キクチ・ヒサシ

文化と芸術を言祝ぐ『コトバの塔』

サリンジャー

サリンジャー追悼文(1919-2010)

2016/07/08

サリンジャー

サリンジャーの追悼文を書き始め、その時期が来ていないことを洞察したのは二月だ。現在は七月となっている。喪に服す時期は過ぎ、私の胸は静かになった。机の前に座り、ペンを持つこと。これが、この世界で私が大事にしているものである。この泡のような世界で信じるに足るものは、一つあれば十分である。一つは全てと同じことだ。サリンジャーの短篇の中に「エズミに捧ぐ」という邦題のものがある。主人公は軍隊に所属し、精神的に壊滅し、小さな女の子エズミと喫茶店で戯れる。後日、戦争の後遺症の為に、廃人化したとも取れる彼は、雑然とした机の上からタイプライターを取り出し、旧友へ手紙を書こうとする。サリンジャーがこの一編の小説で、私に書くことの根底を教えた。

サリンジャー ――生涯91年の真実

ケネス・スラウェンスキー 晶文社 2013-08-01
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by ヨメレバ

無意識は、本能はあまりに正直すぎる。あなたは無意識を、非言語をより多く目にすることができた。それは神経がきりきりするような日常を意味する。意識が真実を持つのは、あまりに重い。仏になるか、隠遁生活をするか、瞑想を通り越して、冥府へ足を踏み入れるか。正義を持てば、悪を持つことになる、真実を持てば、嘘を持つことになる。逆も然り。太陽が恵みであり、同時に焼き尽くすものであるように、海が包み込むものであり、呑み込むものでもあるように。あなたが書いた素材は、我々に補償的に響いた。真実が重要視される窒息の中では、嘘が空間をもたらし、嘘という煙の下では真実が杭となる。文章は自由な生命の線となって、すくすくと伸びた。その生命の孤独は、我々に光をもたらし、勇気を与えた。連帯がぬくもりと闇をもたらし、孤独が冷静と光をもたらすかのようだ。時々変にふさぎこんでいる自分を感じる時がある。それらは身体化し、目と指と足の指を襲う。それらは、他人にはわかりにくい不愉快な痛みとして生じる。それは孤独の証であり、傷である。連帯の中に足を踏み入れ、本来的な自己を押さえ込み、円滑な日常を送る中で、どこかが忘れ去られ、そのどこかは強大な力となって、実際に痛みとして身体を襲う。静寂が必要だった。沈黙が必要だった。隠遁したかった。隠遁はもはやできなかった。外的な行動を維持した上で、静寂を確保しなければならなかった。具体的には、ペンを握るか、キーボードの上に手を構え、胸を静かにすること、すなわち書くことである。これしか、この状態を打破することはできない。この状態が、書くことを命じているとも言える。自我は鞍であり、無意識は暴れ馬のようなものだ。この馬は、書くことの味に、その自由に味をしめてしまっている。馬を支配することはできない、鞍と鞭があるだけだ。意識がいくら社会人然とした生活を、普通の生活を望み、努力しようとも、圧倒的な無意識のパワーの前では、身体が言うことを利かない。実際的に頭を殴り、身体を締め付けてくる。このパワーがニーチェを破壊してしまった。サリンジャーをして隠遁させてしまった。隠遁以後、作品を発表しなくなって以後、サリンジャーは既にサリンジャーの肉体からは去っていて、焼き付けた作品は肉体の有無に関わらず生きていた。生きている。こう書くのは、その肉体に出会ったことがないものにとって、風の便りで聞くサリンジャーの生死は夢と同じであり、自分の目で確かめたことはないが、サリンジャーという人物が書いたものを誰かが翻訳したものらしい文章を読む者にとっては、我々の深層に住む馬、別名は神、悪魔、の天啓を読むに等しかった。外的にも、サリンジャーはアメリカの、つまりは私の無意識に属すものであり、その小説を読むのは内的な夢を見るに等しかった。文明は、ある種の世界観を我々に与えているが、人工的な情報をシャットアウトすれば、自分の足で大阪の地図を一から作成することもできない。テレビの中の人は存在しない。おそらく存在するが、自分の目で見たとは言えない。自分の目で見る大切さを説くのは素晴らしいが、他者への信頼の上に、世界観とイメージに頼った、ちょうど夢のような世界を見るに私は終わるだろう。内的な夢がコントロール不能なように、サリンジャーの作品もコントロール不能な、どこかからやってくる私の一つの夢だ。この夢を私は気に入っている。他にも気に入っている人がいて、私はそれらの人と話したことがある。うまく夢を見れずに、疲れ果てたときには、文庫本で持ち運べる、海の向こうの男に落ちた天啓を読むのがいい、夢ほど人に必要なものはなく、我々が意識を発達させて、無意識を締め出す方法を編み出してから、嘘と真実よりも高次なものは、夢の中へ逃げ込んでいってしまった。サリンジャー。偉大な自然の力、落雷となった男の名。

「本当の眠気を覚える人間はだね、いいか、元のような、あらゆる機能がだ、無傷のままの人間に戻る可能性を必ず持っているからね」

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-サリンジャー