キクチ・ヒサシ

文化と芸術を言祝ぐ『コトバの塔』

聖徳太子

聖徳太子の実在。イメージとは、言葉以前のコトバであり、人類生得的な本能のコトバである。

2016/07/19

聖徳太子。日本建国の中心人物、軸となったカリスマであり、日本で初めて著書を執筆し、歴史書を著し、それは日本書紀、古事記に含まれている。1000年に一人の天才であり、頭脳明敏、当時、朝鮮で高レベルの学者を二人先生として持ち、インターナショナルな意識で政治を行い、哲人国家建築の高い理想を実現しようとした指導者、仏教を日本式に解釈、独自の色を塗り、その礎は、最澄、空海、親鸞、道元ら、日本的霊性発現を準備した。世俗を超えた大きな意識を持つ孤独の人であった。

2016-06-15 11.42.13

時に、聖徳太子像は、大げさすぎて、現存する証拠からして、後の人が脚色していると狭い見地から解釈、「聖徳太子」なるものは存在しない、虚構である、とこれまた大げさに騒いで金儲けする者がいて、嘆かわしいことである。 大事なことがそっくり忘れ去られている。現代の学者の捉え方は、根底が間違っている。あまりにも狭く、全体を掴んでいない。根本的なこととしては、証拠がない、というが、伝承というのもまたひとつの証拠である。また、証拠がないからといって直ちに虚構にすることは出来ない。そういう場合は、「聖徳太子が実在しているにしても、その天才を証明する物的なものをわたしの主観では捉えることができなかったのですが、どうでしょうか」と言う程度にしなければならない。歴史の捉え方の射程が狭すぎるのである。内的真実についての叡智が足りない。おもちゃみたいな所ばかり検討している。子供が大人の欺瞞を一瞬で見抜くが、それを言葉に出来ないと言うことはよくある。無意識こそが本体であり、わたしたちの生命パワーなのである。そして、数々の天才たちの伝記を読めばわかるように、それは、天とのつながりの深さを現す。天とは、この青い星を運行している力、太陽や星々の不可思議な力、生命の力である。(現代科学でも仮説しか提出できない不可思議である)つまり、無意識との接触が近い、無意識との関わりが強ければ強いほど、天才なのである。つまり、ある人物が、天才的な何がしかを行ったとき、その本体は、個人ではなく、天である。天という東洋哲学的な言い方に不慣れならば、わたしたち個人を超えて、生命を動かすエネルギー、普遍的無意識の力である。そもそも天才の仕業とは、本来、個人に帰することのできない自然の力の発現であり、それを人々は信仰するのである。聖徳太子像、そのイメージ、その伝承には、必ず意味がある。もし、わたしたちが、聖徳太子のイメージに心惹かれるとしたら、それには、確実に、真剣に取り組むべき意味がある。古事記、日本書紀についても同様で、それが権力者の思うように操作されているので、本当の日本神話ではないと仄めかして、コミュニケ-ション消費に使う愚か者がいるが、浅はかなことである。古事記、日本書紀を書く者にも、無意識の龍が動いている。時代そのものだって、人間の思う通りになど動いていない。人間が動かしているなどというのは幻想であり、傲慢である。聖徳太子に取り組むほどの心からの意欲があるのならば、我が国伝統の態度とは、人も動物も植物も、山も川も、皆、同じ生命から出来ているという視点に立つところから始まらねばならないだろう。人間の力を過信しているこのような低い言説は、現代人一般の愚かな認識を披露しているに過ぎない。太子が憲法に含めた老荘思想を学ぶ所から始めねばなるまい。第二次世界大戦、合理国家のドイツが、あるいは日本が、なぜ、あのような愚直な戦争に進まなければならなかったのだろうか。もはや、愚かな大戦争など起こるまいと思われていた時代に、なぜ、あのような惨劇が起こったのか。集団無意識の動きは、権力者にとってもコントロールなど出来ない。恐ろしい内側をわたしたちひとりひとりが持っていることが、あの大戦で広く明らかになったというのに。かつて、西洋では、神や悪魔として投影されていたものこそが、わたしたちのこころにあることが明らかになったというのに。日本書紀、古事記を読み、わたしたちの心に響くものがあるのならば、それは、推測できる過去の諸事情よりも高い意味を持つことになる。それは時代の龍を刻印しているのである。人が意識的に全てを行ってきたかのような前提自体が、古臭いのである。「銀河鉄道の夜」のジョバンニが存在しないとでも言うのだろうか。いいえ、わたしたちは、それが存在するとして、今でも語り合うのである。宮沢賢治個人の事情によって、ジョバンニは嘘でした、ということにはならないのである。そこには内的真実が現れるのである。そして、イメージは実在するのである。こう言うと、わたしがひどく偏った意見のように捉えられる節があり、それは、外的なものに対して、内的なものを軽視しがちな時代流行の中にある為であろう。その結果が、物質科学の隆盛を生み、その傍らで、内的宇宙を開発している人間たちは、不当に低く処され、空腹と揶揄の中にいなければならないのであった。そして、天才たちが死してから、人々は、それをようやく認めるのである。わたしは、今、2016年にいる。証拠と呼ばれる物的なものをいくら集めても、事実など、そもそも証明出来ない。しかし、広く人間の行いを捉えるのならば、そこに外的事実と内的なイメージを合わせた、全体が浮かび上がってくる。これで、ようやく歴史と言える。聖徳太子が実在しない、などと言う人間の文章自体が、凡庸で、視点が狭く浅く、退屈であるのは、どういうわけなのか。せめて、イメージが人間にとって真の実在といって過分ではないこと、色即是空、空即是色を理解しなければ、日本仏教の祖であり、建国の父である天子を、どうして、現代日本の学者風情に著すことが出来ると思っているのか。文章の活気、質、鋭さで、既に読み手にはわかることなのに、嘆かわしい事である。