キクチ・ヒサシ

文化と芸術を言祝ぐ『コトバの塔』

女性性と男性性

男性原理の分化:象徴としての笛の発見

2016/07/09

男性原理の分化をタイトルとしているが、以下の文章は、物事を深層意識的に把握しようとしていた時期に書いたものである。よって、一般にわかりやすくないものであることを理解している。深層意識的にということは、象徴的にという意味で、このように書くことが必要な時期があった。その生の素材をこのままここに置いておく。

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男は、剣と曼陀羅を手にしていた。本源的自然の中から、鷹に、梟に、同化する術を身につけていた。鷹は一直線の効果的思考と感覚を、梟は、直感と感情を顕現していた。それらは、まだまだ、分化途中であり、明確なものとは言えなかった。イメージの点では、多くのものをもたらしたが、それは動物が示しているように、本源的自然の力であり、まだ人間のものではなく、文化として昇華されてはいなかったと言える。

男は剣と未発達な曼陀羅を手に、下山した。鷹と梟に同化することはできても、彼自身が操れるものは、剣に限られていた。剣は使い方が難しく、時には抜いたが、大抵は鞘に収めている他なかった。この文化においては、剣は見せてはならぬものとして扱われている傾向があった。男は剣を鞘に収める、そして、素手の、無鉄砲の、根源的な空につながる態度、道に入る、透明な存在を志向する姿勢へと自らを追い込んだ。それはいわば無心の境地、無欲則静虚動直を試みる修行となった。山を下りて、下界で、瞑想を行うような困難の中にいたが、おそらくは必要なことであった(これは知識に対して身体知が、技術に対して人格が、世俗においても相対的に力を持つことを学ばせたとも言える。非聖化された世俗空間で、聖を求める心の動き、神話産出のハタラキが生じ、抗うことができず、その容器や空間を用意できなかった為に生じた、噴出するマグマを形にすることの困難を怠った為に、別種の困難が生じた)。剣を持つ手には、確かに欲があったのであろう、その為、そこに計らいが生じ、隙となった。剣は鞘に収められ、それでいて、世俗を生き抜かねばならなかった。同時に、剣を振るいたがる者達の中にあっては、鞘を収めることが補償的に働く、ということがあり、その任が自然から要請され、抗うことは出来なかったとも言える。女性達は、剣を振るいたがっていた、同時に肝心なところでは、振るうことができなかった。その為、暗躍する感情があった。時には、驕った者の剣が、岩となった男に振り下ろされ、結果、彼女の剣こそが砕け散り、諸刃となり、身体的なダメージとして現れたこともあった。男は空であることが可能なように、石や風に同化した。個人的な願望故に剣を持つものは、非個人的なものに対して斬りつけ、剣を折ることとなった。男の方が、時には剣を抜いたこともあったが、無欲で抜けたときもあれば、欲の匂いがしたこともある。あるいは、目に見えぬ一太刀を振るい、何事もなかったように鞘に収めねばならないこともあった。剣の扱いは、時に女性達を感心させ、双方向の関心を起こさせたが、それも深い水の底で起こったことであり、水面では、それを認めることは当人達にはできなかった。いわば、本源的自然から離れた女達に、男は囲まれており、本来的に授けられている自然の力から離れ、それも文化的な犠牲とも言える状態の、存在の核を失った者達の、自覚なき不安定さが、悲哀の色を、男性的な声で歌い上げている中にあった。存在の不確かさを埋める為に、陽原理で突き進み、結果、大地そのものである肉体に入る亀裂の痛みによってのみ、陰原理に還ることが可能となっている。存在を確固とする為に、周囲の評価に右往左往し、能力的に他者より優れなくてはならない、優越感を持たねば落ち着かない、そのような自我の病に捉われてしまっている。それは肉体の酷使、蔑視につながっている。男が務めたのは、自らの花を自らの剣で切ってしまった者達の中にあって、大地となる任であった。一体、どこに、大地となり、岩となり、風であり続けられる人間がいようか、それは、大変な重荷であった。

