キクチ・ヒサシ

文化と芸術を言祝ぐ『コトバの塔』

女性性と男性性

女性原理と男性原理4「昼と夜が廻るように」区別意識から円環意識へ統合する。

2016/07/09

女性原理と男性原理の4回目である。今回は、母性と父性の区別の延長として、東洋(日本)と西洋の対比に拡大したいと思う。ここまでの図式をもう一度振り返り、そこに加える。

女性原理 / 男性原理
受動性 / 能動性
左 / 右
無意識  / 意識
感情 / 思考
Being / Doing
つなぐ力 / 行う力
顔を見ている者   / 顔を見させる者

凹      /     凸

母性 / 父性
包含 / 切断
感情同一 / 個性尊重
育てる / 鍛える
吞み込む / 破壊する

 

東洋 / 西洋
自他一体  /  自他分離
没我調和  /  自我確立
視線外反  /  視線相対
多神教  /  一神教
三者(場)   /  一対一(個)
交互語り /  対話
一体感(非言語) /  理解(言語)
以心伝心・暗黙の了解 /  言語交信
自然と人間の調和  / 自然と人間の対立
感情社会(依頼心) / 構成社会(権利・義務)
没個性序列・滅私的平等 / 能力主義(公平)・個性尊重

線引きして区別すると、母性社会で男性原理(父性)を鍛えていくことの困難がよくわかる。それでいて、西洋発祥の科学文明を導入して、日々、わたしたちは、合理社会のつもりで物事を扱っている矛盾と葛藤。(そして、一刀両断に、この左右を分ける線は、外側を分けると同時に、自らの内側を分けて、この分裂が少々疲れる)自他一体の方向性にありすぎて、苦しむ者には、自他区別を処方するとちょうどいい、自他区別しすぎて分裂気味の者には、自他一体を処方するのが良い。上記の図式を持っておけば、人間が集まった場で、どんなことが起きているのか、観察するのに便利である。そして個人の心の使い方についても、上記の地図に照らして、自分自身の状態を測ることが出来る。図の右側でいくと、自己主張して言語で対話することが当然のことなのだが、日本の場においては、主張や議論が避けられる傾向にある。言葉を使用することは、根源的には、相手と自分を分けることであるから、沈黙を守る方が、自他一体の空気に融け込める。しかし、能力主義的なものを導入している場では、全く逆になってくる。(例えば、派遣会社)本人は意見を述べているつもりで、単に感情の垂れ流しになりがちな日本の会議というのも、この図式を見ると、よくわかってくる。没個性序列によって維持される集団の中で、人々は被害者意識を持ち、日常において、変な疲れを感じているという人も多い。わたしは、一体どちらの原理が強い場なのか、ということを観察し、全く異なる人間であるかのように、女性原理と男性原理を切り替えようとした。それは、過渡期的には意味があったが、無理のある分裂を自らに負うものであった。男性原理を鍛えていく過程で、わたしは剣を収め、動物的衝動を手なづけ、空気を操作する、笛を持つようになった。まずは、剣は収めて、隠しておき、笛をぴーひょろ吹いて、場を創る。あるいは自らの動物的衝動をなだめる。集団内の空気が良くなる、そのあとで、必要な時には剣を抜く。わたしは、東洋と西洋の区別、母性と父性の区別、総じて女性原理と男性原理の区別をして、合理意識を身につける過程で、その合理意識に対する疑問も感じ、その限界に気付き、東洋の叡智に接し、しばらくさまよった後、合理意識に固定するのではなく、それを円の中の一部分の目印として認識するようになった。二律背反、相反する組み合わせに分けてしまう限り、それは対立する、壁が出来る。しかし、それらを対立させずに、目印をつけておくことが出来ることに導かれた。その図は、この文章の最後に掲載する。その前に、わたしが男性原理というものが何であるのか、日常的に把握したものは、下記である。

男性原理

スピード
意思
行為
言葉
意味

 

男性原理の象徴
火 雷

剣 笛 時計 鍵

わたしは、赴く場や出来事に合わせて、自らの道具箱をイメージの中で開き、剣か笛か時計が鍵か、あるいは筆か、男性原理の内的資産を自由に取り出して使用する。男性原理の最高のものは、意味である。以下に、女性原理と男性原理について、わたしが簡略にまとめた、過去の文章を掲載する。

