キクチ・ヒサシ

文化と芸術を言祝ぐ『コトバの塔』

中上健次

中上健次「岬」(1975)

2016/07/09

中上健次の「岬」を読了した。この文庫本には、四つの短篇が収めてある。「黄金比の朝」「火宅」「浄徳寺ツアー」「岬」である。ひとつ読むごとに、作品から受け取ったものなどを、このブログに下書きし、今ようやく、これを書いている。一番良い作品は、「岬」だ。中上健次は、この文庫本に後記をつけている。「吹きこぼれるように、物を書きたい。いや、在りたい。ランボーの言う混乱の振幅を広げ、せめて私は、他者の中から、すっくと屹立する自分をさがす。だが、死んだ者、生きている者に、声は、届くだろうか?読んでくださる方に、声は、届くだろうか?」

あなたが「岬」を書いたときには、私はまだこの世に生まれ落ちていませんでした。暗い穴の中で、未だ形をとらず、空白の中にありました。今、こうして遅れてやってきて、あなたの声を聴きました。今度は、あなたが空白の中へと消えています。でも声は届きました。その声、あなたの「岬」の中で、姉を呼ぶ叔父の声、その声が、死者の、父の声に重ねられたのと同じように、あなたの声が聴こえます。そうして、その声の反響を今こうして書いているのです。あなたは今、これを読むことは可能ですか?可能であったら是非、「岬」について書いた部分を読んでください。あなたの見た岬が、わたしにはこう見えました。

「黄金比の朝」(1974)

中上健司の「黄金比の朝」は原稿用紙換算で、125枚ある。十九歳の「ぼく」は予備校生で、夜勤で肉体労働をしている。兄が転がり込んでくる。記憶がそれに伴ない、家族のこと、母親や父親のことが語られる。母親への強い嫌悪感を表明するが、その逆でもある、感じ。人間くさくて、面白い。小説としては、未完成だ。でも未完成で良いものだ、小説というのは。うまく作られた予定調和的なものは、いらない。哀しくなるだけだ。途中で、酔っ払いの女に付き合うことになる。この酔っ払いの女は、主人公の母なのだな。母を召還して、歩く。水商売で育ててくれた母。今読むと、過ぎ去ったものは、ある種の潔癖さかもしれない。でもその潔癖さが、心地良くもあった。「ぼく」は、冷たい水を飲む。自分を律しようとしている。肉体労働で筋肉が隆起している。予備校に通っている。兄とは腹違いだ。彼は過激派とかで警察から逃げている。隣の斉藤の部屋には、格言が張ってある。ぼくは、英単語の中に不吉さを探そうとする。兄に反発している。兄は軽い。いや軽さを選んだ哀しみだ。ぼくは自分を律し、清潔を志した哀しみだ。だから同じものだ。「ぼく」は母を嫌っている。彼の心の中にある女を嫌っている。「弱さ」に耐えられない。この作品はばらけている。あらゆる方向が、ごったまぜになっている。混乱だ。読経が、朝に聞こえてくる。ぼくは小便をする。正義はない。この世は鬼ばかりと言う管理人がいる。人に希望を語った占い師は自殺した。出会った女は、売春婦で、その占い師を探し求めている。実際的な場とは、金を払う場。五十円玉の穴を抜けた分だけの精神。主人公の部屋が殺風景なのが好きだ。

「火宅」(1974)

85枚。これは、もう神話だ。破壊の神の話みたいだ。何か下敷きにしているのか。これは古びない。一級の作品だ。二人称で、「彼」が主人公だ。「黄金比の朝」と同じ年に書かれているが、こちらは視点がびっしりと定まっていて、ぶれない。彼は、父親が死にかけていることで混乱している。彼の大きな身体とその破壊する力は、彼の中に流れている。父親は同時に三人の女を孕ませていた。度々、火を放っていた。彼は、理解と探索を試みて、兄の視点と父の視点に入り込んでいる。その動機がはっきりしているために、入り込んでいる彼がまた恐ろしい。彼が兄になり、父になる。それらを全て書いている、中上健次の姿がある。並みの作家じゃない。これは火傷だ。火の神が、にらみをきかせている。よもぎの匂いから、創造へ移っていくところが美しい。死者の書を読んだような、他人の夢を見たような感じ。「黄金比の朝」にあったものは、全て「火宅」にある。生死、性、暴力、血、母と父、兄弟。作品の核が見えた。

「浄徳寺ツアー」(1975)

92枚。「火宅」と地続き。老人達をツアーに連れて歩く、「彼」。彼の妻は孕んでいる、もうすぐ出産だ。愛人の女がツアーに来ている。「白痴」の子供もそこにいる。死に近い老人達。彼の会社は生き残るために、ポン引きまがいのことをしている。犬が孕んだ話や、目の前で鳩が重なったり、「白痴」に初潮が来たり、愛人と彼がやったり、孕んだ腹を鬼に蹴られた逸話があったり、この世の地獄、うねうねとした、穴から這い出してくる生き物達への視線、一体、この世界で生まれて、やり、死んでいく。これは何なのか。彼の中の火。夢の中で描かれる彼の火。最後に燃えている寺の火。夜を、この中を潜り抜けたあとに、寺で光に目を留めるところが、美しい。前にも見たことがあるような、事物を照らす光に、高ぶる何か。時間間隔とか、場面を転がす、というような小説のうまさはない。これは、夢を見るように、書かれていく。生命のぐにゃぐにゃした感じ、がある。

