キクチ・ヒサシ

文化と芸術を言祝ぐ『コトバの塔』

大相撲

豪栄道優勝に見る心技体の統一。人間に与えられた生命の力の発現。

豪栄道が全勝優勝。大相撲九月場所における事件である。負け越しとなれば大関の地位を失うという場所で、豪栄道が全勝優勝するなどという予想が誰に出来ただろうか。それまでと別人のような心構えを男が身につけていく、日々強くなっていく、そのライブに、心打たれたのはわたしだけではあるまい。決心した男は強かった。神がかっていた。

日本の島には、縄文人が長く住んでいた。彼らは、魚や獣を捕り、木の実を採り、焼き畑をして生きた。弥生時代、稲作農耕が広がったときでも、多くの縄文人は、そのままの生活を続け、山と共に暮らし、彼らは蝦夷と呼ばれた。あるいは、山人や海人と呼ばれて、里人に恐れられた。彼らは、時々、里に現れては、やたらと相撲を取りたがったと言う。縄文土器は画期的な生活革命を起こし、人々は、肉や魚や野菜を土器にぶちこんで、ちゃんこ鍋にして食べることが可能になった。

熊の子供がじゃれ合って、お互いの力を試し合うかのように取っ組み合う映像を見たことがある。力比べというのは、本能的に心惹かれるものがある。日本の相撲発祥の起源は、神話にあるように、タケミカヅチとタケミナカタが、力比べをしたことに遡るが、そこには、天つ神と国つ神の対立が、アマテラスとスサノオの対立が、弥生と縄文の対立が、農耕牧畜と狩猟採集が、空気読む系と空気読まない系が、人格系と発達系が、魂の土俵で、葛藤し、戦った図として、わたしには浮かび上がってくる。わたしたちは、日々、心の土俵の上で戦う。その葛藤と矛盾に勝敗をつけながら、その円の中から足が出ないように。大相撲のすべてが、わたしたちの心の生活の比喩になってくるのがおもしろい。それは、実際の相撲でありながら、同時に優れた比喩として、人々のイメージの舞台として機能する。

人間に与えられている力、エネルギー、それは、なんと不思議で神聖なものだろうか。力がぶつかり合う。その力はどこから来るのであろうか。わたしたちは知らない。ただ、目覚めたときには、この大地の上で、わたしたちは足を踏み鳴らし、その力が与えられている事実を直視する暇もなく、生きるのだ。そして、より巨大な、人間にはコントロール不能な、荒々しい自然の力が存在し、それは、わたしたちの力をはるかに超えて、猛威を振るう。恩恵を与える。儀式は、この自然世界の力、それがわたしたちに与えた力の不思議を讃える。儀式における所作は、その力の行使、力が在るということが、純粋に使用されて、神聖さを帯びる。

横綱が土俵入りする。土を踏みしめ、手と手を叩き合わせて、音を打ち鳴らし、その手は、低いところから高いところへ、高いところから低いところへ円環する、土から生じる生命、木々や植物のように伸びて、鳥のように羽を広げて、それは雨のように静かに降りてくる。塩で清め、水ですすぎ、縄で描かれた円の上、人はお互いの呼吸を合わせて、正々堂々、練磨した力を、天与の力をそこに発揮する。わたしたちのこころの中の葛藤が、土俵の上に外在化し、人は葛藤に勝ち続ける者を横綱と呼ぶ、その力は、自然がもたらしたものであり、そこにわたしたちは、力をもたらしている大いなる存在の影が、英雄の称号をまとっているのを見る。

アマテラスは、岩戸にひきこもった。その闇の世界は、神聖な力の源に通じると共に、黄泉の世界につながっている。そこからアマテラスが戻ってきた後、その岩戸には、縄がまわされた。その縄は、闇の世界への境界となった。縄は異世界への境界を意味する。異世界は、奇跡の源であると共に、恐ろしい深遠でもある。それは人間を超えている、はかりしれない力の源が跋扈する世界である。横綱は、しめ縄を巻く。その縄の向こうには、男根があり、それは生命を宿す力が秘されている。それは母なる土の上で、揺れ踊る。餅つきが、器と棒による生命発現の神秘をぺったんぺったんと響かせるときのように、横綱は、母なる円の上で足を踏み鳴らす。この世界と異世界が、男性原理と女性原理が、ぺったんぺったんと、文化的なまぐわいの音を響かせる。わたしたちの全てが、このような不可思議な生命の現れであり、そこにはいつも、このような餅つきがあった、何億何千万の餅つきの果てに、人間が次々と存在をはじめ、この母なる土の上を歩き回っている。

