大相撲界において、柔よく剛を制し、センスの良い相撲をし、それが顔に現れている遠藤は、人気を博し、CMに引っ張りだこ、他の力士が奮起する相手としてうってつけの若手ということで、この相撲人気の人柱的なところがありましたが、今後人気に見合う所まで心を鍛えることが出来るのか、楽しみなところですが、昨日までの取組みを見ている限りは、良い方向にあるとわたしは思います。以前の遠藤は、土俵の勝負を制して、よく口から出血したりして、顔つきも戦う意志がよく表れていましたが、ここの所は、覇気がない、とよく言われますし、わたし自身も彼の雰囲気の変化は感じ取っていますが、それも良い方向にある、とわたしは思うのです。勝ち負けという二元にこだわっているうちは、土俵の円に残り続けることはできません。勝ち負けを越えて、無意識に相撲を取れるようになったとき、番付も上がっていき、安定してくるはずです。宮本武蔵が「五輪書」で書いているように、心を真ん中に置くことで、強くなるのです。勝とうとして力んで、勝ち続けられるのは十両までです。平静とした顔をするようになった遠藤は、そのへんを掴んできているのではないか、と期待しています。無心から発する力動に任せることです。ちなみに、夢を記録して八年になる、わたしの夢分析の中で、わたしは一度相撲取りになったことがありますが、番付が低い、序の口で相撲を取っていると、行司も審判団も、あんまりよく見てくれないので、ズルをしてくる相撲取りがたくさんいて、苦労しました。笑。まあ、相撲だけではなく、わたしたちの日常もまったく同じというわけですね。それ、ハッケヨイ!八卦良い!

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