キクチ・ヒサシ

文化と芸術を言祝ぐ『コトバの塔』

ショートストーリー(無料)

「川端康成文学館とピカソと楽譜」(2007)

2016/07/09

川端康成文学館

文学館に入ると年配の女が1人座っていた。足元に電気ストーブを置き、膝には毛布をかけていた。「茨木市民の方ですか?」と女は言った。「はい」と私は言った。
それで私は無料で館内を見ていいことになった。
全てを見終わった後、備えつけのノートに名前と住所を書いた。見守っていた女が言った。「茨木市民じゃないんですか?」
「ノーベル賞作家のことです。どこの市民とかの問題ではないでしょう」と私は言った。
「ノーベル賞とかどうでもいいんです。お金を払ってください」と女は言った。
「わかりました。お金を払います」と私は言った。「ただし、あなたに払うわけじゃないのはわかりますよね?」
私は走って文学館を出た。女は毛布を手に追いかけてきた。立ち止まり、走ってきた年配の女を腕の中に抱き締める。
「もう大丈夫だよ。つかまえた」と私は言った。
二人で川端通り沿いの川に行き、私は財布の中の金を川に投げ捨てるのを女に見せた。札は流れて、硬貨は沈んだ。
「見てごらん。ぼくのお金の行き先を」と私は言った。
女は泣いた。

 

ピカソ

国立国際美術館で「ピカソの版画と陶芸」を見ていた。
突然、鼻の高い男が入ってきて私を指さした。少なくとも私の方は指さした。
「おい、少しの赤と青、それからちょっとの黄色と茶色。それでおしゃれなつもりか?」
男はあさっての方向に目玉を向けて、体はこっちを向いている。
「芸術家きどりか?特別な感性をもっていて服装に表現したとか、そういうのか?笑わせるなよ」
私のことではないようだったが、耳障りな声だった。
「お前だよ。お前、タコ。緑と黄色の組み合わせに心酔か?」と男は言った。「いいか?よく聞けよ。おれはシキモウなんだよ。分かったか。お前の色なんか見えねーんだよ。はあ?なんだやるのかコラ?」そう言って、ピカソの「ランプの下の静物」に向っていった男を警備員が後ろから掴みかかって、床に引き倒した。警備員は暴れる男の手首を両腕でねじ上げた。

ピカソをひとまず置いて、皆が彼らを取り囲んで注視している。
暴れて起き上がろうとした男の鼻が豚の鼻のようになって壁をずり落ちた時、その場にいた人達に笑いが広がった。警備員は正当性を勝ち得たおごりからか、今度は男の鼻を床に二度叩きつけた。男の鼻から血が流れて床に染まった。「あらー」と誰かが言った。

もう終わりだと思った時、男が警備員の顔面に頭突きをした。警備員は任務も我も忘れた動物的な目で男の顔をこぶしで殴りつけ、ヘッドロッキングした。その時、床に仰向けになって男の頭を締め付けている警備員の下半身、特に股間が妙に大きく膨らんでいるのに誰もが気付いた。元来のサイズなのか、盛り上がりを見せているのか判別しなかったが、それとなく皆の視線が警備員の股間にいっているようだった。「すごいことになったね」と誰かが言った。

 

楽譜

仕事で疲れていた。
金曜日の夜でアパートに帰るのも虚しく、かといって行く場所もなかった。結局、アパートの近くに最近できた沖縄風居酒屋に入った。カウンターは常連客で占められていて、わたしは座敷に一人案内された。

座敷には十人は座れる縦長のテーブルが三つ配置されていて、垣根なく客同士が交流できるような開放的な雰囲気があった。
左奥のテーブルに座り、ビールとゴーヤちゃんぷると海ぶどうを注文した。テーブルの真ん中に並べられている貝殻を眺め、壁に吊るされた沖縄の民族衣装を眺め、ビールを飲んだ。
一番向こうのテーブルには二人の男が肩を寄せ合って、煙草を吸っていた。真ん中のテーブルにはまだ誰もいなかった。