「岬」(1975)

181枚。中上健次は「岬」に辿り着いた、という感じだ。この文庫本の最後にこの作品が控えているのも当然だ。「黄金比の朝」も「火宅」も、「浄徳寺ツアー」も、「岬」に辿り着くための助走のようなものだ。「岬」にあって、他の作品にないものはない。「彼」(秋幸)は、肉体労働に喜びを感じている。力を入れた分だけ、掘り起こされる土。人間の心のように綾がないから、土方仕事が好きだと彼は言う。はじめは、登場人物の血縁関係がややこしくて、目を丸くして読んでいたが、気にせずに読んでいけば、次第にわかってくる。そして読者が体感するややこしさは、秋幸にとっては人生そのもの。こういうややこしさの中に彼は生きている。姉達と、秋幸は岬へピクニックに行く。そのとき、海に食い込む矢尻のように岬の突端があるのを彼は見る。これが最後の場面で、海に女が重ねられ、海に食い込んだ矢尻のような岬が男に重ねられる。傑作。この岬の光景が、ただ主人公のどろどろとした人間の、家族の有様だけではなく、世界そのものになる感触を生む。すばらしい。中上健次より、小手先うまく書ける者はいくらでもいるが、こういう風には、ちょっと書けない。商品として書かれていないから良いのだろう。結局は、私がお金を出してまで欲しいと思うのは、作者にとって必然性のある、大切な何かが、こちらの胸にまで届くような、そういう小説なのだ。初めから普遍を目指し、商品を目指すのではなく、結局は同じことにしても、個人的な内奥から出発し、普遍に到達するような営為、これがあまりに貴重なために、自らの側に置きたい、読みたいと思うのだ。中上健次の小説を読むと、彼のほかの作品を読みたくなる。「岬」を読むとやられてしまう。どろどろした人間同士の交わりを書いていても、作者はそこに耽溺していない。世界に対する視線、目が開かれている感じが美しい。岬の光景はもちろんだが、光に対する、作者ないし、主人公の視線が良い。単に人間同士の話に留まらない、世界が見えてくる感じ。「浄徳寺ツアー」でいえば、夜を潜り抜けた後の、「光があふれていた。ぼだいじゅの上の方に、日が移ったのを見ていた。へんに昂っていた。自分の中で、じょじょに形を取ってくるのを感じた。それはいったいなんだろう。わからなかった。わからなくてもいい、彼は思った。明るかった。空も木も、石も、土も。こんな感じがいつかあったような気がした。それがいつの時か、忘れた。浄徳寺は、日を受けていた」こういう描写が、世界そのものを見ているために、小説のお飾りでしかない、ストーリーのための描写とは違う、本物の作家の目を感じさせる。芥川賞を「岬」で受賞しているときの、審査員の寸評が残っているのを読んだが、あまりに的外れで笑ってしまった。今日では名も残っていない審査員達が、好き勝手を述べている。それに比べて、この「岬」は今も立っているし、読み継がれていくに違いない。「日を受けて白い屋根が見える。防風林の向こうに、浜が見えた。海が見えた。街は海に向かって開いたバケツの形をしていた。日が当たっていた。彼は不思議に思った。万遍なく日が当たっている。とどこおりなく、今、すべてが息をしている。こんな狭いところで、わらい、喜び、呻き、ののしり、蔑む。憎まれている人間も、また、平然としている」人間同士の愛憎がまた、世界にとってはどうでもいいことであり、いつでも無関心に海は揺れているだろう。光はそれでも全てに注ぎ込むだろう。そういう場所で、この世界で、人が、犬のように生きている。

「日が当たっていた。眩しかった。芝生が緑色に光っていた。あまり日射しが強いために、緑の芝生は、濃く黒っぽく見えた。岬の突端にある木が、海からの風を受けて、ゆっくりと揺れていた」

「帆付きトラックの向こうに、岬と海が見える。日が雲でおおわれる。墓地の前の崖っぷちの真下は竹林だった。風に波打ち、色が変わった。その下に、遮るものもなく、芝生がつづく。岬の突端が、ちょうど矢尻の形をして、海にくい込んでいる。海も青緑だった。岬の黒っぽい岩に波が打ちよせ、しぶく」

「彼はうなづいた。女の手が彼の性器にのびた。海にくい込んだ矢尻のような岬を思い浮かべた。もっと盛り上がり、高くなれと思った。海など裂いてしまえ」

「光が当たっていた。親方の家の前の路地は、日にさらされていた。溝のにおいがした。まだ親方の家の他に、起き出した家はなかった。路地を左にまがった踏み切りの横に、一本植わっている木が、ゆっくりと、葉をゆすっていた。彼は、その木が自分と似ているように思えた。なんの木が知らなかった。知りたくもなかった。花も実もつけなかった。ただ日に向かって葉を広げ、風にゆれていた。それでいいと思った。花も実もつけることなど要らない。名前などなくていい。彼は、その木をみながら、夢を、いまみている気がした」

世界が見えるにつれて、夢と大差ない、この世界の不可思議が見え、それに打たれるようになる。

-中上健次