女性原理の高低と男性原理の高低
低い男性原理は、支配的、攻撃的、横暴となって現れる。これは男性原理が鍛えられておらず、暴発しているためである。→高い男性原理は、男根崇拝に見られるような、立っている姿、それは、男根であれ、身体全体が立っている姿勢であれ、直立して不動の表現となる。それは、柱である。柱があるから家は安定する。集団の中でも、高い男性原理を持った人間がいれば、その人間が、その集団の柱になる。その場にいるだけで、安定をもたらす軸のような存在。これが柱である。柱となるような男性原理を鍛えた人間がいれば、すぐに周囲はそれに気付く。それは森で、犬に出会った感じと、熊に出会った感じが異なるのと同じである。しかし、現代社会は、本能の判断よりも、地位や役職など頭の判断を優先する癖がついている為、自然が指し示す王が存在する場合には、組織は混乱する。犬であるけれども、部長という名札がついているので、それを王としようとする現代人の浅い意識と、平社員という名札だが、明らかに熊である、つまり王である、という本能の判断とが葛藤するためである。(2)男性原理は、柱のような棒で全てを象徴して過不足がないが、その機能は、分化して視ることができる。(3)まずは剣である。これは、物事を切り分け、決断する力となって現れる。次に、笛である。これは、集団を楽しませ、リラックスさせる力の象徴である。それから鍵と時計である。これらは、時間と空間を管理する力である。集団の行先を指し示す指揮棒をここに加えることも出来る。(言葉を操り意味を創る筆を加えてもいいが、剣が既にそれを含んで充分とも言える、指揮棒も同様)(4)低い女性原理は、内側に向かう性質が、自分を責める形となり、悲劇のヒロインのように、くよくよ、いじいじし、誰もわかってくれないという想いをつのらせる態度に象徴される。○高い女性原理は、今のままありのままを全て受け容れる力となって現れる。包み、受け容れる女性器に象徴される、包含力であり、究極的にはブラックホールのように、全てを受け容れる。存在の受容は、内なる愛の悦びとなる。(5)男性原理→と女性原理○は、合わさると万物を象徴する。それは、新しいものを産む。
現在のわたしにとって、男性とは光であり、女性とは大地と海である。男性原理とは太陽の光であり、それは、全てを照らし、明確に分ける。女性原理とは、この青い星に象徴され、全てを一つに包含する。結局は、精神と身体という古くからのシンボリズムと同じことになったのかもしれないが、わたしの道はこのようであった。(それは詩や物語の形で、イメージで、本来伝えるべきなのだろうと思う。拙著「クリスマスに降る夜」では、上記のような認識がBGMとなり、物語の形となっていますので、興味がある方は、是非一読ください)

男性原理を鍛える道で、母性社会の中で困難を感じると共に、合理思考が強くなればなるほど、物事の二律背反が、自らの内側までも分けて、それが新たな課題となった流れの、概略は示したつもりである。

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少々鉛筆が薄くて見にくいが、当時、思考の剣によって、全てが二つに別れてしまうことをイメージ的に描いた図である。龍が北と南に切断されているのがわかる。

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一方、二つに分かれたものが目印となりながらも、ひとつとなり、めぐる意識の在り方について描いたのがこの図である。こちらの龍は、流動しており、これがわたしの言う龍動である。

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繰り返しになるが、上記は、合理思考によって生ずる壁について、今書いてみたものである。

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そして、これら二つに分かれたものがひとつになり、円環する意識の在り方について書いたのが上記である。 合理意識によって、分裂気味になったときには、この円環を思い起こし、事柄を当てはめることで、わたしは、だいぶ助けられた。よそ者の所へ行くと思えば、あなたの中で、身内とよそ者は分裂し、緊張が生じる。しかし、よそ者と身内は一体のものであり、めぐっているものであるという見方をすると、それは相反するもの、対立するものではなくなり、緊張が緩和する。よそ者とは、身内-なのである、身内とはよそ者+である、両者は一体である。よそ者もやがて身内になりうるし、身内もよそ者になりうる、対立する二つの組み合わせであるという見方を脱すると、何とも自由な生命が、外側に、そのためにまずわたしたちの内側でめぐりはじめる。女性原理と男性原理の旅は、ひとつの円へとわたしを導いた。このような円環意識の在り方について、わたしに雷が走った日の夜。以下のような夢を見た。

『女と男と数人でいた気がする。女が、母が死んだと言う。暗い砂浜に行くと、ビニールシートがあった。死体にかぶせているのだと思って、それを取ると、死んでいたはずの女が蘇る。「このために生まれたのかもしれない」と女は言う。「そうでしょう」とわたしは言う。「あんなに光に包まれて」と女は言う。「そうでしょう」とわたしは言う。女は、わたしの手を強く握って、どこかへ連れて行こうとする。わたしは目を閉じて、神秘的な世界に連れて行こうとする力の揺れに耐えている。やがて、目の前に緑色の光が見えて、眼前で揺れていた』

二つに分かれていた生と死が、一体となった為、死んだ女は蘇り、この円環的な見方は、運命的だと告げる。無意識生命は、わたしの認識を評価し、光の世界へと導いていこうとしている。あるいは、わたしの中で分裂していたものがひとつになった為に、生命が息を吹き返し、新しい光が生じる。つまり、新しい意識が生まれたのだ。

もし、あなたが仕事をしたくない、と感じるのならば、その葛藤の逆は、「仕事をしたい」である。あなたは本当は仕事をしたいのである。なぜなら、二つに分けているものは、本当はひとつのものだから。分けている以上は、片方だけを取ることはできない。「仕事をしたい」としたらなぜだろうと問いかけてみる。例えば、お金を手に入れたい、もっと仕事をしたい、他の仕事をしたい、となるかもしれないが、ともかく、肯定的なエネルギーの流れ方を示すWANTに辿り着く。このWANTが古くから言われる光明のハタラキであり、それを妨げないことが、合理思考というハンドルの役目である。言い方を変えると、無心に発する光、その流動が本体であり、思考はそれを助ける補助輪である。

広げた大風呂敷ほどは、うまく書くことは出来なかったが、このような認識で実際に生き、どのようなことが起こるかを、いずれは、より全体的に書ける日も来るだろう。はじまりとおわりは一体のものなのだから。それは特に物語の形を取るだろう。美しい神話に結晶することだろう。それはわたしではなく、あなたが書くのかもしれない。合理思考で切断し、次には包含し、それらのめぐりを見つめる星が夜空を流れる。

 

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