女達は、蛇のような無意識を、いや、蛇そのものの意識へと時に変性し、からみつくような、じわりじわりとした動きで、支配的になり、男の自由を奪い、それでいて、男に強さと護りを期待するが、それも蛇の意識のみで、頭に戻れば、自らの地位と優越を誇る自我に安住している。この矛盾、葛藤を意識化できない為、都合の良い時は男の責任とし、自ら責任を担わなければならない場面では、大変な饒舌にならねばならないかのようであった。責任を担わない時は、当然、饒舌であり、担う時は、これもまた饒舌であり、自らの葛藤と矛盾だけは見えない様子であった。時に、彼女達が、人間について、心理について語るとき、自身もまた人間であり、葛藤と矛盾を抱えていることが忘れ去られ、瑣末な細部や、技術や知識の披露に走り、真実を言うに値する人格を持たないために、それは上滑りで、無責任なものとなっていた。人格がなければ、真実を口にするような資格は生じてこない。それは、机で学んで取れる資格とは異なる。多くの人間が、個性を奪われ、集団に飲み込まれるような危機にあって、人々は、人格を希求しており、それは、本人が是非とも得たいものを外側に投影しているのだろう、そのような人格を求めるあがきが、傲慢な、盲目的に上へと向かう姿勢、実際の人格が伴なわない、教科書丸写しの言動で悦に入る低さへと繋がっているのだが、彼女達が饒舌の中に求めている人格は、伝わるものであり、わざわざ伝えるものではない。

蛇達の動きは、その足のない足取りは、生命の発現であり、重要なものであることは確かだが、その本源的自然の悪は、その傲慢さは、男に多くのものを学ばせた。蛇を調教できなければ、それは、人格を創る上で障害として働く。蛇をあまりにも、自らから切り離せば、やがては、それは反転し、蛇に乗っ取られ、会議やその他の場面で、ところかまわず噴出し、ずりずりと大地を這ってまわることになる。蛇と共に生きる姿勢がなければ、その認識がなければ、結局は、蛇に意識を乗っ取られることになる。蛇そのものであっても、これは、人格とは言い難い、それは別の困難を生む。しかしながら、蛇は、生命の源であり、その毒は、解毒剤になる。おそらくは蛇は弱いものであり、それを殺すことはできない。剣を秘儀として封印した中、一体、蛇の眼に囲まれて、どうすればよいのか、長い間、無数の蛇に巻かれて、身動きできない苦痛を耐え忍び、男が見出したのは、笛であった。笛を鳴らし、自ら踊ることで、自らの蛇を操ることが、そのまま、外側に現れる蛇達を踊らせることに繋がっている。男は、剣を封印し、自ら透明な男となり、それも非現実空間ではなく、日常空間の中で、いわば大日如来となり、沈黙を護ったかもしれない、しかし必要なのは、日常空間の中、大日如来であり続けようとするような無理ではなく、大日如来を第三者として、空の中に、その沈黙の中に想定した上で、笛を吹くことであったかもしれない。笛を吹き、踊ることである。笛は、剣に次いで見出した意識化の象徴である。多様な期待が、蛇達から寄せられた。それは、男性原理による、蛇の操縦、調教であった。だとすれば、剣は男性原理を代表し、一つにまとめるものだが、それらは、更に分化させることができる、例えば、笛であり、これは音と踊りによって、動物的衝動を手なづけ、楽しませ、楽しむための器、楽器である。導き方向性を与える指揮棒、護り決断する剣、笛による音楽、ペンによって示される真実、現実管理する時計・鍵である。本能に抗うのは、どんな人間にとっても困難であり、その自然の要請は、おそらく男性に対して、あるいは父に対して、このような要請をせざるを得ないようなところがある。蛇の意識と同化しがちな女達は、逆に言えば、蛇を見失った者達であった。見失っているために、切り離しすぎたために、その補償が、強いものとならざるを得ない。蛇を見出し、調教し、共に歩むものとするという点で、男は、全く同じところにいたと言える。彼女達のやり方は、蛇を遠ざけたつもりでいて、いつかは乗っ取られてしまうやり方で、一つの失敗に見えた。そして、それは男自身にとっても同じことと言える。常に蛇の好きにさせては困難であり、蛇を遠ざけるのも困難を生み、蛇を切り捨ててしまえば、生命が危うい。剣で切っても、遠ざけても、良き生とは思えない。男は、直観的に、あるいは試行錯誤の中から、笛を持とうとした。良い音色の、蛇を眠らせ、踊らせ、落ち着かせる笛を吹くこととした。笛がなければ、自分自身の蛇をうまく調教できず、同時に外側の蛇達を相手にしても、リラックスして踊れるようにはならない。かつては、深い意識が必要に応じてやったことを、今、浅い意識にあっても、自由に取りだせるように、象徴として笛が男の元にもたらされつつある。

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