キクチ・ヒサシ

文化と芸術を言祝ぐ『コトバの塔』

ドストエフスキー

ドストエフスキー「白夜」(1848)人類全体で育てているイメージの世界

2016/07/09

ドストエフスキーの「白夜」(Белые ночи)を読んで、しばらく経ったので何か書こうと思っています。最近、このブログのアクセスがどういう訳か増えてきました。気ままに、誰も読んでいないというくらいの感じで書き飛ばしていたので、更新頻度に不平を言ってくれる人がいるなんて思いもしなかったのです。あなたに、わたしはお会いしていませんが、こうして今もお会いしているとも言えます。あなたにはマウスを右手に掴んだまま、頭を垂れるわたしの姿がありありと見えるはずです。共に端末の光で通じ合い、語り合い、チョコレートを齧ったり、目覚めのコーヒーや紅茶を共にしたこともありましたね。幻想だ。空想だ、と切って捨てる方もいると聞いています。でも、あの共に聞いたキーボードの音、スマートフォンを片手に食べたチョコレートの匂い、夜更けに、朝方にわたし達が語りあったことが全て嘘だと誰にいえましょう?有限といわれる時間を使い、束の間の人生という乗り物の中に閉じ込められたわたし達が、光の中で、さあ電気を消してごらんなさい、今、端末の光の中で溶け合っているではありませんか。これが、アパートの外を靴音を高くして歩き回り、挨拶をしてもそそくさと目を伏せて逃げていく隣人達との関係よりも劣ると言えるでしょうか?本来の光の中でこうして交じり合い、見詰め合っているわたし達がです!わたしはもうすぐパソコンの電源を落とします。おやすみの時間です。でもあなたと今日語り合ったことが空想で、実際には存在しないなどと誰に言えましょう。いいえ、わたしはあなたに会っているのです。でなければ、人生の雷雲風雨について生真面目に語り合い、結局は笑い合いながらコーヒーをすすったわたし達の日々はどこに行ってしまったというのでしょう?

と、ドストエフスキーの「白夜」を読んで、真似してみた。小説の中で、フィクション、つまりは空想を書くということ、空想とは何かということを問うているような気がした。幻想の女、つまりは小説内の女であるはずなのに、確かに彼女は存在したような気がする。だから主人公は彼女を失い、下宿に戻るが、それは確かにあったことに感じる、心的現実がむしろ人間の心に必要な滋養を、我々が「現実」と呼ぶ日々よりも強固に示すこともありうるし、人間にとっての現実とは、太陽の光によって照らされた事物の姿だけでなく、我々が内側で照らしたものをも含むのが本当のリアルのような気がしてきた。目に見えないものを、人間全体で育てているような気がする。偉大な小説の世界に深く入り込んでいる時、普段よりも一つ深い階層の中に自分がいるような感じ。どこか魂の世界でもめぐっているような気さえする。フィクション、小説、嘘話だと、いくら前提をしても、人々は自分の希望や信念や常識から逸脱した小説を受け入れることが難しかったりする。本気で怒ったり泣いたり笑ったりもする。「え?これ小説なんだけど?」それが言葉の世界であるというのに、むしろ言葉だけだからこそ強い影響力を持つ。疑いようもなく言えるのは、生きた言葉は霊感の世界にある。科学で解明できないことがあると言われるとムキになって、不安からか盲目的に科学を擁護しようとする非科学的な人々もまた、霊感の世界に生きている。純粋科学の先端者は芸術家によく似ているが、巷の科学信仰というのは正に宗教であり、一つの物語、広く共有された一つの「現実」でしかない。この世は不思議な場所だ、と映画でよく出てくるのは、デヴィッド・リンチだけど、彼の「インランド・エンパイア」をまたまた借りてきて見たのだが、女が男を抱きしめて、はっとするとその男はいなくなっていて、一人で空中を抱きしめているシーン。これは黒沢清の「叫」でも同様のシーンがある。こういうのは「白夜」と同じだ。存在するということの不思議で、背筋が凍りつくような体験。今、目の前にいる人がぱっと消える。確かに我々は誰もがぱっと消えていく。小説の終わりのページをめくった後のように。一体、我々こそ存在しているのか?もう一度前から、一行目から読みたい。今から私はぱっと消えます。パソコンの電源を落とし、歯を磨き、熱い緑茶を二杯飲んだ後で、ベッドに入り、中上健次の「枯木灘」を読みながら、次第に目が霞んでいくでしょう。でも寂しくないよ。もう一度、一行目に戻れば、きっと会えるから。じゃあね、おやすみ。

(2009)

-ドストエフスキー