キクチ・ヒサシ

文化と芸術を言祝ぐ『コトバの塔』

コトバの塔 小説・物語

ゴールドスター


 


   1 静かな落雷


 
 

 十二月二十四日、忘年会の帰り道に、彼は最寄りから三つ前の駅で降りて歩いた。なぜ途中下車したのか、と問われたのなら、「なんとなく、酔っていたから」と彼は答えるだろう。「気分転換というか、ふらっと歩きたいような感じだったの?」と問う者がいたら、理由のある行動という日常の牢獄から自らを解放したかったのだ、と答えるかもしれない。自覚を得た興奮から、それこそが本物の忘年会であり、聖なる日の意味なのだ、と続けるかもしれない。しかし、彼に問いを向ける者はいなかったのだから、すべては本能的に呼び起こされて、彼を不思議へと誘ったのだろう。

 駅前の小さな商店街を抜けて、両側を住宅に挟まれた暗い道を彼は歩いた。家々の窓に灯る四角い光も、外灯を受けた電信柱も、彼の目には入らない。すべてが剥ぎ取られたかのように、彼の窓には何も映らなかった。仕事や職場の人間関係の反芻もなかった。過去の後悔や、辿り着くであろう未来の目的地を思い浮かべている訳でもなかった。気温の低い夜で、白い息が漏れ、コートの襟が立ち、ポケットに両手が滑り込み、繰り出す足元からは靴音が鳴っていたが、そのような現在の感覚に注意を向けているのでもなかった。まるで心の奥底に落ちて、その暗がりの中を歩いているかのようだった。暗闇の半面、静かな安らぎが、しばらくの間は、彼を包み込んでいたのだ。

 それは特別なことでも、異常なことでもなく、何度も繰り返されてきた典型だった。一万年前の深夜、酒に酔った男が集落を一人で抜け出して、夜空にぎっしりと詰まった星の下、よろよろと、どこに行くあてもなく歩いた。そして、部族の地図に載っていない、決して出てはいけないと言い聞かせられてきた柵を超えて、荒野に足を踏み出した。しがらみであると同時に、温かく男を繋ぎ止めてきた糸が突然、本人自身にもわからない力によって断ち切られてしまう。深淵の安らぎに束の間の憩いを覚えた後、一人で境界を越えた罰として、集団によって共有されていない影が男に忍び寄る。それは、未だ名付けられておらず、封印されぬままに荒野に跋扈する魔だった。

 彼が歩いている間も、魔は、低くささやき続けていた。どこに向かおうが構わない、と。足が向かう限りはどこまでもだ、とささやいた。どのような時代であろうと、ここがどこだろうと、そんなものはどうでもいい。好きなように、足に任せて、どこまでも闇の中を歩いていくがいい。あなたが誰でもいいし、誰でもない、誰でもないのがあなたの光なのだ。ここがどこでもいいし、どこに向かうのでもない、すべてがどうでもいい、どうでもいいからこそ、どこまでも歩いていけるのだ。どこまでも歩いていくのなら、時も場所も超えているのだから、どこでもないから、誰ということがないから、いつということがないから、どこでもないをどこまでも、誰でもないままいつまでも、あなたは歩いていけるのだ。それが本当なのだ。何度でも言おう。ひとりだからあなたは全体で、閉鎖のように見えて、すべてが解放されている。それだから、すべてどうでもいいまま、どこでもないをどこまでも、いつでもないをいつまでも誰でもないあなたのままに歩いていくのだ。そういう聖なる夜をあなたは歩いているのだ。魔のささやきが、吹き込み続け、力を持ち、暴風となって彼の中を吹き荒れる。いつもの彼ならば、仕事中の眠気や空腹や怠惰を訴える微かな風が吹いても、声をかけ、なだめ、励ますことが出来たが、今では暴風のなすがまま、それを聞き取る方の彼はどこかに吹き飛んでしまったかのようだった。

