キクチ・ヒサシ

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夢分析

夢分析:蛇とわたし

2016/07/09

夢を数年記録している。学歴や職歴を記録した履歴書を眺めて、人生の流れを外面的に見ようとする態度が存在するとしたら、夢の記録は、わたしの生命の履歴書として、より深い意味を持っている。その夢を見、記録したとき、わたしは自分がどのような外的状況にいたのか、どのような意識を持っていたのかを明確に思い起こすことができる。夢は、しばしば夢見者にとって、重要なことを、神話の言葉で語る。世間向けの履歴に夢の履歴を合わせてはじめて、わたしが通った生命の道であると言える。

 

蛇

魂の通り道を塞いではいけない、と作家が新聞に寄稿したものを眼にした朝、わたしは何か別の意味がそこに重なっているように感じた。作家は、文化交流が国家間の軋轢を発端に、塞がれてはいけない、と語っていた。わたしはその夜、「蛇が通る道を空けなくてはいけない」と夢の中で叫んでいた。その夢は、直近の蛇の夢を思い起こさせた。

 

「巨大な蛇が動いていた。自分のところの机を壁にくっつけて、蛇の通り道を塞がなくてはならない、と思う。しかし、なぜか伸びた両手は、机を手前に引いた。え?これでは、蛇がむしろ通り抜けやすいではないか、と思い、このことが気にかかる」

 

わたしは、しばしば夢の中で蛇を眼にしてきた。ある時は、一進一退、蛇と棒を持ったわたしが互角の戦いをしていた。身体中を蛇が這い、動けない時もあった。道の両側に無数の蛇がいる危険な道を歩いたこともある。(その時は、猫がやってきて助けてくれた)鳥に食い殺される蛇を見たこともある。蛇を自分の仲間にして、肩の上に乗せて、松明を持って、洞窟を歩んだこともある。ユングは、蛇についてこう言っている。「私たちには蛇を殺すことはできない。無防備な動物なのだから。私たちは蛇を身近に置かねばならぬ。理由は二つだ。まず蛇の毒が解毒剤になるかもしれないからで、だとすれば、うっかり蛇にかみ殺されることはなく、私たちの身は無事だ。蛇がこの世に解き放たれているのではないことを私たちは知る必要がある。対立するものを心に抱くことで、人間性の中の生命に自分をさらすことができる。さもなければ、蛇は私たちを殺すかもしれない。悪が私たちの内面にあることを自覚しなくてはならない。生命の中に入り込むためには、生命を危機に瀕せしめねばならない。そうすれば生命は色彩豊かなものになるであろう。さもなければ本を読むのと同じだ。悪魔こそが蛇だ。キリストもまた蛇だ」蛇は、わたしの中にいた。時には協調したが、多くは、わたしと蛇の戦いであった。

 

「巨大な蛇が動いていた。自分のところの机を壁にくっつけて、蛇の通り道を塞がなくてはならない、と思う。しかし、なぜか伸びた両手は、机を手前に引いた。え?これでは、蛇がむしろ通り抜けやすいではないか、と思い、このことが気にかかる」

 

蛇の通り道を空ける、とは何を意味するのか?わたしの夢は、何度かこのことを示唆している。はじめに浮かんだのは、「蛇の道は蛇」という言葉だ。蛇が通った道は蛇にはよくわかる、という解釈で、「蛇が通った道は、その蛇でなくてもよく知っている。同類は同類の行動をよく知っている。物事にはそれぞれ専門があり、その道の専門の知識が必要である」と説明されている。わたしは思考した。「蛇の道は蛇」、蛇の通り道を塞いではいけないのはなぜなのか。蛇の通り道を空けるように、何度も夢がわたしにメッセージを送ってくるのはなぜなのか。大枠でなら意味はわかる、しかしわたしに個人的にわかるのでなくてはいけない。蛇が通った道を想像する、そこは深い森で、暗く湿っていて、危険と隣り合わせだが、生命に満ちている。蛇は大地を這って行く。わたしは木の上で身を屈めて、蛇が去っていくのを待っている。蛇が這っていった後には、道ができている。蛇の道だ。この蛇の道は、この道自体が、既に蛇であった。蛇の道は蛇。この言葉はここから来ていると直観する。蛇が通り抜けた道、その蛇の姿は今は見えない、しかし這った後が蛇のように続いている、この道自体が蛇である、そう思えば、腑に落ちるものがあった。キリストが通った道がキリストであり、釈迦の通った道が釈迦、ユングの通った道がユング。漱石の道は漱石。蛇の道は蛇。わたしが通った道がわたしである。ここまで来て、わたしは身体全体で理解する。このようなことをわたしは頭ではずっと昔から知っていたつもりでいたが、深くはわかっていなかった。そうでなければ夢が繰り返し、わたしに伝える意味はない。わたしが通ってきた生命の道が、わたしなのである。わたしは、わたしであるだけでなく、蛇でもある。わたしには蛇が棲んでおり、わたしは蛇と共に生きていかなくてはならない。にもかかわらず、わたしはわたしだけで生きようとしており、蛇の通り道を塞ぎ、蛇を殺そうとしていた。わたしがしなければならないことは、蛇の通る道を空けることである。わたしが主体なのではなく、蛇が本当の主体かもしれない。これを天と呼ぶかもしれない。自然に従う、と言うかもしれない。蛇に生かされている、とも言える。このようなところに、信仰の原点があるようだ。誰でも、蛇を飼っている。相手の蛇が通る道を尊重しなければ、相手自身にもどうにもならないところで、蛇が噛みついてくるだろう。日常意識では、対人関係を、人と人との関係と思っているが、これは、人と蛇、蛇と蛇、人と人の関係の総和である。蛇は、日本では古来より、神として崇められてきた。人に対して頭を下げるのは、相手の中にいる蛇に頭を下げるのであって、そうでなければ、蛇が祟り、時には人間が蛇に乗っ取られてしまうこともある。相手自身にもどうにもならないところで動くのが蛇だ。それは、悪魔だ。キリストもまた蛇だ。日本の山は、とぐろを巻いた蛇を象徴しているように見える、原始信仰では、山の神は蛇であった。いや、山はまさしく蛇だ。蛇よりも上位の蛇が山だ。生命の源、人智を超えた自然、荒々しく生命を奪い、生命を華やかに産み落とす。世間向けの履歴に蛇の履歴を合わせてはじめて、わたしが通った生命の道と言える。わたしが生きた、と言える。わたしと蛇とで通り抜けた道が、ワタシだ。ワタシの道がワタシだ。

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