四杯飲み、ようやく仕事のことを忘れ始めた頃、スキンヘッドの壮年の男が真ん中のテーブルに座った。三味線を右手に、ビールのジョッキを左手にしていた。
沖縄民謡を弾き始めるのだな、とわたしは思ったが、男はビールを飲んでいるばかりだった。しばらくして男は立ち上がり、わたしのテーブルにやってきた。
「これが楽譜です」とスキンヘッドの男は言い、五冊ほどの楽譜をテーブルの上に置いた。
「へー、これが楽譜ですか」とわたしは言った。

それから三味線の弾き方を教え込まれて、それが戯れに終わり、リクエストを問うので「なだそうそう」をあげると、なぜか別の民謡を男は弾き語り、やがて民謡を一緒に歌えと楽譜を指さすのだったが、どの民謡もわたしの知らない曲なので男の声に半歩遅れてついていく苦行のようなひとときが延々と続き、ビールを飲まずにはやってられない気持ちになるのだった。

店員に声をかけてビールのおかわりを頼み、冷えきったゴーヤちゃんぷるを食べることで、民謡と男からしばし逃れた。少々強引だが、悪い人ではないのだし、滅多にない沖縄文化に触れる機会をもう少し楽しもうじゃないか、広い心で、なあコウタよ、とわたしは自分の名を優しく心で呼び、店員が持ってきたビールを一気に飲み干して、そのまま空のジョッキを店員の手につかませて、おかわりを頼んだ。民謡にノルかのように頭を揺すって見せている自分が恥ずかしかった。

その時、若い女の二人組みが真ん中のテーブルに座った。太ももと腕を丸出しにしている。スキンヘッドの男が民謡をいきなり中断して、三味線を手に真ん中のテーブルに移動した。一言もなく「なだそうそう」を弾き語り始める。女達は目を輝かせて一緒に歌い出す。わたしはビールを飲みながら、その光景を眺めている。
これで良かったんだ、と自分に言い聞かせるが、何かが釈然としなかった。
歌が一通り終わると、スキンヘッドと女達は沖縄出身という共通点で会話を盛り上げて、身を寄せ合っていた。
そうした光景を眺めながら何杯かビールを飲んでいた時、わたしはジョッキを誤って倒してしまった。ビールがテーブルの上を波のように滑っていった。
「やっちまった。すみませんタオルください」
とわたしはカウンターの店員に向って言う。
「おい!なにやってるんだ」
スキンヘッドがわたしのテーブルにやってくる。
見ると、テーブルに並べられたままになっていた彼の楽譜がビールで濡れていた。
「ふざけるなよ。大事な楽譜が台無しだろうが!」とスキンヘッド。
「お前が無理やり、おれに民謡とか歌わせるからこういうことになるんだろうが」とわたしは言った。
「なんだと?」男は三味線を警棒か何かのように握り締めて、わたしを睨みつける。
「沖縄沖縄っていうけど、ここは東京だ。故郷を懐かしむのもいいけど、そろそろ大人になったら?この沖縄マニアが」
「おれのことはいい、好きなだけ言うがいい。だが沖縄を悪く言うのは許さないぞ」
スキンヘッドは三味線を両手で掴むと、わたしの頭めがけて振り下ろしてくる。わたしは頭を傾けて避けたが、避けきれず右肩に三味線のボディが思い切り食い込む。三味線のネックがぽっきりと折れ、蛇皮のボディが落下し、テーブルの上で水しぶきをあげる。
「三味線に謝れ」とスキンヘッドが言った。
「謝って済むことと、済まないこととあるだろうが」とわたしは言った。「さっき若い女をへんな目で見てたくせに、このすけべが」
「えーうそぅ!」と二人組みの女達が喜びの声をあげる。
「若い女って誰のことよ?」カウンターから胸の谷間をたっぷり見せている年増の女が歩いてくる。
とにかく、この混乱をうまく収めて、楽譜と三味線の弁償をしなくても良い方向にしなければならない。スキンヘッドがビールをこぼしたという方向に持っていければ、なおいい。

(2007)

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