 どれくらい時間が経ったのか、時計の針が止まったように思える不思議な時間の中を、足が泳ぐように歩いている。そして、彼は唐突に静かな雷に打たれる。暗い夜に立ち止まり、額に手を当てた、出血を止めようとしているかのように。そうしていなければ倒れてしまいそうだった。根源的な問いを自らに向けてしまった者の恐怖だったのかもしれない。彼の答えは、なぜここに自分がいるのか全くわからない、と心臓を叩いていた。記憶を失っているのか、いや、俺は歩いていたのだ。歩いていたのに、どこか別の場所にいたような気がした、そして突然ここを歩いていることに気付いた。頭がおかしくなりそうだ。忘年会で酒を飲んでいたことに意識が伸びたとき、ぐらり、と地面が揺れた。揺れたのは自分自身であり、地面ではないことに彼は気付いていない。恐れに身をすくめ、巨大な灰色の壁に手をついた。高架下を歩いていたのだと認めながら、彼は胃の中のものを吐いた。

 粘りつく唾液を何度も吐き出す。小さなクリスマスツリーが脳裏に見える。サンタクロースの衣装を着た同僚の顔が思い浮かび、ワイングラスが触れ合う音が聞こえる。夢を思い返すときのように、頭の中で、忘年会から現在地までの経路を探る。駅のホームや歩道や信号機が断片的に浮かんだ後、小さな埃のようなものが宙を降りてくるのが見える。ひらり、ひらりと揺れている。一片の雪だった。顔に落ちて、融けてしまうかと思われたが、彼が知るのとは全く異なる原理が働いており、ゆっくり彼の方に落ちながらも、雪片が拡大したのか、彼が縮小したのか、それは巨大な雪の結晶体を顕して輝き、覆いかぶさってくるかのようだ。彼は恍惚とした。結晶は、六角形を外枠として、シンプルな各部の図が集まって、複雑でありながら静謐に統一され、ダイヤモンドのように光っている。それは天を覆うほどに伸びていき、その広大さにも関わらず、同時に一片の雪となって、彼の瞳の上に静かに落ちてくる。雪の結晶は、その内実に、深い世界を秘めていた。彼はそれをありありと眺める。世界は円に包まれており、その円が彼の瞳のかたちなのか、世界の外縁なのか判別できない。彼はいつか、その世界の中に入り込み、円の街で、女に出会う。それが、さっきのことなのか、これから起こることなのか曖昧で、瞳の奥が重く疼いて、眠りに入る直前の、最後の意識が、長く引き伸ばされているような心地が続いた。


 

   2 円の街


 

円の街は、赤色の屋根をした家々が連なる美しい土地だった。上空から見下ろしたのなら、バウムクーヘンを思わせるに違いない。何層にも重ねられた円の道を、人々は五センチほど宙に浮いて、歩き回っていた。すべての円を貫く八つの街路を自由に移動して、仕事に行き、買い物に行き、恋人や友人に会いに行った。路は氷によく似た透明度の高い石で出来ていて、広場となっている円の中心は、水晶のように光り輝く一面の床となっていた。人々はベンチに腰掛けておしゃべりをしたり、コーヒーを飲んだり、猫や鳥に餌をやったりしていた。

 どの家も、大きな水色の窓を持っていて、玄関はなかった。近づけば、その水色の窓は、完全に透過しており、内部を見ることも、通り抜けることも出来た。この窓が、玄関と同様の役割を果たしていた。少し離れて見れば、空や海のように水色をしていて、離れれば離れるほど青が濃くなる。近づくほどに、色は薄くなり、透明になっていく。彼にはその原理が理解出来なかったが、わからないままに受け容れることは出来た。家の中には、電器製品や家具が配置され、テレビの前でソファに寝転んでいる老人や、風呂上りに鏡の前で腹肉を掴んでいる女や、すね毛の手入れをする若い男の姿などが見えた。大抵は、スナック菓子を食べているか、ソファやベッドに寝転がっているか、電器製品に触れていた。慣れるまでは、見ないふりをして見たり、見ないように注意したり、ぎくしゃくしたが、段々と風景を見るようになっていき、特別な関心を引き起こすことはなくなっていった。家の中にいる人々のやっていることは似ていた。ひとりで食べるか、寝るか、戯れていた。何人かで食べるか、寝るか、戯れている。壁があったときには、内側についての想像や幻想があったのかもしれない。実際に見えてしまえば、人という生き物のすることはほとんど同じであり、退屈でじっくり見ていることなど出来なかった。人々も、別段、外のことは気にしていない。内と外という概念自体が消失しているのかもしれない。表と裏の顔を分けておく必要がないことを多くの人々が常識としていて、秘密と抑圧が存在しないのかもしれない。全体として、人々は高度な文明生活を享受しており、幸せそうに見えた。

