キクチ・ヒサシ

文化と芸術を言祝ぐ『コトバの塔』

コトバの塔

微生物の夢と覚醒

2018/08/05

不安や苦悩や苦痛があるとしても、わたしは不安ではなく苦悩ではなく、苦痛ではない。それはわたしではないからだ。基底のわたしとして生きるのならば、いや、これ以外の生き方はありえないのだ。どのような感情も思考も、わたしではないのだ。そういう声がどこからか聞こえてきて、その深夜に私が声を追っていくと、台所の排水の奥から聞こえてきていることがわかった。それで、私は、「夜なので、静かにしましょう」と排水に向かって、遠慮気味な発声でありながらも、有無を言わさぬつもりで言ったが、排水の向こうの声の主には耳がないのだと、すぐに気付いた。耳がないのではどうしようもなく、おそらくは姿を見せるのを恥かしがっているような微生物の仕業に違いないとまぶたを擦った。こうして、微生物の演説に耳を傾ける羽目になった自分自身に苛立つと同時に、このような機会を得ることは稀に違いないのだと励ましながら、排水溝のぬめり取りを流し込もうと自分の手が動いている。しかし、深夜の声に目覚めるようなときには、おおよそ、すべてが無駄であって、そんなことはわかっているのだが、それでいて、日常の所作にしがみつくことで、正気を保とうとしているのだ。なおもは排水溝からの声は続いた。身内と敵、わたしとあなた、東西、境界を作ること、身内を自として、外を他とする視方、その意識における分離は、意識を自とし、無意識を他とする構造の内外であり、一体である。境界を作れば作るほど人は窮屈になり、分離に苦しむ。自分と他人を分けるジャッジは、意識と無意識を分けるジャッジとイコールである。つまり無意識を、自分ではなく他であるとすることは、常に無意識に脅かされる。常に他に脅かされる構造であり、身内は良いが、他は見知らぬ人なので関係がないとジャッジすることで、絶えず、他からの、無意識からの、つまり外部からのプレッシャがあるという構造になる。自他が本来的に一体であり、それを円として視ることが出来るのならば、ジャッジがない、分ける、という事がないから、プレッシャがない。プレッシャとは外部からの圧力で、外がなくなれば、外からくる強制的な圧力と感じられているものも存在しなくなる。

いい顔、職業人的期待、儀礼は、わたしではない。取り外し可能な仮面であり、役立つものであるが、それはわたしではない。仮面から零れ落ちた、個人の影は、時折表に現れてきて、本音と呼ばれるが、仮面の窮屈、濃くなった個人的影を解放し、光を当てることで、仮面世界との平衡を取る一時的な意味があるが、その本音も、個人的な影も、わたしではない。自由に動く身体、その身体感覚の、あらゆる気付きは、頭の世界を補償する。しかし、その身体感覚も、わたしではない。「微生物よ、姿を見せてくれないか。私には、お前の声に追いつくことはできないのだから」と私は言ったが、微生物には耳がなく、与えられた機能を愚直に果たすのみで、どのような干渉も不可能で遠く離れているが、耳に直接に入り込んでくる。目にも見えない、透明な、私の眼球にとっては透明としか言いようがないものだということに思い至ったとき、微生物が、耳から入り込んできていることに私は改めて気付く。声というものの恐ろしさに戦慄する。自分の傾向を否定しようとするのならば、それは影となり、それらの傾向は症状として現れる。影の否定が症状化につながるのだ、と声は続いた。いかに不快であっても症状に抵抗せず、避けようとしないこと、症状を受け入れ、余裕を与え、その不快感と親しむことである。興奮の否定は、不安として症状化する。他人への興味の否定は、自意識として症状化する。敵意の否定は恐れになり、怒りの否定は悲しみになる。また、特定の状況に対する自らの中の対立を自覚したとき、不要な緊張は抜け落ちる。聴け、と微生物の声が鳴り響いた。外部からではなく、外(他)に対して自分がやりたいと思っていることの代用が、誇大化されて自分に行われたものが症状なのだ。

人が集合するとひとつの大きな心のようになってモラルが下がり、個人であることを意識レベルとして保つことが難しい。「それは微生物の声をかき消す為に必要なのだ」と私は心で思った、それによって声の主との、耳のない主との唱和が可能だともくろんだのだ。考えでは遅い。無意識を訓練し、無意識を信頼すること。これを拡大すると他者に、世界に、この自然に、宇宙に、すべてにYESと言うこと。これがいわゆる「信仰」の意味することで、これだけで良かったのだ、微生物は一体どこに行こうとしているのだ。体系化を拒み、固定化を拒み、それは流動して、もはや、水の上を流れていき、その自然にどうすることもできない。わかるように書くことも、書くためにわかることも、わからないことをわかろうとすることも、すべてが流れていく、これで良かったのだと思う。そのとき、微生物は微生物Bと名乗った。君の場所を空ける為だとも付け加えた。それによって、愕然とする。私こそが、微生物Aだとでも言うのか。その自覚が、エネルギーとなり言葉を産む。自他未分、壁と区切りがなければ、その泥の中に足をからめとられてしまうだろう。自他の別、壁のある人間から成熟した関係を提供されると常識の世界に戻り、安心するものだ。自他の区別、境界をしっかり取れる環境をお互いに作ってあげることが安全基地になる。それは、日常と祭りの円環、ハレとケ、自我レベルと無意識レベルの輪のことに関わっていないか。祭りの不足が、非日常が日常に持ち込まれてくることにつながっていないか。自他の区別という固定に、人の生命は留まることは出来ない。深い癒しとは、我を忘れること、世界に流れ出すこと、祭りであり、個を超えたつながりの感覚、すべてが分離していない感覚、それが果たされることが不足したとき、祭りよりも数段劣る形式が採用され、表層レベルの区別を乗り越えようとすることになるのかもしれない。自他の区別の線を日常としながら、意識が深層を活性化する一時的な時間、個ではなく集合ではなく、本源とつながる。壁がない、祭りがある。自我を乗り越えられて、自他の別を超えられて、相手の自我に圧迫されるという意味の壁がないということではなくて、個人レベルで自我と他我が区別されていて、超えられる壁は、自我と他我の区別の壁ではなくて、深層レベルで、個という概念が超えられる。他我に押し付けられたり、圧迫されるような壁の超えられ方ではなく、深層レベルで自体一体に目覚める意識というものがある。それは、自他の区別という表層レベルと同居可能であり、壁が大事だと述べる者は、表層レベルの壁のことを言っており、壁を超える、境界を超えることが出来ると述べる者は、深層レベルに意識が開かれることを言っている。微生物BとAは融け合い、どこかに消えていってしまったが、わたしはその過程を眺めている。

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伊藤陽光の日記sv.blog

 

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