キクチ・ヒサシ

文化と芸術を言祝ぐ『コトバの塔』

黒澤明

黒澤明「わが青春に悔なし」(1946)顧みて悔いのない生活に目覚め、他者評価を超えていく強い女性像(原節子主演)

黒澤明「わが青春に悔なし」には原節子が出ている。昨年、この世を旅立った、伝説の女優として、数々の男性に永遠の女性像を投影されたひとで、想像するだけでも大変な生涯であり、生命が与える職務の厳しさを思う。黒澤明は、この原節子演じる一人の女性の弱さと強さを描いていて、前半と後半の人物像の変化が凄まじい。この映画の様々な事情で、後半のストーリーを変化せざるを得なかったとか、色々あるらしいのだが、それらも超えて、人間が変化する、ということを強く描いていて、その前半と後半の人物像の違いが面白い。黒澤明の本来の意図がどうであったかはわからないが、この2016年にわたしというメガネを通して観たこの映画は、生き方に関する、そして生き方によって変化する人間の姿を描いたものとして、心にのこる。それは強い表現なので、この映画が嫌だという方もいると想像する。現代人の生活とは、お嬢様のような前半の原節子の生活なのだから。それを破壊して真実を突きつけるようなところがあるから。

「わが青春に悔なし」に主演する、原節子の美しい変化

原節子演じるお嬢様は、前半にとてもぶりっ子な演技をしていて、観ているこちらが恥ずかしくなって、こんな演技ではちょっとな、と思うのだが、後半に別人のように土と共に生き、畑を耕し、田植えをする泥だらけの強い女性である原節子を観ると、やられたな、と思う。前半のお嬢様ぶりっ子があってこそ、後半に泥まみれで土着の民のような外見となり強い女性として生きている姿が際立ってくるのだった。そして、後半の土と共に生きる原節子の剥き出しの人間として立っている姿が、美しい。それは美貌からくるものではなく、生きる姿勢、佇まいが生む、知性の輝きだった。生命の光をまとった美しさだった。

黒澤明「生きる」と同テーマを持つ「わが青春に悔なし」

「わが青春に悔なし」を観ていると思い出すのだが、「風と共に去りぬ」という映画がある。同名小説を原作としていて有名で、1930年代に公開されていて、南北戦争を舞台に力のある映画だったが、日本公開は、1950年代だと言う。黒澤明が「わが青春に悔なし」撮影当時に「風と共に去りぬ」を観ることが出来たのかどうかわからないが、受ける印象は近いものがあった。お嬢様が時代に翻弄される中で、生命力が前面に現れてきて、全く強い女性像が立ち上がってくるラストの感触が、そう感じさせる。「風と共に去りぬ」では、ヒロインが大根か何かにかじりついているようなシーンがなかっただろうか、忘れてしまったが、イメージとしては、南北戦争によって翻弄され、崩壊した世界の荒野で、もはや大きな豪邸もない、全てを失ったかに見えるお嬢様が、強く立ち上がり、土から採った大根か何かにかじりつくような、そんなイメージが残っているのだ。わたしの勘違いかもしれない。誰かよく知っている人は教えてください。「わが青春に悔なし」もわたしの中では、同形のイメージであり、大学の偉い先生のお嬢様であった原節子が、徐々に、そのぶりっ子をした生活、ピアノを弾いたり、男子学生と戯れたりしていたのが、悔いなしの生活を志して、つまり生きない生活ではなく、生きる生活を求めて、農民の価値を高める運動の指導者になっていくというような感じで、この映画には、いずれ黒澤明が「生きる」を撮ることになるのを納得させる、表現者の核のようなものが既にあり、全く黒澤明だな、という感触がある。