 円を一周した後、広場のベンチに腰掛けて休んでいたとき、知らない男が横に座った。

「こんにちは。田中光一さんですね」と男は言った。

「そうですが、あなたは?」

 男は黒縁のメガネをかけ、髪を真ん中分けした中年の男で、太っているというほどではないが、がっちりとした体形で、スーツの形状が強引に引き伸ばされている。

「不動産屋を営んでいる者です」と男は名刺を差し出した。「糸井と言います」

「はじめまして」と田中は言った。

「この街に来たばかりでしょう?どのへんに住みたいとかご希望ありますか」と糸井は言った。

「そうですね」と田中は受け取った名刺に目を落として言った。しかし、自分が何を希望しているのか、よくわからなかった。

「素晴らしい時代には素晴らしい街に住むのが一番です」と糸井は言った。

「ええ、そうでしょうね」と田中は言った。「でも、わたしはどうやってこの街に来たのでしょうか」

 糸井は笑った。「どこから来たのか、わからないってやつですね。ご冗談を」

「冗談じゃないんです」と田中は、糸井の目をまっすぐに見つめた。

「はっはっはっ」と糸井は声を出して笑ったが、可笑しそうではなかった。田舎者の発言によって生じた空気を吹き飛ばすといった感じだった。「田中さんには、ユーモアセンスがあります。前世は哲学者かもしれないですね」

「哲学や前世については知りません。興味もありません。あなたはどうしてわたしの名前を知っているのですか」

 糸井は吹き出した。「ふざけているのか、天然なのか、よくわからない人だ。あなたの存在を知ることなんて簡単なことじゃないですか、わたしをおちょくってるんじゃないでしょうね」

糸井が言うには、既に田中の存在は街に透過しており、何事も筒抜けなのだった。

「あなたはサインしたことがあるでしょう。宅急便の伝票や役所の書類や記念館の台帳や答案用紙や好きな女の子の唇に。自らサインをしておいて、あなたは自分の名前を知っている者がいることに驚く。あなたの言うことは全く変な話で、わたしの方がおかしくなりそうですよ」

「しかし、あなたとは初対面です」

「わたしの言う意味が伝わっていないですね。田中さん、どこから来たのかよくわからない、とおっしゃっていましたが、誰でもお母さんのお腹の中から来たと言われているのですよ。けれども、ほとんどの人が、お腹の中から出てくる時のことを覚えていないものです。だから、どこから来たのか自分の感じではよくわからないものでしょう。誰かがそうだと言ってくれるんです。時には木の間から生まれてきたとか、川を流れてきたとか、鳥が連れてきたとか言われることもあります。そして、言ってくれる人がいるのなら、あなたはそこに存在している、ということです。これが名前です。世界にサインしたのと同じことです。違いますか?こんなことを話題にしていたら、人生が楽しめないじゃないですか。それよりも、新生活のお話をしましょう。今だけ限定で、とても快適な部屋が空いているんです。更に今ならおまけの洗剤がもう一つ付きます」

「ちょっと待ってください。まだよくわからないです」

「田中さん、もういいでしょう。そんな子供みたいなことを言わなくても。わたしだって子供の頃は、母親を困らせる質問をたくさんしたものです。わたしたちがどこから来て、どこへ行くのか、ここで何をしているのか、こんなことは誰にも答えられないんです。母親だって、弁護士だって、医者だって、総理大臣だって答えられません。わたしだってただの不動産屋です。人々を困らせてどうするんですか。あなたはこだわりすぎです。何も考えずに楽しむんです。わたしなりには答えたはずですよ、田中さんがどこから来て、どのように世界に知られているかを。次は、わたしの問いに答える番じゃありませんか」

「しかし、初対面なのに、あなたが名前を知っていたということは、どう考えるものなのですか」

「田中さん、誰だって初めて会うときは、初対面なのじゃありませんか。母親と出会ったときだって、親友にしろ、恋人にしろ、初対面だったのに、親しく馴染んでいって抱き合ったりするのじゃありませんか。初対面でアバンチュールを楽しむ男女もいるそうですよ、名前くらいのことが、そんなにおかしいことですか。今では、お互いの名前を知り合っているのに、なぜそれにこだわるんです。わたしが先にあなたの名前を知っていようが、あなたが先にわたしの名前を知っていようが、今ではお互いの名前を知っているのです。それなのに、一体何をあなたは知ろうとしているのです?」

