キクチ・ヒサシ

文化と芸術を言祝ぐ『コトバの塔』

小説・物語

『星の3連単』

2019/01/20

 

***

 

「突風が吹き、黄金の王が、偉大な無意識の力に至る」という言葉の連なり、というよりも実際には、音声としてわたしの耳に入ってきたのだが、ぶっちゃけ、何を言っているのか、そのときはわからなかった。言い訳かもしれないが、人生が思いがけない出来事の連続であり、偶然や運命や縁というものが存在することを知ってはいても、それは後から振り返るときにそう言えるのであって、瞬間の連続の中を泳ぎ続けるわたしたちに、前もって何かを知ることが出来るとは今でも思えないのだ。例年に比べて、暖かい冬で、12月23日とは思えなかったが、コンビニ店員はサンタクロースの衣装をまとい、チキンの予約を呼びかけていたし、静かな住宅街では、午前中の曇り空の下、玄関前のツリーが光の点滅を待ちわびているのを眺めることが出来たし、物干し竿の靴下さえ、プレゼントを待ってぶら下がっているかのように、見ようとすれば見えないこともない。そういう中をわたしは歩いていた。特に用事があるわけではなかったが、住宅街を抜け、川に出ると橋の上から鴨を眺め、スーパーの賑わいを横目に、細道を下っていくと、カフェが目に入った。これが今回の偶然ということになる。

 

1

 

白い二階建ての、どことなく手作り感のあるカフェに入ると、ドアの近くの席に腰掛け、モーニングセットを頼んだ。女店主は、緑に囲まれた空き家を思わせる、人の好さそうな顔をしていた。テーブル席が五つほどあり、常連客が数人いた。わたしの隣席には、サングラスをした白髪のじいさんがいて、暇そうに水を飲んでいた。数分後に、キャップを被ったじいさんが店に入ってきて、サングラスの前に座った。サングラスは、活気のある声で、「おう」と言った。「またパチンコ屋行って、おしぼり取ってきたんか」キャップじいさんの手にはおしぼりが握られていた。「おお、行ってきたよ」とキャップが言った。「寝てたんか」とサングラスが質問した。時刻は、10時30分だった。「一睡もしてねえ」とキャップじいさん。「そうか」とサングラスは答えて、水を飲んだ。「パン食うか?」「え?」「パン食べるかって聞いてるの」「食べるよ、パン」それで、サングラスが二人分のモーニングセットを頼んだ。わたしは、店の入り口に寄せ集められた観葉植物を眺め、壁にかけてある電車の写真を眺め、きのこ全集と銭湯百科を手に取り、ページをめくった。女店主は、カウンターキッチンと言える場所で、何か奮闘しているようだったが、コーヒーとモーニングセットは、11時になっても出てくる気配はなかった。「今日、聖なる日だったな」とキャップが言った。「クリスマスちゃうわ、有馬記念だわ」とサングラス。「だから聖なる日だろうが」とキャップじいさん。笑っているのか、咳き込んでいるのかわからない音が二人の口から鳴った後、「10万全部使ったんか」とサングラスが言った。「いや、そんなに持ってねえ。3万3千円は買う予定だけどな」「あっそう」競馬新聞を広げて、二人がお互いの遠い耳に音を送り込もうとする中、馬はよく無意識に例えられる、とふと考えた。そして、わたしは目を閉じた。馬の名前についてのじいさんのやりとりが徐々に聞こえなくなり、仕事の疲れだろう、肩に若干の凝りがあるのを感じ始める。しかし、まぶたの裏側は、やさしい休息所のようで、ふるさとにある懐かしい一室に座っている心地がした。少年時代にも、こんな風にまぶたの裏側に座していたことがあったような気がした。不思議なものだな、と思った。過去を思うと、まるで夢のようだ。今、わたしはどこにいるのか、どこにいてもこうしていると同じことみたいだ。名のあるどこかにいて、時計の針を視野に入れているのが、意識生活の疲れなのだろう、と夢心地になったのまでは覚えている。羊を数えながら、眠りを待った子供の頃、何匹目で眠ったのかを目覚めた後で思い起こそうとしても、記憶がはっきりせず、暗闇の中に、何匹かの羊が姿を消していった。そのときと同じように、闇の中に、いくつかの羊が落ちていった。再び意識が戻ったとき、カフェのじいさんが、キッチンカウンターに顔を突っ込んで、「ねえちゃん、ねえちゃん」と大声で繰り返していた。「どうしたんですか」とわたしはサングラスじいさんに聞いた。「いや、ねえちゃんがいなくなって」「どういうことですか」「いや、店のねえちゃんだよ」意味がわからないまま、わたしは立ち上がり、キッチンカウンターを横から覗いたが誰もいなかった。奥の席には、年配の常連客たちが驚いたような顔をして各々立ち上がっていた。トイレの戸をわたしはノックしたが、返答はなく、ドアノブがまわって、中には、便器があるだけだった。「何か、材料でも買いに出て行ったのかな?」とわたしは言った。「いや、出るときは鈴がなるし、何も言わないで店を出るなんてことは、これまで一度もなかったわよ」と濃い口紅を塗ったおばさんが言った。常連客は、誰も、彼女が店を出たのを見ていないと言った。それどころか、店の入り口付近の席に座るわたしが一番わかるはずだと咎めるような雰囲気でさえあった。「わたしはうとうとしていましたので」「じゃあ、彼女はどこに行ったのよ?」「わたしに聞かれてもわかりませんよ」「じゃあ誰に聞けばいいのよ」「そういう問題じゃなくて」「どういう問題なのよ」と口紅が詰め寄ってくる。不安なのか興奮なのか、言葉尻に必死にしがみつこうという気配だ。「落ち着いてください」わたしは、もう一度、部屋を見回した。トイレの横に、階段があり、上階に続いているのを確認する。「これ、どう考えても、二階に何か物を取りに行っているんでしょう」とわたしは言った。「30分もか?しかも、階段上がる音に俺たちが気付かないとでも言うのか、まあまあ若い兄ちゃんよ?」時計を見ると11時30分を過ぎていた。思った以上に時間が経っていることに驚きつつ、「まあまあ若いとか、中途半端な言い方はやめてください」と答えている。「とにかく、もう少し待ってみましょう」とわたしは言った。「倒れているんじゃない?」と口紅が叫んだ。「まさか!」とキャップが言う。「声が大きいです、落ち着いて」「ちょっと上に行ってみようか。このままじゃあれだし」とサングラスが言いながら、わたしの方に視線を向けてくる。「若いの、手伝ってくれないか、わしらだけじゃ、ねえちゃんを担ぐことも出来んしのう」「マジですか。倒れていると決まったわけじゃないし、人の家ですよ。それに、若いとも言えないですよ、わたし」「このわかもんが!」とキャップが怒鳴った。「うるさい、うるさい」

