キクチ・ヒサシ

文化と芸術を言祝ぐ『コトバの塔』

コトバの塔

夢と忘却〈くじら〉(2014)

2016/07/09

000世界と合理思考の同一視、世界と社会の同一視が幅をきかせているのは全く見識のないことで、寒々しいおもいがするが、半ば自分のことであろうし、そこに留まりはしない。どこにも留まりはしない、と心は言うのである。とどまれば、水は腐敗し、そのよどんでしまった現在という名の過去は、亡霊となって現在を損なう、人間の持ち物は現在しかない以上、生命に従うことがそのまま旅であり、過去や未来へ旅行するにしても、どこか遠くへ行くにしても、現に在ることがすべてであり、皿を洗うことに己は徹するつもりであるが、このようなわたしの念仏を誰に強制することなく、ただ、流動する現在を生きることを、最高位の指針として置き、置いた瞬間に忘却し、迷い、笑い泣き、再び指針に戻り、すぐにかなぐり捨てて、赤子同然の己を見る老人のわたしが出てきては、まだわしは若い、などと言いたい。

同時にわたしの念仏に賛同して読むものがいることも自由であり、そこに固定した態度を捨て去り、捨て去れない現在もやってきて、どちらでも良いと思い、次の瞬間には煩悩し執着し、手放す、全体として、それは円環となり、閉じていながら、その円環というところでは、すべてのものに通じ、通じるために迷いがあり、その北の果てから南に出ては、そのまま東へ、西へ迷い込むという確信の果てで、永遠が鳴り響き、鳴らすものが響き、響くものが鳴り、言語絶句の果てを、書かなかった部分を書いた部分によって示す、字面には示されていないそこが始りの土地となり、土地は砕け、燃え、風となり、雨となって降り注ぐ中、雷の横やりが、彼の背骨を強く照らし、それは木となって大地にそそり立っている。次の無常を待ち、無常を待つこと自体が常となり、無常を待つ常を手放し、手放した途端に無常であり、悟りであり、どこにも固定できない流動する現在だけが、時間と空間を超越した一点であり、その一点は動き続ける座布団であり、その座布団は、いずれ消えるだろう、そして再び何度も現れるだろう。釈迦が現れ、明恵が現れ、道元が現れ、親鸞が現れるだろう、わたしが現れ、あなたが現れ、あなたたちが現れるだろう、水に現れるだろう、流れる水と皿の共演に、火花が散るだろう、同じ火花はひとつとしてないだろう、しかし怠惰と人間の限界から、同じような火花に見えるだろう、そして時々、これは水だろう、と馬鹿馬鹿しくなり、その馬や鹿が好きになるだろう、好きになり続けるとそれはやってこないだろう、しかし、馬や鹿に会いに行くことはできるだろう、そのため、我々は飽かずに、会いに行くだろう。君に会いに行くだろう。その君は、わたしだろう。永遠の相の下に、この座布団に在ることが、既に未完の完であろう、そのため、あなたは君に会いにいくだろう、会いに行き続けるだろう。おならが出続けるだろう、それは会いに行く動きの一つと思うと愛おしいだろう、同時に臭うだろうし、臭えば、煩悩の影響が身体化したのだと悟るだろう、しかし煩悩はなくならないだろう、なくなったときには死が迎えにくるだろう、まだ死にたくないだろう、それは煩悩のせいだろう、そして肉を食うだろう、そしておならになって臭うだろう、そうして再び悟りの中に入り、君に会いに行くだろう、花束を持って会いに行くだろう、あなたは会いに行くだろう、愛に行くだろう、とダジャレを言いたくなるだろう、そうして笑ったあと、ここには何か真実がある、と神妙になるだろう、そうして、自分が在るところが、この現在が、始りと終わりが既にある、言いきれぬ何かだと再確認するだろう、描いても書いても終わりがないだろう、そういう途中でしかない現在が愛おしいだろう。そうして、他人からは、あなたは踊っているようにしか見えないだろう。あなたとはわたしのことだったか、わたしとはあなたのことだったか、よくわからない心地がしてくるだろう。それがわたしである、と彼は言うだろう。彼は彼女に会いたいと思う。彼は思うだろう。そして、思うことは夢だ、と認識するだろう。その夢は、儚く虚ろいやすく、強固に存在するだろう。時々、海から現れるクジラのように、それは表に姿を見せるだろう、しかし見せないときも海の中にいたのだろう、クジラが深海に戻っていく、それが忘却に似ているだろう、忘れることがなければ飽いてしまうだろう、だからまた会いに行くだろう、覚えながら忘れなければならない、と一時固定してしまうだろう、その固定さえ捨て去って、自分が子供に戻ったと思うだろう、しかし戻ったのではなく、はじめから在ったのであろう。

そのような演奏が、延々と響くとき、ふと静寂が訪れ、音楽が止むということが既に音楽であることにわたしは再び気付くだろう、まるではじめてのように。そうして踊るだろう、真空の永遠が踊るだろう、そうした叡智と馬鹿と愛の中で、音楽が止んだ後でも踊っているだろう、それは止むという形で音が鳴り続けているためだろう、それが夢だろう、それは確実に存在し、時々しか見えず、うつろいやすく、そのために貴重に思われるだろう、わたしは、わたしだと思うことを抜け出し、夢に溶け込み、何千年も生きていたのだと思う、そして、生が止むこと、つまり死は、生の反対ではなく、止むという形での演奏が続くのだろう、だから寂しく思うことなく、と思いながら、寂しさを十分に味わい、念仏を終え、再び念仏する日を夢見る、そういうこれ自体が夢であるところで筆をおき、すぐに筆を執りたくなるだろう、しかし着実に皿を洗い、生活経済を計算するつもりでもあろう。念仏のことは忘れ去られてしまうだろう、そのために、再び驚きを持って迎えられるだろう。忘却の果てでそれは現れるだろう。何度もわたしが現れるだろう。現れることを忘れる現在が流動する限り何度でも、うんぬん。

-コトバの塔