「ちょっと待ってください」

「何を待てばいいんですか。それどころか、田中さんが先に名乗ったのではなかったですか」

「いや、それはない。あなたが先に呼んだのです」

「本当ですか。田中光一さんの記憶がわたしの記憶よりも正しいという証拠があるんですか?」

「証拠はない」

「そうでしょうね。記憶ほど曖昧なものはない。夢と同じで、あなたが脳裏で眺めているものをあなたが信じているだけでしかないのですから。田中さんは何か宗教とかオカルトとか、そういうのに興味があるんですか?」

「全く興味はありません」

「それならいいんですけど。神話にあるように、どちらが先に声をかけたとか、かけないとか、そういうお話は御免です。わたしにだって知らないこと、わからないことはあります。そういうのを知るのは不愉快ですが、わたしは神様じゃないですからね」

「イライラさせたのなら、謝ります。ただ、よくわからなくて困惑しているのです」

「謝らなくてもいいです。つい、わたしも声を荒げてしまいましたね。田中さん、星を見たことがあるでしょう。星は生まれたり死んだりしているそうです。そして全ての星は、お互いに影響を与えあっているそうです。新しい星が生まれると、即座に全体の知る所となり、そこに連関が生じるのです。田中さんもわたしも、銀河の中の、小さな星なのでしょう。わたしが知ることはこれだけです。そろそろ陽気な不動産屋に戻らせてもらえませんか」

「しかし、わたしは契約するお金を持っていないようです」

 糸井は、田中の肩を叩いた。「全部無料ですよ。この世のものは、すべて、誰のものでもありません。空気も光も言葉も誰のものだというのですか。喧嘩さえしなければ、誰でもこの世界のものは、自由に得ることが出来るんですよ。まあ、強いて言うのならば、ダイヤモンドのおかげですね」

「ダイヤモンドですか?」

 糸井はそれには答えずに立ち上がり、田中の腕を掴んで引っ張る。田中がそれに応じて立ち上がると、糸井は五センチほど浮いた足で先導するように歩き始める。田中は後に続いた。

「田中さんの足は地についていますね。そんなことでは、深い地下まで落ちてしまいますよ。いいですか、田中さん。相手の話にわからないことがあったときに、いちいち質問してはいけません。なぜなら、言っている本人にもよくわかっていないこともあるんですから、田中さんのように色々質問する人がいると、相手は恥をかくことにもなります。そういうときは、『そうですよね』とか、『そりゃそうですね』とか、知っているように振る舞ってください。田中さんの言うことがよくわからなくても、相手も同じように適当に聞き流して、知っている顔をしています。これが大人の社交というものです。わかりましたか。いちいち、田舎者のように正直に『ダイヤモンドですか?』と訊くのではなく、軽く『そうですよね』とか答えるんです」

「そりゃそうですよね」と田中は言ってみた。

「いい感じですよ、田中さん」

 入居を決めたアパートは、北西街路に面した二階で、他の住宅と同様に、部屋の両側が水色の窓で筒抜けになっていた。糸井が言うには円の街の中でも便利な一角で、近くにスーパーマーケットと図書館があり、中心部の商店街や広場までのアクセスが良く、日当たりも良好とのことだった。田中としては、どこでも良かった。部屋は十畳ほどある一間で、簡易キッチンとユニットバスとベッドがあり、窓際には小さな円形のカフェテーブルと椅子が設置されていた。棚が一つ付いていて、中には生活用品が一通りそろっていた。水色の窓を別にすれば、ホテルの一室によく似ていた。

糸井は、田中がサインした契約書を受け取ると、立ち上がって言った。「あとは、好きなようにやりたいことをやってください。何か不都合があれば連絡を。わたしはこれで失礼します」

「糸井さん、おまけの洗剤はどうなりますか」

 糸井は急に真顔になった。

「それは、どういう顔ですか」と田中は訊いた。

「それはこちらのセリフです。わたしと街を歩いている間、人々があなたの顔を見ていたのに気付きましたか」

「いいえ、気付きませんでした」

「田中さんは、夢を見ているようにぼーっとした顔をしているか、悩んでいるような暗い顔をしていました。それで人々が怪しんで、あなたを見ていたのですよ。口角をあげて微笑んでみてください。そうです、出来るじゃないですか。そういう顔をしているのが本当ですよ。よく気を付けてください」