「わが青春に悔なし」の感想:社会の影が個人の心に噴き出す、宿った命に従う道、現代社会で悔いなしに生きる

映画の中で、社会を変革する活動をしようとする男と世間に迎合する男と二人のタイプが出てきて、原節子は、その両方に挟まれて、お嬢様として学生時代を生きる。社会を変革しようとすることが危険な行為であるのは、社会を構成する人間が、当然、自らの生活の地位や安定を重視するのだから、社会のほとんどの人間を敵に回すことになるからなのだが、その活動が成功した場合には、その成功して建設された社会の方に、ほとんどの人が当たり前のように追随して、自らの態度の変化や変更に罪悪感を持たない。アメリカに敗れて占領された日本人が、アメリカ的な生活をして疑問にも思わないというようなことは、より広い視点では、物質主義、科学文明が、やはり広く人類にもたらされる必要があった、時代の制約で一種残虐な形にならざるを得なかった統一への過程としての闘争だったのだろう。別の形式が必要なのは当然であるが、やむなくそういう形を取る、深層に住む、わたしたち人間を動かす物の怪の仕業だろう。かといって、人為的な社会空間を創った以上、人為的努力を手放すことは出来ないが。人間とは不可思議なところがある。長いものに巻かれようとする世間の動きというのは、生存のための、ほぼ元型とも呼ぶべき態度なのだろう。別の視点では、集団心理の影が誰かの元に噴き出すのだろう。その人物は芸術家かもしれないし、宗教家かもしれないし、活動家かもしれない。それは、抑圧されて溜まった集団的影の現れであり、誰かの元にそれは噴き出してしまう。そしてその影が統合されれば、その時点の光と影が結びつけば、より社会は拡大することになる。その為の生贄であり、それが成功した場合には、英雄となるだろうし、そうならない場合は投獄されることは歴史の示すとおりである。結局は、集団の利益になっているわけだから、変化が全体に承認された後で、集団はそれについていく。そして、そのような変化を起こしたことは、彼らには意識できなくとも、深層心理的には、彼らが望んでいたことでもあり、人間というのは、わたしたちには、別々の個体として見えるが、全く違う生命から見ると、まさしく一つの数珠つなぎのようなものなのだろう。黒沢明の「わが青春に悔なし」でも、投獄されて死去する男の社会活動は、時代の流行を超えて俯瞰して見れば、自らの頭で考えて行動した素晴らしい人間性の現れであったのだと思う。しかし、いつの世でも突き抜けることは、危険と隣り合わせである、しかし、悔いなしの生活は、彼の生命は、彼をそのように使役した、ということだろう。浅い見方をすると、社会を変革しようとする男が後悔なく生きて、社会に迎合している男が後悔ありで生きているように見える。しかし、一日という中で、人間が真に生きるということは可能である。それは、何らかのスローガンや大きな目標などなくとも可能である。悔いなしの生活を試みることは可能である。ただ好きなことを探して、好きなことに没頭さえ出来れば、誰でもそれが出来る。その為に、色々なハードルがある、障壁がある、向かい風がある。しかし、人間の力とは驚くべきものである。一度、自らに与えられた生命の使い道が明確になると、信じられないほどの強固さを獲得する。もはやどのような雑音も耳に入らない。他人の評価、賞賛も批判も彼にとっては意味を持たない。社会的な評価、世俗的な価値など、既に狭苦しく、そこに乗っていく必要もない。ただ、静かに、自らに与えられた生命が好むところに従って、淡々と静かにそれをやるだけなのだ。彼には、この星の最大の富である「現在」がついているのだ。親や先生であっても外部の言うことに翻弄されてはならない。大いなる生命が彼の生きる道を示すのだから。命令、つまり命が下す令を遮ることより悪いことなどないのだから。このことを親鸞は、阿弥陀様のハタラキを遮ることよりも悪いことはない、他力を遮ることよりも悪いことなどないのだから、悪人も救われるし、そのような分別を超えて、ただ大いなる命をイメージせよ、と言ったのだとわたしは思う。大いなる命のイメージが、念仏の意味するところだろう。他人であろうが自分であろうが、頭で考えたことよりも、命が腹の底から示すことの方が常に最善であり、それが天なのだから。天命と共に在ることは、人を強くする。なぜなら、生命の根源と共に在るということなのだから。

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