己を超える見識を備えた、時代を背負わされ、日本建国の父の投影をうけるほどの男を、なぜ、ただのサラリーマン学者に外側から書けることがあると思っているのか。なぜ、細かい重箱をつつくようなことばかりして、日本建国の中心となった男、その天才、その救世主像を、わたしたちの列島の神話として、権力者の筆など入っていない、真の神話を形成する機会の到来と認めるのではなく、「聖徳太子は天才ではなかった、日本書紀と古事記もあやしい」などと書いて悦に入っているのか。まるで、天才や個人が時代を創ってきたこと、そして個人に生命からの偶然である才能や環境や時代が降りてくる、ということを否定してしまいたいかのようである。「そのときの権力の地位から言って、皇子が中心とは考えにくい。だからそれをやったのは馬子に違いない」とか、全然、意味のない言説である。馬子がやった証拠もない。更には、地位などと言うものは、単に創ったものでしかない。日本を建国するということについて、想像してみよ、と言いたい。創造することの意味がわかっていない。大事なのは、その場で、誰が実質の中心であり、核であったか、ということである。普通に、社会経験を積めばわかることなのだが。人間というのは、人間集団というのは、そんなものじゃない。見識が低すぎて、ばかばかしすぎる。価値観の多様化というのは、確かに横に広がることが出来る。右にも左にも色々あるだろう。しかし、その場を深く掘ること、高く昇ることなしには、縦の線なしには、いくら横に動いても、見識は高まらない。縦線さえしっかりしていれば、多様なものに共通する芯があることが見えてくるだろう。たった一つ極めれば、それは、左右に通じるのである。まずは己がそこまで行かなくては、どうして偉大な人達について書けると思っているのか。親鸞ほどの意識レベルに達した男が、なぜ聖徳太子に父を視たのかを検討してみなくてはいけない。虚妄に振り回されるような男が、高い哲学的、宗教的業績を残せるとでも思っているとしたら、真に間抜けである。親鸞は、聖徳太子に真実を視ている。現代の風潮は、人を傲慢にし、見識の高い人間をリスペクトせず、右でもない左でもない、と言説を述べることが出来る。価値観の横ばかりで、縦がないのである。価値が観れずに、価値観など笑止千万。一体、わたしたちの根、祖先たちの大いなる叡智の上にわたしたちがいることを忘れているのか。聖徳太子は、既に、日本列島に存在している。そのイメージの実在は、わたしたちのこころにとって意味があり、真の実在であり、黄金である。そして、実際に、このような天才的な男が存在したことは間違いないだろう。むしろ、彼の存在を否定する証拠もまたないのである。童が歌う無意識の歌が真実を村に広げるようなことが、本当にありうる、ということについて考えてもらいたい。聖徳太子が、愛馬に乗って、空を駆け、富士山に登って戻ってきた、という伝承、そのイメージも、驚くべきほどに真実を表現しているものとして視なければならない。これらは、かつて聖人たちが見てきた夢のイメージに似ている。そして、夢とは、つまりイメージとは、神話とは、という意味であるが、わたしたちの本来のコトバであり、合理意識では表現出来ない全体を結びつける、人類生得的な本能のコトバであることを忘れてはならない。聖徳太子が、自らに与えられた多大な力を持つ馬、つまり強力な無意識の力、才能を与えられて、高いレベルの意識に到達し、日本の象徴であり、死者が行くところと考えられていた山に行く、つまり異界に行く、そして数日で戻ってくる。これは、全世界に共通する英雄神話の元型である。真に偉大な仕事は、全て、精神の次元で深いレベルに入り込み、そこで得た宝を現世に戻ってくることで成し遂げられる。このような英雄像を担うような何かが、この男にあったと考えるのは、当然である。そうでなくとも、この神話自体の存在を、軽々しく、ただの虚妄として退けるわけにはいかない。太子がどうしてもわからないところがあって先生もわからない、数日後、夢で黄金の人が現れて教えてくれて、わからないことがわかったという逸話。あまりにも真実を現して余りある。このような夢が生じるのは、もはやわたしにとって常識であり、よくあることである。ユングの著作の全てに目を通してみるといい。太子の時代には驚くべきことだったに違いない。本能、無意識と接触することで、頭、つまり自我よりも深い、ハラの方から智慧が出てくるなど、意味がわからなかったにちがいない。これこそが異界から宝を持ってくる英雄神話の意味するところである。創造的人間の秘密である。この黄金の人を、ユングならば、老賢者元型、セルフのハタラキとして解釈するだろう。花一本折れば、指一本折るべし、と義経が書いたとのことだが、聖徳太子が実在しない、などと言うことは、花を折ることである。「銀河鉄道の夜」のジョバンニは嘘でした、と言うことと同じである。イメージとは実在し、イメージとは魂のことである。花とは魂のことである。現代人の浅薄な意識が、花を折ることにわたしは怒りを覚えているのだ。全くもって、魂のレベル、深層意識のレベルで物事を見れる人間が減ってしまい、嘆かわしい。ジョバンニが実在し、聖徳太子が実在する舞台、これがこの列島の魂の舞台ではないか。これがなければ、何の意味があろうか、この生に。建造物よりも破壊してはならない舞台ではないか。この長文をここまで読んでくださるあなた方は、賢く、魂の澄んだ人達だとわたしは知っている。わたしのような愚僧のみが、喚いているのかもしれない。嘆いても始まらない、わたしたちにとって、古事記、日本書紀と同様に重要な、聖徳太子の神話を、真に理解し、伝えていかなければならない。学者に期待するのはやめて、詩人、文学者の仕事として取り組まねばならないのであろう。

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