キクチ・ヒサシ

文化と芸術を言祝ぐ『コトバの塔』

コトバの塔

男と女がひとつになる夢

2017/07/30

何かが足りないのよ、と女の声が聞こえた。その声は、心なのか身体なのかわからないが、わたしの中に水のように浸透してくる。静かな声が、わたしをピンと弾く。まるでわたしが楽器で、それも核心的なキーを彼女が探り出して弾いたような、押したような、それとも、彼女の音に対して、わたしの中の音が共鳴しているのか、実感としては何一つ遮るものなく、直接にわたしの水に、彼女の水が流れ込んでくるかのようで、こういうときは、顔を上げれば女が立っているに違いなく、わたしは今度も顔を上げれば良かった。

顔を上げると、長い黒髪をした女が立っているのが見える。おでこが広く、額が光っている。服はゆったりとした黒い色の上下であることまでは見て取れたが、細部まではよくわからない。把握できないという感じだ。

「あなたは何ですか?」とわたしは言った。

「私の方が聞きたいわ。あなた何なの?」と女は言った。

間が空く。見つめ合いながら、わたしが一瞬の間に感じていることは、集団で暮らす中でよく見る、儀礼的な無関心を示すしぐさや、感情を死なせることによって、人間関係から距離を置くことによって、集合で生き延びるための身振り、そのような一切のベールが取られて、男と女が向き合っている、ということだった。時空が引き裂かれて、隠されていた真実の光が、二人を包み込んでいて、それが夢なのか、普段の方こそが夢なのか、どう言えばいいのかわからないが、世界が反転し、何万人が同じ場所にいて、なぜか二人だけが目が合って、他の人々は一切目に入らずに通り過ぎていく、といった風なのだ。

「わたしは光と共に在る者です。いや光によって動かされている者です。というよりも、全ての者とは、光の現れであると言いたいような気持ちがする」

「わかりにくいわね。結局何なの?」と女は唇を尖らせている。

「ではこう言いましょう。光と共に遊ぶ者です。今度はあなたの番です」

「あなたのような言い方をするのなら、躍動する者よ」と女は言って、笑った。

「自由に動いて喜びに満ちている者、それがあなたなのですね。あなたが素晴らしいということがわたしにわかります」

「あなたがそうなんじゃないかと思ったのよ」

「わたしはあなたがそうなんじゃないかと思っていました」

「こういうのを出会いと呼ぶのかしら」

彼女は黒の服に身を包み、額が光っていて、その声は静かなのに、わたしの胸に響き渡る。鋭い感性を持っており、恐ろしいと感じる。石化しておらず、躍動している。美形というわけではないが、静かな美を感じさせる。そして、前にも会ったことがあるような、いつか黒々と燃える影の中にいたのが彼女だったような、いや、この思考を超えて、ただわかるのだった。顔をしっかりと上げたときに現れるのが彼女だった。

「あなたはわたしに何を求めているのですか」とわたしは言った。

「話してみたいと思ったのよ。私には何かが足りないように思えるの。あなたには何か未知なものがあって、強く惹きつけられる」

「それは、わたしが言いたいことです。どうもさっきからおかしい。わたしもあなたと話してみたいと思ったのですよ」

「恥ずかしいわ」と女は言い、頬が赤くなっているようだ。

「そうです。恥かしいような気持ちにさえなります、でも、あなたはとても美しい」

「はっきり言うのね」と女は俯く。「ねえ、あなたはいつも白い服を着ているわね」

わたしは、自分の服について初めて思い当って、上半身を眺めてみた。確かに白い服を着ているようだ。

「もっと近くであなたを見てみたい。こっちに来て」と女が言った。

「いいよ」とわたしは言って、前に足を踏み出そうとしたとき、繰り出した膝が圧迫されて、足を進めることが出来なかった。見ると、目の前に大きな壁が存在し、行く手を遮っていることに気付く。彼女がいる場所とわたしのいる場所が、壁によって区切られていて、わたしは、その壁を透過する視線で、彼女を見ていた。しかし、その壁は、夢と同じように確かに存在していて、触れるとひんやりとして、固く、びくともしないのだった。この壁を浸透して、彼女の水は、わたしの水まで流れ込んできたのか。厚さ五十センチほどの壁が、すぐ目の前にいる彼女とわたしとを分けていて、それが絶望的に二人の距離を遠くさせているかのように感じる。

女が泣いていた。湧き水が流れているような音がしている。

「あなたの白い服がよく見えない。もっと近くで見てみたいわ」と女は言った。「それなのに、こんなに大きい壁があるんだわ」

「一体、いつの間にこんな壁が」女の姿は見えなくなり、わたしの目の前には壁だけがあった。まばたきしたり、目を細めたりするのだが、どうやっても、今では壁しか見えないのだった。壁を意識したことで、その壁が確固として存在を始めたかのようだ。