豪栄道は、度々横綱を破ることもあった。同時に、相撲が不安定で、大関昇進後、思うような相撲が取れず、怪我の影響もあるとされながらも、心の問題と指摘する者が多かった。心の問題、というと、あまりにも漠然としているが、心技体の統一という観点からいくと、十分な技を身につけ体も鍛え上げられている。白鵬や日馬富士に土をつけたこともある。しかし、本来の自分の相撲を表現出来ないことも多い。ここに、心の面での成長の必要が示されていた。プレッシャが生じ、本来の力の発現を妨げるブレーキとなっている。それは、大関として「勝たなければならない」とか、「負けてはならない」とかの言葉に象徴される。MUSTとして意識されると、生命力の発現にブレーキがかかる。全て生命力は、表にあらわれようとする。それは、WANTなのだ。人間世界の善悪というもの勝ち負けというもの、そのような意識世界を超えて、生命には、WANTしかない。WANTの先で、生命力が使役されて、それは役目を終えることはあっても、根本的に肯定しかない。人間の生命力をうまくハンドルするのならば、それは肯定的な名で呼ばなければ発揮できない。生命力に対して、「勝たなければならない」という命令は、むずかしすぎる。「勝ちたい」というWANTの力に乗るのが良い。人間の頭は、yesとnoに囚われている。人間に与えられている生命にはYESしかない。「しなければならない」というのは机上のことであり、文章上のことであり、思考上のことであり、生命を発現する次元では、「したい」という所に焦点を合わせるのだ。そのWANTの力は、等しく人間に与えられた光明であり、わたしたちの中に渦巻く自然の力なのだ。その力は、伸びようとする。枯れようとはしない。結果的に枯れる日が来るにしても、それは伸びようとする。表に現れようとする自然生命の力なのである。勝たなければならない、という言葉は、生命にブレーキをかける。勝ちたい、という言葉は、生命の力を発現するのに役立つ。肯定の言葉は、生命の発現を損なわない。プレッシャは、外側から要請があるとの誤解から生じている。内側の生命のWANTが望んでいることを現すのに、壁は存在しない。だから多くの達人はこう言うのだ、「やりたいことをやるだけ」と。その言葉は、生命の本質WANTに適っている。

勝ちたいという言葉で生命を発現しても相撲に負ける時も来るであろう。しかしながら、やがては、自分の生命を発現できるかできないかの自分自身の勝負には勝っているという次元になってくる。勝ち負けの次元が、高まった後には、心の安定がやってくる。世間が言う意味では勝たなくても良い、ただ自分の生命を発現すること、生きること、自分自身に勝つことが目標になってくる。もはや相手のことは関係ない。それは自分自身の生命の事なのだから。そこまでの心の修養を得ることが出来たときには、もはや勝ち負けを超えた本物の横綱であり、それは土俵の上だけではなく、わたしたちの生活、生きることそのものになってくる。豪栄道の全勝優勝、彼が生命と一体になってその力を発揮した姿に、わたしたちが模範とする英雄像が投影され、心技体を統一することを誰か人間が出来るのならば、その大小はともかくとして、わたしたちも同じ人間で同じ乗り物で生きている以上、わたしたちにも可能なことを示し、人々の賞賛を集め、長く讃えられるのだ。気迫に包まれて、光のオーラをまとった豪栄道は、素晴らしかった。故郷の寝屋川市に優勝パレードで凱旋する彼を待つ多くの人々を見ているだけでわたしは感動に包まれた。人間の修養における大きな達成をした男が、多くの人々に迎え入れられている姿は、村に英雄を迎えるという元型は、わたしのこころに波を起こして、その揺れは今も続いている。

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