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大相撲

大相撲五月場所、白鵬から稀勢の里に渡ったもの:スー男の縦綱

2016/07/09

大相撲五月場所、白鵬と稀勢の里が全勝。折り返しを過ぎ、優勝争いが白熱してきました。四年前くらいにわたしが大相撲を観始めた頃には、白鵬は、心技体が揃い、美しく、格の違いが際立っていました。日本の伝統奥義と言える無心を身につけ、勝つと負けるという二元を超えて、落ち着いた心の使い方をしている点で、他の力士と一線を画していました。相撲人気が下落している間、白鵬によって大相撲は支えられてきた、と言っても過言ではありません。他の力士は、全く歯が立たない。どうなっているのだろう、とわたしは白鵬のメンタルトレーナーが書いた本を読了するほどに、白鵬の相撲道を研究したものです。背筋の反り方、脚の出し方、土俵でのルーティン、土俵での技。しかし、四年の流れの中で、白鵬が衰えたことを認めざるを得なくなってきました。それと同時に、稀勢の里の心が整ってきました。

目次

  1. 白鵬黄金時代から今場所までの流れ
  2. 稀勢の里の成長
  3. 白鵬から稀勢の里に渡ったもの

 

1白鵬黄金時代から今場所までの流れ

白鵬は、大記録を達成しました。ほぼ全ての場所と言いたいくらい白鵬が優勝し続け、幕内最高優勝回数で、千代の富士、大鵬を抜きました。現在は三十六回。素晴らしい偉業を達成しました。その後、目標を失い、白鵬の相撲から気迫が消えた時期はありましたが、心の落ち着きは見事で、勝敗を超えて「横綱」と呼ぶにふさわしいものでした。しかし、徐々に、有望な若手が増え始め、白鵬に土がつくことも増えてきました。

相撲人気が上昇し、力士たちの気迫も高まってくる流れの中で、先場所は、物議をかもす取組みで白鵬が優勝しましたが、それまで、なんと四場所も白鵬は優勝から遠ざかりました。わたしが大相撲を観るようになってから、これほど長く優勝から遠ざかった白鵬を見たことがありませんでした。途中、白鵬の休場が一度ありましたが、正面から組んで、照ノ富士に敗れたり、格下力士に不覚を取ることも増えてきました。わたしの見ている流れからいくと、明らかに幕内の競争力は上がり、白鵬と言えども、簡単に優勝するという訳にはいかなくなってきたようでした。しかし、それ自体は、たいしたことではありません。全て勝つなどと言うことは、競技という側面から考えて、人間のやることですから、そう何度も出来ることではないくらいがちょうどいいですし、正面から堂々と組み合う以上、何が起こってもおかしくない不確定要素を含むのが相撲です。総合力に勝る方が、常に勝つとは言えません。しかし、長年横綱として相撲界を支えてきて、引退が視野に入り、円熟した時期になって、相撲人気が上昇し、ふがいなかった大関勢も力をつけ、気迫を見せ始める。次々と有望な若手も出てくる。以前はありえない形で負けることも出てきた。そうして、白鵬の相撲から一番大事なもの、勝ち負けを超えた無心が今場所では失われ、常に勝とうとしている姿勢に傾きすぎて、出来るだけ早く勝負を決するという取組みになりがちで、ブーイングも増えてきました。もし、負けることがあっても、白鵬の名横綱としての刻印は陰りません。これまで通りに無心を貫き、いつもの相撲を取って、それでもし、若手が成長して道を譲ることになったとしたら、そのときは引退の時で、それも正々堂々、いつもの相撲を取っているのならば、この上なく、美しい引き際であり、大相撲の歴史が続く限り、賞賛され続けるものになるでしょう。競技の側面を持ちながらも、日本の精神性を現す「道」、相撲道なのです。わたしたちの心の奥底で、今も先祖につながる道なのです。勝ち続けてきたものは、負けることで、完成するのです。その綱は次に渡され、永劫続いていくのです。

2稀勢の里の成長

大相撲は、土俵の円を囲んで、審判、力士、観客が一体になります。劇やコンサートなどは、舞台側に演じるものがいて、観客席に観客がいる、という二分が為されます。演じるものと観るものは、明確な境界が分けられるのです。一方、大相撲においては、出番を待つ力士も観客も、一体となって土俵の円を囲みます。ここに日本文化の特徴が現れています。中心は、神聖なる土俵です。力士ではありません。そのため、力士たちは、出番を待つ間、まるで観客のように、土俵下に座ります。コンサートのように、歌うときだけ出てきて、歌わないときは、袖に隠れるというような境界がきわめて曖昧に構造化されています。実際、観に行くとわかりますが、相撲を取る前後の力士に、売店前で、自在にわたしたちは出会うことができます。力士は、大勢の観客の中で、周囲に気を取られず、心を整え、緊張をコントロールする必要があります。この場に一体となる心を持っていなければ、稽古場のときのような力を発揮することが出来ないのです、緊張感のオンオフを二元的に切り替えるだけでは限界があり、持ちません。その為、大相撲は、心の修行とも言えるのです。外のものに心を振り回されない状態、無為自然の状態に発する力動が、神聖のハタラキです。力士個人の力ではありません、没我、無心に発する力が、相撲を取らせるのです。(個人の意識の力では、作為が働き、それは無意識の動きに比べて遅い、隙になるのは、宮本武蔵の五輪書にある通りです)稀勢の里は、日本人横綱誕生の期待を背負いながら、あと一歩の所で、優勝を逃し続けてきました。白鵬に比べると、心の使い方に課題があることは明らかで、それは、彼のまばたきが多くなることによって、外的に現れ、わたしたちは、まばたきが多いときの稀勢の里を見ると、不安に思って来たものでした。大関として、彼を好み、応援しながらも、横綱は無理かもしれない、数年の間の彼の様子を見ていると、このような感想が自然とわいてくるのでした。しかしどうでしょう、カド番を繰り返してきた琴奨菊が先に優勝を果たし、稀勢の里は奮起したのでしょうか、人々の期待による重圧が、これによって外れたのでしょうか、先場所の稀勢の里は、いつものパチパチとした緊張を現すまばたきサインが減少、立ち振る舞いは洗練され、人が変わったように、落ち着いた相撲を取るようになり、優勝争いにも最後まで絡みました。

3白鵬から稀勢の里に渡ったもの

そして今場所、稀勢の里は、やはりまばたきのパチパチは減り、笑みさえ浮かべるような落ち着きを見せて、気迫に満ちた所作が美しい。まるで、横綱を体現しているかのような雰囲気、存在感、そして土俵での強さ。ここまで全勝。稀勢の里に何が起きたのかわかりませんが、もはや目に見えない方の綱が、稀勢の里の手に渡ったかのようです。無心を身につけ、彼が横綱になろうとなるまいと、見えない綱はしっかりと彼の手に渡り、これからどのような紆余曲折があろうとも、稀勢の里は、掴んだのだとわたしは思うのです。わたしはこのことを心から喜んでいます。結果を超えて、彼の相撲を観るのが楽しみなのです。

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