「あなたに近づきたいのに、近づけない」と女の声が聞こえてくる。「あなたが作った壁なのよ。いいえ、私も作ったのかもしれない」

「どういうことだ。これは一体なんだろう。教えてくれ」

「これは、恐れよ」

「こんなにもお互いに惹かれているのに、恐れが、巨大な壁を作ってしまうということなのか。君にはどうやってそういうことがわかるんだろう」

「考えるのをやめて。ただ見るのよ」

しかし、今では壁しか見えないのだった。彼女の声を逃さないように、壁に耳を押し付ける。耳がひんやりと冷たかった。

「いや、わかった。わたしは聞いていたんだ。何十年も前から、君の声が壁を通り抜けて響いてくるのを。美しいピアノ曲のように、目には見えない音なのに、わたしの胸を現実的に震わせ、わしづかみにし、甘く哀しいにも関わらず、真実がそうであるように美しい響きで、わたしを満たして安らぎを与える。そういう声を何度も聞いてきたんだ」

「私は、自由に流れ動くことを遮られる壁に、行き場を無くして、時々哀しみを歌っていたのかしら。あなたの貫く視線の光がなければ、壁にさえ気付いていなくて、ただ流れることが出来ない哀しみだけがわかっていたんだわ」

「聞いてくれ。聞こえるかい、わたしの声が。壁を通り抜けてくる声、その水の音にわたしは長い間悩まされていたんだ。想像してほしい。隣のアパートから漏れ聞こえてくる声、赤に混ざりこんでくる青、朝の光が夜の闇を貫いて、境界が曖昧になるときのことを。壁がなければ、境界がなければ、ミサイルが撃ち込まれてくるのではないか、大きな津波が襲ってくるのではないかと、君が言うように、わたしは恐れから巨大な壁を作ってしまったのかもしれない。敵を避けるために、味方まで締め出してしまった要塞の兵士たちのように、わたしには、壁をノックする音がずっと聞こえていたのに、壁の外にすべてを締め出さなければ、自分を保つことが出来なかったんだ。しかしわかった、もし壁を崩壊させて、危険に身をさらすことになっても、君ともっと近づくことが出来るなら、何が起きても怖くないということが」

「あなたには、壁を通り抜ける目の光と響きを得る耳があるんだわ。私には、暗闇に自由に揺れ動く水と響かせる声があるわ」

「わたしには目と耳があって、君には鼻と口がある」

「あなたは高いところにいて、私は低いところにいる」

「君は、深淵につながった高貴な湧き水と共に在り、わたしには、天空から下降する翼がある」

「二人の言葉が、鍵を生んだわ。でもそんなことより、ずっと一緒にいてほしい。私を抱いて」

「そうしたくてたまらない自分がいる。このマスターキーで、この壁を解放する。しかし、どこに鍵穴があるのかわからないと考えてしまう自分がいる。まだ恐れがあるんだろう。教えてくれ、わたしを助けてくれ。君は、どんな贈り物をわたしにくれようとして、歌ってくれたのか」わたしは目の前の壁を、この手で撫でる。この壁の向こうに彼女がいるのをありありと脳裏に浮かべた。

「自信よ。あなたは恐ろしくセクシーで、その雰囲気は独特。純粋で高次の精神、高く冷却された光の眼差しを持っているわ。だから、あなたの光が眩しくて、ずっと見ていたのよ。あなたはその光を信頼して、自信を持って生きて行かなくてはならない。あなたが数々の壁を通り抜けるために。私はあなたの魅力に翻弄されて、何度も抱かれたいほどに惹きつけられて、あなたを見つめて見つめて、虜になって、マスターキーを持つ自覚と自信をあなたに贈り物としてあげるわ」

「どうもありがとう。それでわかった」とわたしは言った。静かで強いものが胸に立ち上がってくる。目を閉じてその感触に注意を向けると、腹から立ち上がっているようにも感じる。「じゃあ、わたしは君の深い水を飲むお礼に、君の自由な流動に高い光を射しこんで、共に楽しむことにしよう」

「ねえ、今も壁が見える?」

「どうだろう、目を閉じていると、なくなってしまったように見える。今から、君のところへ行くよ。足を踏み出してみる」

「はやくきて。でも少し怖い。私も目を閉じて待つわ」

「もう大丈夫だよ。わたしには自信がある」

「まぶたの裏側に、大きな木が見える。何かしらこれ。ああ、何だか、長く伸びた枝と枝の間に、大きな光が見えてきたわ」

 

ki

 

 

googlead

googlead336

-コトバの塔