「しかし、自然に微笑みが浮かぶのが本当じゃないのですか」

「田中さん、自然に浮かばない人は、浮かべるしかないのですよ。それがいつか本当になるでしょう。さあ、わたしは行きます」

「おまけの話はなくなったんですか」

「田中さん、本社にさっき連絡したときに、おまけの洗剤は既に先着二十名に達していたとのことです。ご自身でスーパーに行って取って来ると良いでしょう」

「やっぱり何か変な気がします」

「もうやめましょう。変なこともあるのが人生です。そのまま受け容れるしかないじゃないですか。まして、おまけの為に部屋を契約した訳でもないでしょう。次の予定があるので失礼します」

「待ってください。わたしはここで何をすればいいんですか。生活に必要なものはすべて揃っていることもわかりますし、あなたの言うように良い部屋だと思います。でも、それで何をすればいいんですか。わたしは部屋もおまけも望んでいた訳ではないのに、こうなっています」

「じゃあ、そもそもおまけについて訊くのもやめるべきでしたね。田中さん、わたしに去って欲しくないんですね。それで、何でもいいから言いがかりをつけている。お気持ちは嬉しいですが、粘着されても困ります。あなたは自由なのですから、好きなようにしてください」

「好きなことがない人は一体どうするんです」

「田中さんは三十一歳でしたね。友達や恋人を作ったり、仕事をしたり、色々試してみるしかないでしょう。動物園やコンサートや美術館や図書館に行ってみてもいいし、スポーツをしたり、絵を描いたり、料理を作ってもいいでしょう。いつかお好みの趣味が見つかるでしょう。いずれにしても、わたしの業務外のことですから、そういうことは市役所かどこかで相談してください」

「糸井さんは、さっきから自由だと言いますが、わたしはどうも色々が不自由な気がして仕方がない」

「知りませんよ、そんなことは!自由と言っても、時代と文化が要請する常識の範囲内のことでしょう。人間という生き物が負っている制限もあるでしょう。そのような枠の中で自由を使いこなせないのは田中さん自身の問題で、わたしに言われても困ります。ともかく、ここらへんで勘弁してください。こういうときに何と言えばいいかは、もうお伝えしたはずですよ」

「そりゃそうですよね」と田中は諦めて言った。

「それでいいんです、それじゃあ」

フローリングの上を糸井の足が踏みしめて去っていくのを、田中はぼんやりと眺めた。部屋の中では、足が床についているのだった。水色の窓の中に糸井の背中を見送ると、階段を下りていく足音が続いた。階段でも足がついているらしい。いずれどういうことなのか明らかにしなければならない、と田中は考えた。糸井の言うことを鵜呑みにする訳にはいかない。何かがおかしいのだ。それとも俺の方がおかしくなっているのだろうか。

田中は、北西街路に面した窓に近付いて、外を眺めた。赤い屋根をした家々がどこまでも続き、水色の窓が太陽の光を反射して輝いている。遠くに視線を伸ばすほどに窓の色が濃くなり、全体を視野に収めるとグラデーションになって、田中の目を横切った。水色から青色に向かう緩やかな変化の境目が曖昧で、どう目を凝らしても、色の境界線を捉えることが出来なかった。目線を下げると、中心部に向かって真っすぐ伸びる北西街路を、コートを着た人々が行き交っている。向かい側の一階にはクリーニング屋の看板が出ていて、長い黒髪をした女が衣服を畳んでいた。興味を惹かれて、田中が身を乗り出そうとしたとき、寒気のような震えが走り、慌てて角の柱を掴んだ。透過した窓の境界線を越えて、あやうく落ちてしまう所だった。こんなのは窓でもなんでもない。田中は怒りがわいてくるのを感じる。しかし、窓と言う以外にどう言えばいいのかわからず、取り外すことも出来ない。誰に文句を言えばいいのかもわからない。誰もが、この窓とも呼べない窓がある家に住んでいるのに、自分だけが、それを批判した所で一体どうなるというのだ。


 

 

つづく


 

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