 

2

 

わたしが先頭に、サングラスじいさんとキャップじいさんにも後ろからついてきてもらうことで落ち着いた。人の家の二階に上がるのは、気が進まなかったが、昼を目前にモーニングセットを待つ状況で店主が姿を消してしまった今、他の選択肢を思い浮かべることは出来なかったし、じいさんという目撃者を引き連れて、己の身の潔白は担保されている状況で、微かな興奮、何かおかしなことに巻き込まれている、普通ではない、何かの渦中にあるのだという心の喜びが抑えられるはずもなく、今思えば、少し気が変になっていたのだろう。すみません、大丈夫ですか、倒れてませんか、などと声を出しながら、階段を上がっていった。二階には二部屋あり、ひとつは寝室で、ベッドがあり、パジャマが枕の上で脱ぎ捨てられている。衣装ケースやカーテンレールにかかったコートなどが目に入ったが、取り立てて変わったところはない。もうひとつは、六畳の和室で、不思議なほど物がひとつもなく、押し入れと締め切ったカーテンがあるだけで、薄暗かった。「いませんね。どこいったんでしょうね。ちょっと押さないでください」じいさん二人が、わたしの背中に手をやって、わたしの身体を盾にして前に進もうとするように体重をのせてくる。「押し入れの中じゃないか」「そんな訳ないでしょう、重たいんで手をのせないでください」「若いの、確かめてみよう」じいさんがわたしの口元に向かって言うので、変わった草と腐った卵が混ざったような臭いがして、わたしは咳き込んだ。「押し入れを確認したら下りますからね」押し入れを開けると、二段と予期していたのは間違いで、縦にも横にも仕切りのない暗闇が部屋に漏れ出したように感じたとき、後ろからわたしの身体を強く押されて、わたしは暗闇の中に押し込まれ、戸が閉められ、瞬時に鍵がかかったような音が続いた。完全な暗闇の中で、急いで戸を開けようしたが、全く動かない。「ちょっと、ふざけんなよ、じじい!」戸を叩いて、叫んだ。「じじい、いいかげんにしろよ。てめえら、あほみたいな国をつくりやがって!その上、なんだ、この仕打ちは」どれだけ叩いても、叫んでも返答ひとつなく、手をすりむいて血が出ているのか汗なのか、ぬるりとした感覚があり、じんじんと手が痛んだ。一体何なんだこれは。完全な黒の闇の中で呼吸していると、気が狂ってしまいそうだった。わたしは目を閉じた。そうしていれば、少なくとも、闇から離れて、まぶたの裏に入り込んでいくことが出来る。自然と座り込み、膝を抱いていた。理解出来ない状況を考えるのを止め、現実逃避するように、自分を休ませようとするかのように、ふるさとの一室にいることを念じた。どれくらいの時間が経ったのかわからなかった。時間の意味も、どこかの空間に在るという意識も消失し、確かめようのない、絶対零度の孤独の中で、深い闇の中を漂っていた。寒さが存在を包んでいたが、寒いわけではなく、ただ、しんとして、闇の一部となって、時間と空間の土台の中にある、と感じた。星空の背景の黒の中に、自分はいるのだと思う。もしかしたら、相当な時間が過ぎて、わたしは死んでしまったのかもしれない。青い星の、小さな島の小さなカフェで、遠い昔に餓死した男の死体が、押し入れから出てきたのは、もはや10000年前で、誰もそれを憶えてはいないだろう。七色に光るトンネルのようなものが、眼前でまわり始める。何が起こっているのか、もうわからないが、トンネルを潜り抜けて、どこか広い所に流れていくようだ。