キクチ・ヒサシ

文化と芸術を言祝ぐ『コトバの塔』

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「坂田の失恋」(2007)

2016/07/09

坂田が失恋した。
それで正午にカフェで待ち合わせて、二人でビールを飲んだ。
「好きになれば、たいていはダメになってしまう」と坂田は言う。「好きにならなければ、そもそもダメだろ?おれは一生ひとりもんかもな」
わたしは何も言わなかった。ビールを飲み干して、グラスについた泡を眺めた。

「高橋は恋しないの?」と坂田が言う。
「しないよ」とわたしは答えた。
「最低だよ、おまえは」と坂田は言った。
フライドポテトを食べながら、グラスビールを五杯ずつ飲んだ。
明るく話し掛けるのが一番良い接客だと思い込んでいる店員がやってきて、世間話で我々の会話を強制的に中断し、にこやかに去っていく。
「高橋も少しは恋とかしろよ」と坂田は言う。
「わかったよ」とわたしは言って席を立った。

二人で通りを歩いた。外はまだ明るく、春の風が頬に気持ち良かった。
「ほんとに好きだったんだよ高橋。この半年ずっとユキちゃんが好きで好きで、優しく抱き締めたいと思ってたんだよ。でもどうにもならない。おれはユキちゃんが好きで、ユキちゃんは別の男が好きなんだ。なんなんだこれ?なあー、高橋。おれ中学生みたいか?」
「うん」とわたしは言った。
「おれ、生きてる意味あるのかなあ?」と坂田は言う。「誰もおれのことを、おれの存在なんか気にしてないし、いてもいなくても一緒みたいなんだ。そういうのわかる?」
歩道橋の前で簡易椅子に腰掛けた男が、通り過ぎるわたしと坂田を見て、手に持った器具をカチャカチャと鳴らした。
「おい!今何やった?」坂田はそう言って、男の方に向って歩いていく。
「交通量調査です」と男が言った。
「何、勝手に数えてんだよタコ」坂田が言った。
「坂田、やめろよ」とわたしは言った。
「おれの分はカウントから引いとけよ、ボケ」と坂田は言って、男を睨みつけている。
わたしは急いで坂田と男の間に立った。

「別に、適当にかちゃかちゃしてるだけで、あんたなんて特別にカウントなんてしてませんけどね、もともと」と椅子の男が言った。
「はあ?コロスぞ、おまえ」と坂田が言う。
わたしは坂田の両肩を掴んで押す。「坂田やめろ」
「つーか自己愛、強すぎでしょアンタ。うざいわ」椅子の男の声が背後から聞こえる。
わたしは振り返って、男の顔を見る。それから、わたしは男の顔面を右手の拳で思い切り殴りつけていた。男は椅子ごと後ろに倒れる。もうどうでもいい。倒れた男の脇腹をスニーカーの先で二度、蹴りつけた。
「高橋、もうやめろ!」と坂田がわたしの腕を引っ張る。
二人で走って逃げながら坂田は何度も訊いた。
「なんで殴ったんだ?なー高橋。何で殴ったんだ?」
坂田は嬉しそうに見えた。

(2007)

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