瞬きするように点滅したピンク色の光が、女なのだとすぐにわかった。「大丈夫よ」と女は言った。「あなたは護られているわ。黄金の光の意味することの意味の前、無意味を産む意味の後の星屑、全宇宙に差し込む光の自由な龍動が、あなたを駆け巡る星座となって運行していくの。考えないで。あなたはこの世界のはじまりとおわりを兼ねる闇に完全に護られているわ。わかろうとしないで。どの空間でも、どの時でも、あたしのことを探して。永遠という言葉に、あたしを見つけて。その言葉が指し示す意味の、現在の中に、ずっと一緒にいるわ」女は、光の渦の中に、溶け込んでいく。光の輝きはより強くなり、見てはいけないものを思わせた。これまでの人類すべての生命が集合したかのような、光の輪の重層の中をわたしは流れていく、小さな舟にわたしは身体を横たえて、その強大なエネルギーに流され、その力と舟との間で、圧し潰されるのではないかと懸念していたのまでは覚えている。そのあとには、草原を強風に抗って女と共に歩いていた。強烈な台風のようで、風が、木を根本から掘り起こして、倒してしまうほどだった。このまま前に進むか他の道をとるかを、わたしは思案していた。思案の中で、黄金色に光った男が、座禅を組んでいるのが見える。男の後ろに伸びた黒い影が、山のように大きく、影はなおも伸びていき、何か偉大な力を、密かに世界に放っているように見えた。そして、突然、幼いときの、ふるさとの一室に自分がいるのだとわかった。それは、暗い押し入れの中だった。そこにわたしは閉じ込められている。女の声が微かに聞こえた。開け放つことまではしない。しかし、女は、何度も呪文のように、わたしを支えるかのように、言葉を繰り返した。小さな声だ。わたしを励ます言葉に違いない。ずっと昔、ふるさとで、何度も何度も、わたしのために、この言葉が繰り返されて、護られてきたのを、悟る。それは、わたしを庇護するために、女が持ってきた光だった。何も心配しなくていいのよ、その暗闇の中にいることも、すべては、「突風が吹き、黄金の王が、偉大な無意識の力に至る」ことの一部よ、大いなる星座を描くための、ひとつの星なのよ、と。

 

3

 

何匹まで数えたのか、思い出せない羊たちが、闇の中に落ちて、わたしが顔を上げたとき、モーニングセットとコーヒーがテーブルの上に運ばれてきた。女店主は、にっこりと笑って、「遅くなってすみません」と言った。横に目をやると、サングラスとキャップが競馬新聞を広げて、馬名の由来や意味をひとつひとつ確認していった。ブラストワンピースが突風を意味し、シュヴァルグランが偉大な馬の意味で、レイデオロが黄金の王で、といった具合に。「俺、決めたわ」とキャップが言った。「3連単で、ブラストワンピース、レイデオロ、シュヴァルグランの着順で3万3千買うわ」「パチンコも有馬記念も勝ったためしなし」とサングラスが笑った。「これも人生、2018年総決算、聖なる日はどないかな」「クリスマスは明日やで」「わかっとるわい」翌日、わたしは、すべてのものが、光輝く渦となっていたヴィジョンを夢のように思い起こし、何かを忘れているような気がしたが、一人で意味もわからず微笑み、それからイヴの街に繰り出したのだが、夢そのもののように街は光に包まれていて、それはつくりもののイルミネーションなどではなく、むしろ真実の姿が表現されているのだという気がして仕方がなかった。

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